Pの、遺跡侵攻記

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 府中城跡がある石岡小学校より、谷津を挟んで南東対岸に清涼寺というお寺がある。この清凉寺のある場所が、森木屋敷跡とされる。所在地は、石岡市国府6丁目字守木(もりき)という。
 森木屋敷は、府中城主郭部の南東対岸に谷津を挟んだ場所、ちょうどその谷津を見下ろす台地先端部に位置する。早くに寺院敷地及び市街地化が成されたためか、遺構らしきものは見当たらない。
 森木屋敷の城主は、森木氏(守木氏)とされ、鎌倉期に森木殿の名が見られるようで、その「森」(=杜=神社)という苗字から、清凉寺のすぐ東にある金刀比羅神社の関係者と思われ、中世全般を通じて大掾氏の家臣あるいは神事を行ってきたものと思われる。しかし天正18年、その金刀比羅神社とともに佐竹氏による府中城侵攻によって屋敷も焼失したという。その際、森木氏も応戦したものと思われるが、はっきりしていない。森木の苗字自体は今も県内で見ることができる。その後、佐竹氏の支配域となった文禄年間に、北の字尼寺ヶ原にあったがやはり天正18年に焼失したお寺をこの地に移した。これが清凉寺で、曹洞宗興国山清凉寺といい、当時この地を治めていた、後の秋田藩湯沢城代の佐竹(南)義種によって、常陸太田市瑞龍町の沢山耕山寺の末寺として建てたという。慶長7年に、佐竹氏は秋田へ移ったが、この清凉寺も秋田県湯沢に移り現在に至る。
 府中藩そして近代となった後もこのお寺は一貫して佐竹紋を使用しており、これは現在も変わらず、府中石岡においてここだけはほぼ完全な佐竹ワールドになっている。また、ここには世界的な漫画家「手塚治虫」のご先祖も眠っている。
 
 ちなみに、この清凉寺のご住職は、常陸佐竹研究会会長富山章一氏の講演を聞きに水戸まで通うほか、茨城城郭研究会執筆の「図説 茨城の城郭」シリーズも購入済みかつ、茨城新聞にて同城郭研究会による連載も楽しみにしていたほど、佐竹氏に関して勉強熱心な方で、ご住職曰く「開基した人物は義種であり、佐竹(南)義尚(よしひさ)としている資料類はすべて間違っています。」とのこと。
どういうことかというと、この南義尚は1572年(元亀2年)に亡くなっており、この府中とは関係無いということを最近知ったそうで、位牌も確認したところ、義尚ではなかったらしい。なんでも、江戸期に最初に書かれた資料が間違って記しているらしい(府中雑記だろうか?)。「佐竹家譜 上」の義昭・義重の部分を見ると確かにそのように記してあり、どこかで歴史の混同があったものと思われる。清凉寺墓地にある、後世に建てられた「佐竹(南)義尚の墓」も、ちょっと謎なことになっているようである(墓石の脇に小さい五輪塔の部材があり、これももしかすると大掾氏あるいは森木氏の墓石の可能性もある)。なお、開基の義種は秋田湯沢の地で亡くなり、位牌及び墓石は湯沢にある。

大掾本家のほか、三村城主も信仰していた金刀比羅神社。
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屋敷跡、清凉寺全景。
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本堂前の石畳み。五本骨扇紋が輝いています。
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南義尚の墓とされるもの。
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全景です。
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