Pの、遺跡侵攻記

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山崎古館

座標:36.244026,140.264854
 
 山崎古館は、常磐線羽鳥駅から西北西に約2Kmの地点、山崎台地の南端部の、低地との比高約10mの場所に築かれており、所在地は石岡市(旧八郷町)山崎字古館(ふるだて)という。山崎地区と半ノ木地区との境界にあり、深い谷津田を奥まで入っていくと右手に資材置き場?らしき場所があり、その東側一帯がそれである。この谷津田は東を流れる薗部川の支流であり、この谷津が北を除く3方向を取り囲み、このうち台地東から北東にかけては若干崩落もしているが、直登不可能な急斜面となっている。
 遺構だが、約50m×約15mの郭を主郭とし、削平をされているがそれほど平坦ではない。この郭の西側以外を高さ最大約1mの土塁が盛られ、東を除く3方向に幅約3mの堀が巡っている。北側にも更に深い堀があるが、館跡の西側にある資材置き場への道である可能性もあるほか、この敷地が置かれたことによって館跡西側が破壊されているようでもある。
 この館跡に関する歴史等は不明で、「八郷の地名」でも一応記述はされているが、そもそも「字古館」が全く違う場所に記されているため、同誌では存在が否定されてしまっている。全体的にダラダラとした遺構の様子から、室町末期ごろの砦・物見といった印象がある。すぐ南の水田で作業をしていたおじさんに伺ってみると、「鍛冶屋敷だと聞いている」と言っていた。
 なお、この館跡の東側に「東山崎宿」がある。それと関連するのかと思ってご老人に伺うと、この宿は明治になって移住した住民によって造られた宿であり、まだ150年程度の歴史しかないよと言っていた。その移住前の場所というのが、館跡の北側の畑地や山林などが広がる一帯であるらしい。つまり、現在は宿の西に館跡があるが、正しくは集落の南にある館跡のようである。

 このほか、館跡の北東にある「山崎塩街道遺跡」で平成25年に市道建設に伴う発掘調査が行われ、戦国期の堀跡が発見されている。ここから東には陣場という地名もあり、これらが関連しているかは不明。 

所在地
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縄張図
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東から見た遠景
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縄張図内Aから①を見たところ
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図内Aより②を見たところ
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郭内部から③を見たところ
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実質9月1日終了?

ヤフーより、9月1日をもって記事の「投稿・編集」機能を終了すると連絡があった。

サービス終了は12月15日だが、記事の投稿ができないというのは要するに、何も出来ないということで、実質9月1日がブログの終了時期ということ。

なんだかやることが、いつも急すぎるねぇ・・・


なお、ブログの移行は今のところ、考えていません。

移行したところで、次も消えるだろうし、このブログ自体あまり参考になってないし。

続ける意味、あるのかな?

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軽部城

 軽部城は、茨城デジタルマップ内遺跡地図では字コブ屋敷(又は字後)所在の「上軽部館」字軽部前所在の「軽部前館」の2つのかすみがうら市所在の城館跡として登録されているが、隣接どころか遺構に繋がりを感じさせるため、ここでは「軽部城」として1か所にまとめておく。上軽部・鹿島神社より北東に約300mの辺りにある周囲を立派な塀で囲んだ民家一帯から北側を流れる菱木川を望む低地との比高約20mの台地先端にかけてを城域とし、南側以外は台地の奥まで入り込んだ、低地から続く谷津を天然の堀として築城されている。城域内の住民に話を伺うと、この2か所とも城跡であるという認識を持っており、特に軽部前の区画については、道路わきにある土塁などがそれであると教えてくれる。この土塁は、高さ約2mある結構立派なもので、一部の土塁上には氏神様などが複数祭られている。また、上記の立派な構えの民家のすぐ西側下には古い墓石群があり、ここは下軽部所在の保元年間建立とされる真言宗長福寺の門戸で、文禄3年に温秀という僧によって建てられた西光院の跡とされる。その北側の台地上がもう一つの軽部館で、頂上から最大約2m低い位置に帯曲輪と思われる平場が周囲を取り巻いている。頂上は藪及び山林で、削平は甘いがほぼ平坦である。
 この城の歴史等については不明である。北側対岸には巨大な戦国城館跡である宍倉城があるが、それとの関係性も分からない。一応、この土地の名である「軽部」は古代の氏族の居住に由来すると思われるが、それも分からない。地名だけ残り、後にこの付近ではよくある「常陸平氏が住んで土地の名から軽部氏を名乗った」、そしてその地に屋敷を建てたといったあたりの歴史が考えられる。だが、現在軽部姓はこの地には無く、近くではつくば市に多く見られるほか、水戸市や日立市といった県北に多少見られる。軽部氏はある時期にこの地を離れざるを得なくなり、ある者はつくばの小田氏、ある者は江戸氏や佐竹氏に使えるなどして存続していったのかもしれない。
そうして時代は進み、宍倉城を築いた菅谷氏が大きく力を誇示していき、自然と軽部地区も菅谷氏の領地となっていったものと思われる。
 
 ちなみに、近世初頭の慶長7年、佐竹氏一同が常陸を離れた直後に水戸城攻めを企てたとして捕らえられ処刑された馬場氏・車氏・大窪氏のうち、大窪氏の首を手厚く埋葬するまで一時的に預かっていた家が、大窪氏元家臣の軽部氏であったという。

所在地周辺図
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縄張図
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縄張図内①、複数の氏神様が祭られた土塁
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縄張図内①から②を見た、道路沿いの土塁。山林化しているのが土塁である。
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縄張図内③、西光院跡の様子。奥の斜面は遺構の一部。
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縄張図内④、字コブ屋敷の頂上内部。一面、こんな藪である。
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縄張図内⑤、④側から見た東側平場の様子。
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戸崎要害


 
 戸崎要害は、同市所在の城館戸崎城より南西に約600m、茨城県霞ヶ浦環境科学センターの北東約250mの辺りの戸崎台地南端部にある。所在地は、かすみがうら市(旧出島村)戸崎字流替(りゅうがい)という。霞ヶ浦を望む台地の南端部に位置しながら、南側の霞ヶ浦とは直接通じておらず、戸崎城の北から東を流れる川尻川に繋がる谷津によって周囲を囲まれた比高約20mの、北に向かって伸びる台地の先端を利用して築かれている。

 遺構についてだが、城址の大部分は畑地だが周囲は藪化している状態で、土塁などは見当たらない。城域の南半分を取り囲むように幅約2〜4mの帯曲輪が最大約2m下に設けられている他、南側台地基部には東西の谷津に繋がるように掘り込んだような地形となっており、堀跡を感じさせる。また、南側より内部に入る道が土橋状になっている。北側には遺構は無く、周囲は急斜面ではあるが、登って登れないことはない程度に勾配が緩く、全体的に大雑把かつ簡素である。

 歴史については一切不明で、台地北側下にある民家の住人で、元々この地で生まれ育って60年以上という奥さんに話を聞くと、ここにお城があったような話は親から聞いたことも無いとのこと。また、「流替(りゅうがい)」という地名があることも知らないし聞かされたことは無いといい、伝承の類が一切無いと思われる。
 上記のように、簡単な遺構・伝承の有無・地名などからも、この城が臨時築城の砦かと想像され、戦国期に一時的に必要となったが、その後は使用されなくなったものと思われる。あるいはこの簡素な砦と北側の民家を、この地区の拠点「戸崎城」と言っていた時代のものなのだろうか。

所在地周辺図
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縄張図
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縄張図内①から見た、城址内部と入口部分。
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縄張図内①から②のほうを見た、南側の切岸と帯曲輪の様子。
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縄張図内②から見た、曲輪東側の切岸と帯曲輪の様子。中央の木が切岸部分。
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縄張図内③の、西側帯曲輪内部の様子。画像左手が曲輪側。
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 府中城跡がある石岡小学校より、谷津を挟んで南東対岸に清涼寺というお寺がある。この清凉寺のある場所が、森木屋敷跡とされる。所在地は、石岡市国府6丁目字守木(もりき)という。
 森木屋敷は、府中城主郭部の南東対岸に谷津を挟んだ場所、ちょうどその谷津を見下ろす台地先端部に位置する。早くに寺院敷地及び市街地化が成されたためか、遺構らしきものは見当たらない。
 森木屋敷の城主は、森木氏(守木氏)とされ、鎌倉期に森木殿の名が見られるようで、その「森」(=杜=神社)という苗字から、清凉寺のすぐ東にある金刀比羅神社の関係者と思われ、中世全般を通じて大掾氏の家臣あるいは神事を行ってきたものと思われる。しかし天正18年、その金刀比羅神社とともに佐竹氏による府中城侵攻によって屋敷も焼失したという。その際、森木氏も応戦したものと思われるが、はっきりしていない。森木の苗字自体は今も県内で見ることができる。その後、佐竹氏の支配域となった文禄年間に、北の字尼寺ヶ原にあったがやはり天正18年に焼失したお寺をこの地に移した。これが清凉寺で、曹洞宗興国山清凉寺といい、当時この地を治めていた、後の秋田藩湯沢城代の佐竹(南)義種によって、常陸太田市瑞龍町の沢山耕山寺の末寺として建てたという。慶長7年に、佐竹氏は秋田へ移ったが、この清凉寺も秋田県湯沢に移り現在に至る。
 府中藩そして近代となった後もこのお寺は一貫して佐竹紋を使用しており、これは現在も変わらず、府中石岡においてここだけはほぼ完全な佐竹ワールドになっている。また、ここには世界的な漫画家「手塚治虫」のご先祖も眠っている。
 
 ちなみに、この清凉寺のご住職は、常陸佐竹研究会会長富山章一氏の講演を聞きに水戸まで通うほか、茨城城郭研究会執筆の「図説 茨城の城郭」シリーズも購入済みかつ、茨城新聞にて同城郭研究会による連載も楽しみにしていたほど、佐竹氏に関して勉強熱心な方で、ご住職曰く「開基した人物は義種であり、佐竹(南)義尚(よしひさ)としている資料類はすべて間違っています。」とのこと。
どういうことかというと、この南義尚は1572年(元亀2年)に亡くなっており、この府中とは関係無いということを最近知ったそうで、位牌も確認したところ、義尚ではなかったらしい。なんでも、江戸期に最初に書かれた資料が間違って記しているらしい(府中雑記だろうか?)。「佐竹家譜 上」の義昭・義重の部分を見ると確かにそのように記してあり、どこかで歴史の混同があったものと思われる。清凉寺墓地にある、後世に建てられた「佐竹(南)義尚の墓」も、ちょっと謎なことになっているようである(墓石の脇に小さい五輪塔の部材があり、これももしかすると大掾氏あるいは森木氏の墓石の可能性もある)。なお、開基の義種は秋田湯沢の地で亡くなり、位牌及び墓石は湯沢にある。

大掾本家のほか、三村城主も信仰していた金刀比羅神社。
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屋敷跡、清凉寺全景。
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本堂前の石畳み。五本骨扇紋が輝いています。
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南義尚の墓とされるもの。
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全景です。
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