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野曽館は、県道16号と県道59号が交差する工業団地南信号から北西に約187mの地点にある。野曽台地が東へ突き出した低地との比高約40m、南を流れる涸沼川から続く谷津が南と東、北方向を取り囲む低地との比高約40mの台地先端部にある。西側のみ台地続きとなっている。所在地は、茨城町野曽字荒谷という。
現在この場所は、民家敷地内にあるため、許可が必要です。その複数民家敷地を巻き込む形で、高さ約2mの土塁が東側を除いて良く残っている。周囲の若干の起伏から、広さは約30m四方かと思われるが、民家敷地周囲にも斜面が連続しているため、実際の城域はもっと広いと思われる。
この地の歴史としては、古くは宍戸領内だったそうだが、戦国期は江戸氏の領地かと思われる。後、佐竹氏の領地になったと思われるが、よく分かっていない。城域内の民家には現在「中坪」という屋号があるほか、この地には古くから「大高城」という城があったと伝承されている。それを示すように、城域内には苗字・屋号共に「大高」と呼ぶ家もある。この場所が大高城であった可能性は高いと思われる。このほか「茨城町史 地誌編」によれば、城之内・城屋敷・城跡屋敷・城やしきノ上・代官屋敷といった地名があったとしているが、現在いずれも消滅地名である。
県道16号を挟んで南側対岸の台地先端部には、珍しい前方後方墳の宝塚古墳があり、城跡本体よりも涸沼川流域の展望が大変利く場所にあることから、物見台あるいは祭祀にまつわる場所として機能していた可能性もある。
所在地
縄張図
縄張図内①からAの方向、南東側土塁を内部から見たところ。
図内②、館跡西側土塁を内側から見たところ。
図内③から①を見たところ。若干窪んでいる以外は遺構は無い。
図内④から西を見たところ。画像右手が郭側。狭く、周囲が高い。
南側にある宝塚古墳。周囲の周溝と相まって、ちょっとした砦のよう。
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