Pの、遺跡侵攻記

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国道349号を南進、水戸台地を上がっていき”水戸地方気象台”の脇に出る坂道がある。そのすぐ脇に旧道があるが、その旧道から細い上り坂を登ると”水戸2高”がある大町信号に出る。この細い坂道が”大坂”で、そこから南へ直線道があるが、この直線道が”大坂町”という。これを南へ進んで南町や藤澤小路といった横道を過ぎ、台地南端へ突き当たる。その突き当たったところにあるマンション敷地辺りが”藤福寺(トウフクジ)”という廃寺跡である。

現在、梅香トンネルの南側出口の東側にあるこの廃寺跡辺りは梅香1丁目というが、徳川入部から近世初期までは袋町といい、北に大坂町、東にウハ梅香+シタ梅香、西に鈴坂町+鷹匠町が隣接していた。

1400年代の室町期応永年間、この水戸一帯を治めていた吉田大掾氏は常陸府中へ出向いていた際、その留守を狙って藤原氏の一族”江戸氏”に浮の城を奪われてしまった。以後、浮地区は水戸と呼ばれ城を拡張・拡大していった。それから約40年後の寛正年間、水戸城主”江戸通房”は城域内にある”亀田(後の田町、現在は下市)”の地に、寺を建ててほしいという母堂慶隆の願いと共に、「藤原氏に福がありますように」との願いも込めて”藤福寺”と名付けた寺を建立した。正しくは”真言宗 清隆山原勝壽院藤福寺”といい、その後も通秀・通泰(初)・通俊・通政・重通の母などを葬る、水戸城主及び関係者代々の菩提寺として栄えたという。

天正18年、佐竹氏によって水戸城を占拠され佐竹氏の城となり、大改修を受けた際に亀田の地から北西の台地上、梅香の地に移されたという。しかし慶長7年の秋田移封後、徳川入部後に勢いを衰えてしまっていったらしく、東の”六地蔵寺”が寺の管理を兼務していたらしい。そして江戸初期の寛文8年〜9年、2代目藩主によって社寺改革が大規模に行われ、藤福寺も破却、整地されて跡地は武家屋敷群に変わったという。

梅香トンネル南側出口東側の、低地との比高約20mの台地先端角部に位置し、西側には南の千波湖から続く深い谷津が入り込んでいる。台地上は現在完全に市街地化しており、こちらに遺構と呼べるものはまったく残っていない。1600年代の水戸城の近世絵図には”寺”の印、別の絵図には”墓地”と思われる印が見られるが、やはり近世後半以後の改変・開発によっていずれも消滅したようである。寺が”虚空蔵尊”を置いていたこともあり、その名残から西の谷津には”虚空蔵坂”と”虚空神社”が祭られているのが唯一の遺構かと思われる。

画像は上から旧所在地、現所在地、大坂町標柱、紀州堀信号から見た虚空蔵坂、虚空神社の様子。
6番目=大坂町から見た、廃寺跡の様子。奥に見える赤っぽいマンションがそれである。
7番目=マンションの西隣の駐車場。同じく寺の墓域だったところ。

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