Pの、遺跡侵攻記

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勝倉台館

勝倉小学校こと”勝倉城跡”より、勝倉溜を挟んで東側に”勝倉台館”という城館跡がある。所在地はひたちなか市勝倉字地蔵根という。

西の勝倉城と同様に、低地との比高約20mの台地南端部に位置し、勝倉溜がある北西及び北東方向に那珂川低地から続く谷津が入り込んでいる。

歴史や城主等についてだが、勝倉城と同様に大掾系勝倉氏や戦国期の飯島氏等が城主だったと、いくつかの郷土資料で見られるが、実際のところは不明である。ただし唯一、勝倉城の支城であるという部分は共通のようである。

付近に住むご老人によると、「ここは城ノ内といって、勝倉城の支城だった。今は陸田になってしまったが、今から25年くらい前(平成最初の頃)までは台地の端っこをぐるりと土塁が囲んでいたんだぞ。」とのことであった。過去の航空画像を見てみると、証言を裏付けるように台地端に土塁のようなものが見えており、南側中央部には折れが伴っているようにも見える。この中央部には、水戸の民間飛行機のパイロットで若くして命を落とした「武石洪波」の大きな墓石が建っており、残存する土塁の一部であるようだ。その外側には、内部に仕切りが見られる堀状の地形が残っている。昭和初期から昭和後半の間に土地の区画整理もあったようで、そして平成になって陸田になり、台地上の土地の様子は一変しており、どんな形状だったのかよくわからなくなっている。
台地斜面の東側には、まるで横堀のようなものが下っているが、これは堀ではなく、堀底道状に台地下へ降りる旧道である。

いくつかの郷土資料には、勝倉城とほぼ同規模・同形状の方形単郭に城として描いているものがあるが、現在ではよくわからなくなっている。位置的に、伝承通り、勝倉城の死角を埋めるあるいは、増員した兵士たちの駐屯地として整備された、出城のようなものだったのかもしれない。

画像は上から1975年撮影の航空写真、現在の縄張図(現況図)の順。位置を合わせてあります。
3番目=縄張図内①から南を見た、曲輪西側端部の様子。
4番目=図内②、台地南側端部にある平場および、堀状の地形。
5番目=図内③から北を見たところ。画像左手にある木が生い茂っているところが、武石墓のある部分。
6番目=図内④、旧道の様子。画像右手が曲輪側。

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なんかビミョーな物件ですね。
往時どうなっていたか。真実は迷宮入りですね。

2018/6/16(土) 午後 5:22 [ 50storm ] 返信する

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> 50stormさん
城館跡であることは間違いないようです。
こうして、この場所も忘れられていくのでしょうね。

2018/6/17(日) 午後 7:40 [ dol*s*og*700 ] 返信する

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