Pの、遺跡侵攻記

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前小屋城

 常陸大宮市内を流れる久慈川とその低地に面した低地との比高約30mの大宮台地東端部に”前小屋城跡”がある。所在地は常陸大宮市泉字上ノ寺(カミノテラ)という。
 時期不明だが、佐竹氏家臣で、藤原秀郷の流れをくむ”平沢丹後守通行”という人物によって築かれたのが始まりとされる。どのような経緯があったかはまったく分かっていないが、その後、同市内西部の小場地区に居住していた佐竹一族”小場氏”の5代義忠の弟”義広(又は毎小屋竹ガン)”が室町末期の1400年代末ごろに、ここに移り住んで地名から前小屋氏を名乗ったとされている。
 竹ガンは当時、佐竹氏の内乱時に小場氏とともに宗家側について奮戦、活躍したとされる。以後、2代目竺山(チクザン)、3代忍山(オンザン)と続き、4代義親は小田城攻めで活躍したとされるが、その後の慶長7年(1602年)の佐竹氏の秋田移封に弟の義勝とともに移住、城もこのとき廃城になったと思われる。
 台地の角部分を利用して広さ約80m×約60mの台形状のⅠ郭を置き、その南側に3つほど、西側に1つほどの郭を配置している。
 Ⅰ郭は現在は種生院という無住の寺境内及び公園となっているが、寺の周囲を除き大部分は藪と山林で見通しはあまり良くない。郭の周囲を高さ最大約3mの土塁が巡り、外側を幅約10m×深さ約6mの堀が伴っている。南側にかけて、これらの堀と土塁によって区画された郭が3つほど繋がっていたようだが、中央部を道を通し畑地や宅地にするためにこれらを崩してしい、断片的な残り方になってしまっている。また、Ⅰ郭西側には約30m×約10mの仲屋敷と呼ばれる小曲輪がある。
 郭内への入城路は現在はいくつもあるが、ほとんどは後世のもとを思われるが、Ⅱ郭西側の堀に土橋を架けた食い違いの虎口らしき入口が2か所あり、これらは元々の入城路なのかもしれない。
 位置的に、久慈川の監視等も兼ねていたのではないかと思われ、また、その堀などの遺構の大きさから戦国期前半くらいの、伝承通りの時期の築城ではないかという印象である。
 なお、Ⅱ郭の字名である”仲”は本来は城の中心部である”仲城”かと思われるほか、Ⅲ郭の字名”下丁”は本来は”下城”として家臣等の屋敷等があったのかもしれない。もっとも厳重に普請されたⅠ郭は”詰の城(要害)”部分かもしれない。

画像は上から所在地、大宮町教育委員会による測量図を参考にした縄張図の順。

3番目=種生院前から北東方向を見たⅠ郭内部の様子。
4番目=縄張図内①、Ⅰ郭西側の堀内部の様子。画像左手がⅠ郭側。
5番目=図内②、Ⅰ郭東側の堀内部の様子。画像左手がⅠ郭側。
6番目=図内③の辺りから見たⅢ郭内部の様子。
7番目=図内④からⅡ郭側を見た、土橋と食い違い虎口の様子。

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閉じる コメント(4)

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前小屋城大きいですね。久慈川の西側の城は、こういう堀が大きく自分は好きです。

2017/11/22(水) 午前 9:56 [ 50storm ]

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> 50stormさん
この堀の大きさには圧倒されますね。

2017/11/22(水) 午後 8:08 [ dol*s*og*700 ]

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おおっ、前小屋城ですか。
9月23日の常陸大宮市主催の城歩きで行って来ました!
郭の残存度も高いけれど、やはりここの薬研堀はすごいですよね。

今日はお世話になりました。
またお会いする機会があるといいですね。

2017/12/2(土) 午後 9:22 [ 眼鏡小僧 ]

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> shirotanさん
こんばんは。

昨日はありがとうございました。

初めてこの城を訪れた約9年前、この城の堀を茨城町の小幡城と印象がダブったことを今でも覚えています。
それくらい、すごい規模ですね。

2017/12/3(日) 午後 8:43 [ dol*s*og*700 ]


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