Pの、遺跡侵攻記

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持地館(紅葉城)

 茨城町内国道6号から鉾田市方面へ県道18号が通っているが、途中の鉾田市内紅葉(モミジ)地区で新道と旧道に分岐する場所がある。この分岐点から西に約400mの場所に”紅葉学習館”という施設がある。この施設より県道を挟んで北側にある2〜3軒の民家敷地一帯が”持地館”の跡で、”いばらきデジタルマップ”内の遺跡地図の表示位置・所在地名は間違いで、正しくは鉾田市紅葉字大乗(ダイジョウ)という。古代遺跡”大乗遺跡”と重複しています。

 車は、この”紅葉学習館”か北側の”鹿島神社”に停められます。

 この城には、持地館・用地館・用茲館・用次館(いずれも読みはモチジ)のほか、威公(徳川頼房)別邸・紅葉陣屋・小宮山楓軒居住地と、実に7種類の名称を持ち、現在は”紅葉城”という名称で遺跡登録されている。

 平安末期、鹿島成幹の4男”四郎助幹(スケモト)”がこの地に居住、地名から”用地氏または持地氏(モチジ)”を名乗ったことに始まるとされる。以来、鹿島一族”持地氏”は代々この城に住んでいたが、室町期の”上杉禅秀の乱”に参戦し討ち死にしたとされ、それによって廃城になったという。この城の所在地”字大乗”は、大掾一族が城主だったことに由来するとされる。その後は城主伝承は無く、北には海老沢氏、南には武田氏、東には烟田氏といった者たちが勢力を競い合い、いずれかの者の領地となっていたことと思われる。時代は過ぎて近世江戸期、水戸徳川の奉行所としてこの地に陣屋が置かれた。その際、見事な”紅葉の木”が立っていたことから地区名を”紅葉”に改名したという(単純に発音し辛かっただけではとも思うが・・・)。
後にこの陣屋に水戸徳川の家臣”小宮山楓軒”が住んで業務にあたったといい、幕末に焼失、別の場所に再建されたといういのがこの館跡の歴史のようだ。

 現在、館跡の南端部を県道18号が斜めに分断している状態だが、広さ約60m×約40mの方形館のような印象である。県道北側の民家裏手を土砂でかなり埋めてしまったが、本来は大きな谷津が西から東へ入り込んでいたようで、南の巴川を望む、西側へ突き出た低地との比高約20mの台地先端部に築かれている。その民家裏手には堀の名残である高さ約2mの切岸が途中まで残っている。これが唯一明瞭なこの城の遺構である。そのほか、南側の紅葉学習館の周囲も段々地形が見られるが、これらも遺構なのかは不明である。また、館跡がある台地の西側には深い谷があるが、これは江戸期に造られた運河”勘十郎堀”の跡である。

画像は上から所在地、縄張図の順。
3番目=縄張図内①、民家裏手にある城址標柱の様子。
4番目=図内①から見た、民家裏手の堀跡の斜面部の様子。
5番目=図内②、県道から見た民家西側の切岸斜面の様子。画像左手に鹿島神社が見える。
6番目=図内③から館跡を見たところ。奥の民家への直通入り口だった道。左手の植え込み外側は急斜面となっている。
7番目=図内④、県道から見た、紅葉学習館の看板と小宮山楓軒の碑標柱の様子。

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 茨城県央の鉾田市、その市街地内に”鉾田城”が築かれていた。所在地は、鉾田市鉾田字城ノ内という。
城北側にある”鉾神社”もしくは城内にあるコンビニに駐車できます。

 この城は、北から流れる鉾田川、西から流れる巴川の両河川の河口部かつ合流地点に位置し、両河川の間の中州を利用して築かれている。また、南東に広がる北浦の北端いわば源流にあたる位置でもあるため、この地方の水上交通の最重要ポイントに築かれたことになる。周囲は水が豊富な湿地帯で廃城後は水田等であったが、元々水運が盛んだったこともあって昭和になってどんどん市街地化が進み、昭和50年代後半の巴川沿岸耕地整理による土地の区画変更等により(耕地整理の前後で土地の番地も全く違う)、ほとんどの遺構は隠滅・消滅した。

 戦国期の鹿島城主”治時”の頃、訳あってこの周辺地区を治める烟田氏武田氏そして鹿島氏で3ヶ村の取り合いになってしまったことがあった。その睨みあいにクサビを打つように2村の境界に当たる場所に鹿島氏によって築かれたという。この地を任された鹿島義清は、家臣”田山保胤”を城主とし、烟田・武田両氏の監視に当たっていたという。少し時期は過ぎて天正19年に家臣が佐竹氏に内通し夜討にかけたため、城主田山氏は自刃。その子でまだ幼少であった”田山駿河”は手習いで外出中だったために難を逃れ、後、烟田地区にて帰農したとされる。以後、城主子孫田山氏はこの地区に残っている。
 鹿島氏等が滅ぼされてしまった後の文禄年間、佐竹義宣の家臣”酒勾豊後守道貞”という人物が城を任されていたらしい。廃城は慶長7年の秋田移封のころではないかと思われる。

 市街地化する以前の城内は畑地で、周囲を水田である水堀が全周し、その外側を田山氏の家臣等の屋敷群が並ぶ細長い微高地が周囲を囲んでいたようである。それらの城域は東西約200m×南北約400mであったらしい。
 現在、高須病院が建つ場所が城の中心部で、病院の西に接する場所に建物に隠れるように小さな神社と田山家の石碑、鉾田市の標柱が建てられた西の物見塚とされる土塁の一部が唯一明確に残る遺構である。その他、北側の堀の跡と思われる荒地となった水田が鉾神社の南側に隣接するほか、かつて城内だった部分は周囲の土地よりも若干地勢が高いなどの痕跡が残っている。

 遺構としては以上で、基本的には単郭の城だが、周囲を取り囲む広大な水堀でそれなりの防御力があったのかもしれない。それ以上に、水運の重要地点に陣取っているということが、この城の最大の存在意義なのかもしれない。

画像は上から、明治期作成の陸軍迅速測図にある城跡の様子(中央の畑)、縄張図の順。

3番目=縄張図内①、高須病院西に接する物見塚(要害祭祀跡)と標柱。
4番目=図内②から①を見たところ。病院と民家の間の境界線。右が城内、左の民家が堀跡。
5番目=図内③、鉾神社南側に接する、堀跡と思われる荒れた水田の様子。
一番下=鉾神社。
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鷲子城


茨城県北西部の常陸大宮市は、2町3村が合併して誕生した大型の市である。その常陸大宮市西部と栃木県馬頭町と接する辺りにあるのが”旧美和村”である。
美和村は常陸国の北西端部にあって下野国の那須領とも近いため、この方面の事実上の最前線であったためか、街道に沿って多くの城館跡が見られる。そしてこの土地柄、山地が非常に多いために平城タイプは見られず、ほぼすべてが山城タイプというのも、この地域の特徴なのかもしれない。

国道293号を”常陸太田市”方面よりひたすら馬頭町方面へ西進していけば、この旧美和村内に入る。花立トンネルを抜け、十字路を左折してしばらく進み”鷲子(トリノコ)宿”に入り、国道沿い右手に”川勾(カワワ)林産(←この辺りでも非常に珍しい名前です)”という材木加工工場がある。
この工場背後の山が”鷲子城”の跡で、所在地は常陸大宮市美和鷲子字関根といい、道路沿いに城址標柱が建てられているが、車は南側の旧道にあるお寺”善徳寺”の駐車場に停めるのがいいかもしれません。
一般的にはこの城を”河内(コウト)城”と呼び、茨城県遺跡地図でもそのように登録されていますが、江戸氏系図等の資料にはその記載が無く、ここでは”鷲子城”の名称で進みます。

なお、同名の城が北側にもありますが、地元では北側の城を鷲子城とは呼びません。

城址のある山は、国道に沿って流れる緒川の北側の、低地との比高約50mほどの南西に舌状に突き出した山上を利用して築かれ、南側は緒川による低地が広がり、北側は低地から続く谷津が入り込み、それ以外の周囲も急斜面に囲まれた要害の地形で、北東側のみ山続きとなっている。

城内には現在”稲荷神社”祭られ、入り口の鳥居はそのためである。鳥居を潜ると掘り込まれたような参道が登っていき、神社へとたどり着く。ここが郭Ⅱである。
郭Ⅱは広さ約50m×約40mほどで内部は平坦、方形に土盛りがあるがこれは先の稲荷神社建立によるものと思われる。郭の周囲は高さ約4〜5mほどの切岸となり、幅約3mほどの帯曲輪がほぼ全周し一部は外側に土盛りがされて横堀状になっている。郭Ⅱ北側には幅約3m×深さ約2mほどの堀切となって、郭Ⅰに繋がる。
郭1は約20m四方程度の五画形状で、郭Ⅱより約4mほど高く、北西角と南東角に虎口らしき小道がある。郭の北側から南西にかけて高さ約1m程度の土塁が設けられ、郭の周囲は約5m〜最大約7mくらいの斜面に囲まれ、その周囲はやはり帯曲輪・一部横堀が巡っている。
郭1の北側には深さ約4m(郭Ⅰ側より)幅約5mほどの堀切を挟んで郭Ⅲがある。
郭Ⅲは広さ約25m×約20ほどの台形状で、周囲は高さ約2mほどの斜面となって郭Ⅰから続く帯曲輪が全周している。
ここより北側は尾根が上っていっているだけで遺構は無い。

なお、内部は植林によって杉林となっており、以前は荒れて藪化していたが、ここ最近、地区の地域活性化活動の一環として、ヤブや山林の伐採が進み、全体が見やすく歩きやすくなっています。

山上は普段の生活には不向きな構造で、すぐ南側下の国道が突っ切り、材木工場が立地している部分”居館”に当たると思われる。この場所は低地よりも高さ約4〜5mほど高くなって独立した空間であり、また、ここの小字地名は”字祢古屋”という。祢古屋は城主等の普段の住まいを指す”根小屋”が変化したもので、この字祢古屋を取り囲むように、集落が配置され、さらにその外側を囲むように緒川が流れる姿は小さいながらも城下町そのものである。

この館跡の歴史等についてだが、室町期の応永年間に、水戸市所在の大掾氏の”馬場館”を占拠し初めて水戸城とした”江戸通房(ミチフサ)”の子”通治(ミチハル)”によって築かれたと云われる。要するに、水戸城の代々の城主で那珂氏の末裔である”常陸江戸氏”の一族である。
江戸氏宗家は最終的には常陸領主”佐竹氏”と敵対して追放されてしまったが、この”鳥子江戸氏”は築城以来、代々佐竹氏に仕えて下野との境目であるこの地域を守ってきたため、佐竹氏の秋田移封に同行している。
この、秋田移住時の最後の城主といわれるのが”舜通(キヨミチ?)”で4人の子とともにこの地を去っていったが、子の一人”新五郎”だけは元々病弱でもあったらしく、秋田の風土が体に合わなかったためか病気を患ってしまい、なんと単身でこの鳥子宿に戻ってきたという。
その後、江戸氏家臣”小林氏”の後の代の子孫によって文化6年(1809年)に供養碑が建てられたという。それが現存する市指定文化財”江戸新五郎墓”である。墓碑の前にはいくつか土盛りが見られるが、これは家臣”小林氏”等の塚であると云われる。

画像は上から所在地、縄張図の順。
3番目=縄張図内①、Ⅰ・Ⅱ郭間の堀切の様子。画像右手がⅠ郭側。
4番目=図内②から見た、Ⅰ・Ⅲ郭間の堀切の様子。
5番目=図内③から見た、最奥の堀切の様子。ここが城域の終わりであろう。
6番目=図内④から国道方面を見た、根小屋地区の様子。
一番下の画像は、宿の南側の外れ、畑地の中にある”江戸新五郎墓”の様子。やや左手奥に見える山が鷲子城。
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昨日12月2日、茨城大学講堂にて開催された「魅力!迫力!!茨城の城ー埋もれた中世遺跡がいま蘇るー」という講座に参加させ戴きました。

この講座のメインであろう、ヤブレンジャーのメンバーのお話も、やはり現地に赴いて実際に見て経験した話なので、とっても面白かったです。

ここのところ、自分はこの趣味への熱が冷め気味だったのですが、この講座に参加して、少し燃えてきたような感じがしました。

とてもいい1日を過ごしました。

そして本日、その熱をさらに高めようと、久しぶりに登城。

まずはリハビリも兼ねて、藪無しの、ほぼ隠滅状態の歩きやすそうなものを2か所周りました。

その後3か所目、時間も3時を回ったので、茨城町にある巨大城郭に、これまた発掘調査現地説明会以来約9年ぶりに訪れて、初めて描いてみました。

1時間ちょっといましたが、到底、終わりません。

まあ、こんな感じです。
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長者山城

 水戸市街地が広がる水戸台地の北端部の渡里町、その台地角を利用して”長者山城”が築かれている。所在地は水戸市渡里町字長者山という。
 東を那珂川、北をその支流の田野川が流れる低地との比高約30mの台地角にあり、台地上には台渡里廃寺跡台渡里官衙遺跡といった国指定の古代遺跡が密集している地区でもある。このうち、台渡里官衙遺跡の一部を利用する形でこの城は築かれている。宅地や畑地が早いうちに作られたほか、昭和の頃に城内にゴルフ練習場が建設されたため遺構のかなりの部分が破壊もしくは改変を受け、往時の姿はわかりにくくなっている。
 この地の歴史は、所在地名が示すように源義家が絡むいわゆる”一守長者”の伝説から始まる。源頼信の5男”常葉五郎義政”という人物がその長者さまであったと云われるが、関係はよく分かっていない。この常葉五郎義政という人物は、那珂川を挟んで北側対岸の那珂台地側でも居住伝承を持っている。那珂川を挟んで両岸が”常葉郷(トキワ)”と呼ばれる地域で、その支配を任されていたのかもしれない。そして、両岸台地上に住まいを設けていたのかもしれない。
 その後、水戸が江戸氏の支配域になっていた戦国時代、江戸氏家臣”春秋駿河守”がこの城に住んでいたとされる。しかし、資料に乏しく、廃城も含めて不明な点が多い。
 台地の角に広さ約80m×約50mの台形状のⅠ郭を配置、周囲を高さ最大約2mの土塁が囲み、南東角には折れが見られるほか、南と東の2か所に開口部がある。このⅠ郭土塁の外側は幅約10m×深さ約5mの見事な横堀が巡らされ、先の南東角の折れ部分はやや複雑に掘られている。
 このⅠ郭の南側には、Ⅰ郭周囲と同程度の規模の堀や土塁で区画されたⅡ郭やⅢ郭が配置されていたようだが、上記のように、ゴルフ場や宅地、畑地(現在は耕作放棄地で侵入不可能な荒地)となって遺構の破壊が進んでいる。また、標柱の西側にまるで古墳群のような土盛りが密集しているが、これらは古墳ではなく、どうも、ゴルフ場の設置物のようである。ただし、もともとは土塁を崩したものなのかもしれない。
 Ⅰ郭西側には、堀を隔てて小曲輪が2〜3つほど配置されているが、こちらも一部を除いて断片的になってしまっている。堀や土塁は小振りだが、それでも堀幅約4mはある。
 この城の南東台地続きには江戸氏の本拠地”水戸城”がある。陸伝いは当然だが、すぐ北を流れる那珂川は水戸城本郭に直通の、最短ルートであり、河川の監視の意味でもこの地にこれだけの大規模な城郭を配置するのは意味があるかと思う。それ以外にも、本郭から北を見ると、そこには佐竹氏の一族にして重鎮”戸村氏”が住む””戸村城”が見える。更に那珂川を北上すれば見ることは出来ないが、石塚氏や大山氏といった、那珂川沿いに拠点を設ける佐竹氏一族の領内である。1500年代初めまで、それら佐竹一族は身内で内乱状態にあったが解消、結束を固めて領内を統治、独立色が強めの江戸氏にとっては悩みどころだったのかもしれない。その、力を付けた佐竹氏への警戒の意味も含めて、水戸城の防衛線の穴を埋めるように数か所配置された拠点の一つだったのかもしれない。

画像は上から所在地、北から見た遠景、縄張図の順。

4番目=縄張図内①の、ゴルフ場跡に見られる土盛りの様子。手前は堀跡と思われる畑地。
5番目=図内②、Ⅰ郭入城口西側の堀の様子。
6番目=図内③から西を見た、Ⅰ郭南東の堀の屈折部。
7番目=図内④から南を見た、Ⅰ郭西側の堀内部の様子。


 余談だが、この城の縄張図を以前、常陸大宮市の職員に同市所在の「前小屋城の図を描き直しました」と言って見せたことがある。違和感は持たれたが、立地条件、各曲輪の配置・形状・規模、道路や建物といった後世の構造物の配置等が「前小屋城そのままだ」という言葉を戴いた。
 立地条件が同じなら、築城される城の形状もある程度似通ってはくるでしょうが、各種パーツ単位での配置や形状まで同じように(Ⅰ郭の西側には方形状の小曲輪を1〜2つ配置等)なるとは、素人考えですが、まずありえないのではと感じます。
前小屋城と長者山城、仕える主君も城主も違いますが同じ築城設計者が関わった可能性もあるように感じます。
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