Pの、遺跡侵攻記

茨城県の遺跡他、自分の趣味を紹介するブログのつもりです。

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しばらく止めます

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シーズン中にもかかわらず、2月初旬を最後に、お城巡りをしていません。

正直、この趣味に割と飽きました。

なんというか、趣味というよりは仕事?のような感じになってしまい、ぜんぜん楽しめません。

なので、充電期間ということで、しばらくお城・歴史趣味はお休みします。

いつ再開するかは分かりません。

再開しないかもしれません。


訪問いただいた方々、ご支持いただいた方々、ありがとうございました。



画像は、今の今まで一度も地元で広告等のPRがされていない催しものポスター。

茨城県北とは何ら関係無い人物と、解釈していいんですよね?

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プレミアムバンダイで予約していたプラモデル、HGUCクロスボーンガンダムX3の2月発送分がそろそろ届くのでしょうか。

自分は2次予約の3月発送分を注文しました。

楽しみですね。


しかし、実は2015年9月ごろ、既発売のクロスボーンX1のプラモを改造して作っちゃってたりします。

ビルドファイターの影響?もあってか、このころ結構勢いでいろいろ作ったんです。

以前紹介したガンイージもこの前年だったかな。


そこで、ちょっと紹介(自慢?)させて頂きます。


使用キットはHGUCクロスボーンガンダムX1に、HGBFクロスボーンフルクロス、HGFCシャイニングガンダムです。

基本的には劇中通り?に、X1のままで細かい違いの部分を作ることになります。


頭部アンテナ=形状はX1のまま、塗り分けの境界をナイフで掘り込んだのみ。

アンテナ中央の額パーツ=形状はX1のままで、X1ではドクロレリーフが付いていた穴を埋め、0.5ミリプラ板で「3」のマークを作ります。小さいです。

胸部コクピットカバー=フルクロスのパーツそのまま、ガトリングがある眼窩内部をピンバイスで穴開け。

腕カバー(Iフィールド発生器)=たぶん、想像した人が多そうなシャイニングガンダムの腕カバーを使用。ですが、まったく形状が違います。なので、実際にクロスボーンの腕の大きさ、そしてマスターグレードX3の腕カバーの形状とを比較しながら、その形にニッパーで切り飛ばしちゃいます。その後は、シャイニング本来のモールドが消えるまで、X3のちょっと平面的なカバー表面になるまで、ナイフや棒ヤスリで削りまくって形を整えます。

腕カバーの腕への接続は、X1のブランドマーカー(ビームシールド)のアームパーツをそのまま使用。というか、ビーム発生器が差し替え、アームのみ可動するというパーツ構成って今思うと、X3の発売を見越してのものだったんでしょうかね。

カバー内部というか、腕側内部には市販パーツでそれっぽく作りこみ。

形状変更は大体こんな感じで、色について基本色のブルーは、ガイアノーツのVRカラー景清風ブルーを使用。


今更な改造記事ですね、ほんとに。


画像は上から腕カバー部分の刷り合わせ→改造→改造後の順。
4枚目=カバー内部というより、腕側内部。
5〜6枚目=頭部アンテナ中央パーツの「3」の加工の様子。
一番下=大雑把に、完成。

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東野館

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だいぶ以前、常陸大宮市所在の城館跡”東野城”を紹介した。その東野城の、谷津を挟んですぐ南側に多数の墓地を有する廃寺跡がある。だがここには廃寺跡だけではなくもう1箇所、城館跡があった。所在地は常陸大宮市東野字西新谷寺内(ニシアラヤジナイ)という。

北側の東野城よりやや低い、低地との比高約20mの独立台地を利用して築かれており、西を流れる玉川低地に四方を囲まれている。

最初にここを50stome殿に案内いただいたときには、この場所が館跡とは思っていなかった。畑の跡か、良くて廃寺跡か程度だったのだが、後々に、背後に堀があることを知り再訪、城館跡と確信するに至った。
館跡の前に住むおばあさんがこの日、斜面の草払いをしていたので伺ってみると、城跡という話は聞いたことが無いそうだ。
しかし約5年くらい前に、頂上のヤブ払いを行った際、あまりにも平坦なので「これは何かが建っていた場所なのでは?」と付近ではちょっとした話題になったらしい。

頂上に位置する郭は広さ約30m四方の方形状で、南西に開口部がある。後世の作業道のようにも見えるこの開口部が根拠で、最初は城館跡とは気づかなかった。
似たようなものが東野城にもあるため、いわゆる坂虎口というものなのかもしれない。
この主郭には他にも東西2ヶ所に入口があり、このうち東側のものは麓の集落や北側墓地との行き来が可能なので、後世に付けられた可能性もある。西側の細い小道がもしかすると当時のものだろうか?

主郭周囲は鋭い切岸となり、北側約5m下には幅約3m×深さ約2mの堀切がある。西側は消えてしまうが、東へは途中から帯曲輪となって西側まで取り巻いている。
更に南西方向へ段曲輪が続き、途中には幅約3mの浅い堀切もある。

基本的にはこれだけの、単郭の城という感じであるが、周囲を取り巻く切岸は見事な印象である。

佐竹一族の東野氏がこの地に居たとされるが、この城の城主なのかというと、そのあたりはまったく分かっていない。もちろん築城時期も不明だが、残る遺構から判断すれば、堀はあるが、どちらかと言えば切岸に頼った印象があり、室町末期から戦国初期くらいのものという感じもする。
跡目争いをきっかけに発展し百数十年続いた佐竹氏の内紛、その最終戦と言えるいわゆる「部垂の乱」と呼ばれる、この地域の緊張が極度に高まってきたあたりの時期に築かれたと想像するが・・・

この城が築かれたときには、北側にはまだ東野城は無かったように思える。


画像は上から所在地、縄張図、南側から見た遠景、北西から見た遠景(画像右手の林、左手の林は東野城)。

5番目=縄張図内,ら見た、主郭内部の様子。

6番目=図内◆⊆膤堙貘Σ爾梁啅蔑悗陵融辧

一番下=図内から西を見た、主郭北側下の堀切内部。画像左手は主郭側。

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仮称:下小瀬滝山城

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常陸大宮市旧緒川村の宿を御前山地区方面へ南進、左手に”川崎城(下小瀬城)”がある台地が見えてくる。

この台地のちょうど西側対岸に高い山が見える。この山の山頂部が仮称:下小瀬滝山城の跡である。所在地は常陸大宮市緒川下小瀬字滝山という。

地図上で標高162.2mの三角点がある山が書かれているが、そのすぐ東隣のピークがそれで、県道辺りとの比高約110m、周囲は急斜面で一部は断崖絶壁となり、また山の周囲を深い沢が流れているため容易に取り付くことは出来ない。

この山のすぐ東下を緒川が大きく蛇行して流れていたのだが、昭和7年ごろに食料増強政策の一環で川崎城の辺りで河川の流れを変え、広い水田となった。

山頂にある主郭は広さ約40m×約20mの南東方向へ広がる三角形状で、内部の削平は甘い。南側一部に虎口状に窪んだ部分があるが、これは後世の神社を祭っていた跡と思われる。
周囲には、帯曲輪が配置され、特に南側にかけて段曲輪を集中して配置している感じである。
また、東から北東にかけて尾根が下りながら続き、それらにも段々地形が見られるが、遺構なのか岩盤露出の風化による地形なのかが判別し辛い。

遺構としては以上で、堀や土塁といったものが無く、全体的に古い造りなのが分かる。南北朝期から室町初期ごろにかけて造られた物見ではないかと思われ、南東方向、緒川下流域の谷筋を監視するのが主な役目だったのではと思われる。

すぐ東対岸に”川崎城”があり、当初はそれの向館かと思っていたが、あまりにも遺構の様子がかけ離れているため、川崎城が築かれたころにはこちらは当の昔に廃城になっていたのではと思われる。


画像は上から所在地、縄張図、県道側から見た遠景。

4番目=縄張図内,ら南東側を見た、主郭内部の様子。

5番目=図内◆⊆膤堝發亮侈未琉貮堯

一番下=図内、城祉へ至る登り口。

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小瀬高館城

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小瀬(オセ)地区の2ヶ所の城館から北西に「高館山」という一際高くそびえる山が見える。その名の通り、この山の山頂が”小瀬高館城”の跡で、所在地は常陸大宮市緒川上小瀬本郷字高館という。

国道293号より、左手に緒川を見ながら新しい道路である県道163号を走っていくと蛇行した緒川に架かる橋がある。その手前を右手に民家の間を抜ける小道を入っていくと行き止まりとなる。車はここに停めることができる。
そこから後は山道を進んでいくと鞍部となり、その先は道が下っていく。このとき、左手に緩い勾配を登りながらヤブを越えていくと城祉南端部の堀切を意識したような土塁付き帯曲輪に出る。

先の県道辺りとの比高約130mの山頂を利用して築かれている。

広さ約100m×約30mの長方形状の騎圓如∋鯵囘正擇喊声劼祭られた内部を段々に削平しているが、ハッキリとした部分もあるが全体的に大雑把である。南側には、土塁付き帯曲輪や土塁・段曲輪を持つ恭圓蕕靴場所が、幅約4m×深さ約1m程度の規模は大きいがかなりボヤっとした感じの堀切Aを挟んで設けられている。

郭気療貘Δ砲蓮南北端部に横堀があるが、途中で土塁が消えて間は削平が甘い帯曲輪となる。一方の西側には幅の広い帯曲輪が2段ほどあり、一部には外側に土塁を盛って横堀状にしているほか、竪堀を設けて上下間の通路としているように感じる部分も見られる。

主な遺構は以上で、比較的規模は大きいが全体的に大雑把な造りで、堀や土塁もあまりハッキリとした感じではない。ただ、切岸の高さや勾配はあるため、どちらかといえば段郭に頼った造りに見える。前回紹介した”小瀬城(小瀬館)”と形状や細かい部分の造りの印象がよく似ている感じがする。
あるいは、小瀬城同様に、室町期の長倉城の攻防の頃に築城・機能していたのかもしれない。また、この場所は居住には不向きの場所であり、普段は麓の”塙地区”に根小屋に相当するものがあったのではと思われる。

この城の詳しい歴史は不明であるが、一説には小瀬氏の初期の居城という説もある。

山道を登りきった鞍部、城址の南側に多数の塚群がある。十三塚なのか、あるいは墓地なのかは不明。


画像は上から所在地、縄張図、小瀬ゆうがい城から見た遠景。

4番目=縄張図内 ↓騎堙貘Δ砲△覯K戮鯔未ら見たところ。

5番目=図内△ら見た堀切Aの様子。画像右手が騎埖Α

6番目=図内から見た、騎堝睇瑤陵融辧2菫中央に小さく神社が見えます。

一番下=図内ぁ南側にある塚群のうちの1基。

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