Pの、遺跡侵攻記

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府中城 

 Ⅰ郭の東にはⅡ郭及び、総社宮がある。Ⅱ郭は、Ⅰ郭同様に早くに開発が成され、集合住宅が建設されたため、台地上の遺構についてはほとんど残っていない。Ⅰ郭との間の残存堀切のほか、Ⅲ郭との間の堀切も一部は小学校敷地で隠滅し、更に西暦2000年になる直前辺りで大きく堀が展開していた曲輪北側を土砂で埋め立られてしまった。このⅡ郭北側の堀底に、かつて鈴ヶ池と呼ぶ池があり、天正18年の佐竹氏による府中城侵攻の際、小川城の薗部氏の娘で府中城主大掾浄幹の妻であった、鈴姫が夫によって片目を刀で刺され、深手を負わされて身を投げた場所という伝承が残る池であった。このため、この池の魚はみな片目がつぶれているんだとか。将来的には、このⅡ郭にも住宅地が建ち並ぶのかもしれない。
 Ⅲ郭の南側にあるのが、茨城の有名な神社である常陸国総社宮で、所在地は石岡市総社2丁目字総社といい、府中城としては最も南の舌状に突き出した台地突端部にある。元々、府中城にあったわけではなく、ここより北側に古代寺院国分尼寺跡がある字尼寺ヶ原(にじがはら)という土地があり、その尼寺ヶ原に祭られていた神社であったという。南北朝期、大掾詮国によって常陸国首都の拠点として城が築かれたが、その際、城内氏神として尼寺ヶ原からこの場所に移したのだという。常陸国の首都に祭られた神社なので、(常陸)国内全ての神社の中心であることから総社宮と呼ばれるそうだ。この神社の霊験にあやかろうと、室町期には太田道灌が、戦国期には薗部氏や屋代氏、その後は佐竹義宣に車丹波といった多くの武将達が願いを込めたという。この神社南側斜面には、幅約3mの竪堀のような溝が2本あるほか、更にその南側下道路沿いにも土塁で囲ったような地形があり、位置的に府中城の南の谷津を見張る物見台だったのかもしれない。

縄張図=赤い線は、迅速測図より判断した明治期当時の道。
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縄張図内①から見た、Ⅱ郭東側堀切跡の様子。この奥に、鈴ヶ池があった。
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縄張図内②から見た、総社宮の様子。
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縄張図内③、総社宮南斜面にある竪堀らしきもの。
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縄張図内④、南側道路沿いにある窪地。画像左手が古い神社参道。
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おまけ=この日出迎えていただいた府中城関係者。
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