Pの、遺跡侵攻記

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戸崎要害


 
 戸崎要害は、同市所在の城館戸崎城より南西に約600m、茨城県霞ヶ浦環境科学センターの北東約250mの辺りの戸崎台地南端部にある。所在地は、かすみがうら市(旧出島村)戸崎字流替(りゅうがい)という。霞ヶ浦を望む台地の南端部に位置しながら、南側の霞ヶ浦とは直接通じておらず、戸崎城の北から東を流れる川尻川に繋がる谷津によって周囲を囲まれた比高約20mの、北に向かって伸びる台地の先端を利用して築かれている。

 遺構についてだが、城址の大部分は畑地だが周囲は藪化している状態で、土塁などは見当たらない。城域の南半分を取り囲むように幅約2〜4mの帯曲輪が最大約2m下に設けられている他、南側台地基部には東西の谷津に繋がるように掘り込んだような地形となっており、堀跡を感じさせる。また、南側より内部に入る道が土橋状になっている。北側には遺構は無く、周囲は急斜面ではあるが、登って登れないことはない程度に勾配が緩く、全体的に大雑把かつ簡素である。

 歴史については一切不明で、台地北側下にある民家の住人で、元々この地で生まれ育って60年以上という奥さんに話を聞くと、ここにお城があったような話は親から聞いたことも無いとのこと。また、「流替(りゅうがい)」という地名があることも知らないし聞かされたことは無いといい、伝承の類が一切無いと思われる。
 上記のように、簡単な遺構・伝承の有無・地名などからも、この城が臨時築城の砦かと想像され、戦国期に一時的に必要となったが、その後は使用されなくなったものと思われる。あるいはこの簡素な砦と北側の民家を、この地区の拠点「戸崎城」と言っていた時代のものなのだろうか。

所在地周辺図
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縄張図
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縄張図内①から見た、城址内部と入口部分。
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縄張図内①から②のほうを見た、南側の切岸と帯曲輪の様子。
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縄張図内②から見た、曲輪東側の切岸と帯曲輪の様子。中央の木が切岸部分。
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縄張図内③の、西側帯曲輪内部の様子。画像左手が曲輪側。
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 府中城跡がある石岡小学校より、谷津を挟んで南東対岸に清涼寺というお寺がある。この清凉寺のある場所が、森木屋敷跡とされる。所在地は、石岡市国府6丁目字守木(もりき)という。
 森木屋敷は、府中城主郭部の南東対岸に谷津を挟んだ場所、ちょうどその谷津を見下ろす台地先端部に位置する。早くに寺院敷地及び市街地化が成されたためか、遺構らしきものは見当たらない。
 森木屋敷の城主は、森木氏(守木氏)とされ、鎌倉期に森木殿の名が見られるようで、その「森」(=杜=神社)という苗字から、清凉寺のすぐ東にある金刀比羅神社の関係者と思われ、中世全般を通じて大掾氏の家臣あるいは神事を行ってきたものと思われる。しかし天正18年、その金刀比羅神社とともに佐竹氏による府中城侵攻によって屋敷も焼失したという。その際、森木氏も応戦したものと思われるが、はっきりしていない。森木の苗字自体は今も県内で見ることができる。その後、佐竹氏の支配域となった文禄年間に、北の字尼寺ヶ原にあったがやはり天正18年に焼失したお寺をこの地に移した。これが清凉寺で、曹洞宗興国山清凉寺といい、当時この地を治めていた、後の秋田藩湯沢城代の佐竹(南)義種によって、常陸太田市瑞龍町の沢山耕山寺の末寺として建てたという。慶長7年に、佐竹氏は秋田へ移ったが、この清凉寺も秋田県湯沢に移り現在に至る。
 府中藩そして近代となった後もこのお寺は一貫して佐竹紋を使用しており、これは現在も変わらず、府中石岡においてここだけはほぼ完全な佐竹ワールドになっている。また、ここには世界的な漫画家「手塚治虫」のご先祖も眠っている。
 
 ちなみに、この清凉寺のご住職は、常陸佐竹研究会会長富山章一氏の講演を聞きに水戸まで通うほか、茨城城郭研究会執筆の「図説 茨城の城郭」シリーズも購入済みかつ、茨城新聞にて同城郭研究会による連載も楽しみにしていたほど、佐竹氏に関して勉強熱心な方で、ご住職曰く「開基した人物は義種であり、佐竹(南)義尚(よしひさ)としている資料類はすべて間違っています。」とのこと。
どういうことかというと、この南義尚は1572年(元亀2年)に亡くなっており、この府中とは関係無いということを最近知ったそうで、位牌も確認したところ、義尚ではなかったらしい。なんでも、江戸期に最初に書かれた資料が間違って記しているらしい(府中雑記だろうか?)。「佐竹家譜 上」の義昭・義重の部分を見ると確かにそのように記してあり、どこかで歴史の混同があったものと思われる。清凉寺墓地にある、後世に建てられた「佐竹(南)義尚の墓」も、ちょっと謎なことになっているようである(墓石の脇に小さい五輪塔の部材があり、これももしかすると大掾氏あるいは森木氏の墓石の可能性もある)。なお、開基の義種は秋田湯沢の地で亡くなり、位牌及び墓石は湯沢にある。

大掾本家のほか、三村城主も信仰していた金刀比羅神社。
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屋敷跡、清凉寺全景。
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本堂前の石畳み。五本骨扇紋が輝いています。
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南義尚の墓とされるもの。
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全景です。
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税所屋敷

 国道6号貝地信号を南東方面へ曲がり、県道118号を進むと左手に万福寺というお寺がある。この万福寺境内を含む一帯が、税所(さいしょ)屋敷の跡とされる。所在地は、石岡市茨城(ばらき)1丁目字茨城(ばらき)という。
 城主は、古代から続く府中6名家の1家「税所氏」で、元々は大坂などの近畿地方で力を持っていた「百済氏」とされる。その名前の通り、百済氏はお隣、朝鮮半島の古代民族の末裔とされ(現在の朝鮮人とは血のつながりも含めて一切関係無いらしい)、代々都周辺におけるに関する職を担っていたらしい。今でいえば、国税局?あるいは財務省?及びその職員といった感じでしょうか?
それは、地方の各国府に転属となってからも維持され、後に大掾氏と同様に、職名を苗字とし税所と改めたようである。常陸の税所氏は、常陸国府において同様の地位・役職にあったようだが、後にそれらの役割が薄れていくと、この地の領主大掾氏の有力家臣・武士として仕え、各地への転戦、他勢力による府中防衛などに同行していたようである。この頃になると、百済氏の血筋も途絶えてしまったらしい。また、税所氏が書き記した文書関係は、現在でも第1級の資料として茨城県の歴史解読に役立てられているほか、1400年代末期の文明年間に、当時の城主税所貞成によって城域内に建てられたのが、曹洞宗光林山万福寺とされる。戦国末期の天正18年、佐竹氏による府中城侵攻に際して迎え撃ったものと思われるが生き残り、佐竹氏移封後の慶長年間に屋敷を去り、以前紹介した北側の街中にある元同僚の居住地の弓削屋敷に移住、その場所で有力者として近世・近代を生き抜いたという。現在は、茨城県内には税所氏は居なくなってしまったものと思われる。
 遺構についてだが、堀や土塁といったものは一切無く、土地の起伏などによって、北側下を流れる山王川低地から続く谷津が南北に入り込んだ地形を利用して築かれていることが見て取れる程度である。このほか、境内のお寺本堂裏に税所氏歴代の墓石が並んでいる。

航空写真
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万福寺入口
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入口の西隣
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本堂裏の墓地、税所氏の墓石群。古そうな宝篋印塔がある。
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健児所屋敷

 古代から続く常陸府中6名家のうち、「金丸氏(かねまる)」の居住地については不明である。もう1家、その居住地がいまいちはっきりしない「健児所氏」という一族がいる。
 健児所氏は、「こんでいしょ」し又は「こにしょ」しと読み、「健児(所)」とは古代の兵士、現代で言えば警察とか治安維持部隊などに相当する役職及び管轄役所のことである。平安末期以降、その役職を継いできた一族が大掾氏と同様に一族の苗字として名乗り始めたことに始まるという。苗字とした一族での呼び方は「こにしょ」で統一されているようで、健児所とか金泥とか、近世には近衛所などと書き、平安末期以来、大掾氏家臣として防衛・祭事などで府中の一角を担っていたようである。天正年間の府中落城以後も存続していたが、明治10年代に健児所徳次郎という人物を最後に途絶えてしまったらしい。
 所在地についてだが、石岡市の歴史について記した複数の資料によれば、市内貝地1丁目字貝地にある月天宮(がってんぐう)と南東の茨城廃寺(ばらきはいじ)の間一帯にあった岩城内(いわぎぢ)と呼ばれた辺り、または、その北東の台地先端の字小山辺りと推定している。現在、岩城内一帯は、一部畑地となっている以外は住宅地で、堀や土塁といった遺構は見当たらないが、南北を流れる河川低地から続く谷津が何本も周囲を巡っている様子で、それらを天然の堀としてこの地に屋敷を建てていたものと思われる。また、南東の古代寺院、茨城廃寺との間の倉庫脇に石仏が寄せてあり、この辺りは健児所氏と関係する「ちまぐれ」と呼ばれるお堂跡・墓所跡であったらしい。そのほか関係する場所として、北東方向へ続く坂道「こんでい坂」や、その先の山王川に架かる橋「こんでい橋」などがある。このこんでい橋及び常磐線を越えた目の前の台地、現在は南台1丁目から東石岡2丁目にかけての団地を「字兵崎(びょうざき)」といい、健児所が仕切る兵士達の詰所・練兵場に由来する地名とされる。府中城の守りであることは間違いないが、位置的には、すぐ南にある古国府こと、石岡城(外城)の関係屋敷という意味合いが強いのかもしれない。

航空画像と推定地
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航空画像内①、月天宮の様子。
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航空画像内②、月天宮東側の畑地。岩城内の範囲内に当たる。
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航空画像内③、茨城廃寺跡西の交差点にある倉庫、ちまぐれ地内の様子。
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上記の倉庫脇にある石仏と宝篋印塔の部材。
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航空画像内④、台地下から見た、こんでい坂の様子。画像右手が字小山。
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航空画像内⑤、常磐線貝地踏切より見た、こんでい橋跡。矢印、低い部分。
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 常磐線石岡駅の南西にある石岡プラザホテルから、その西の華園寺までの住宅地一帯約130m×約90mの範囲辺りが弓削屋敷の跡である。所在地は石岡市国府1丁目〜2丁目字室ヶ井(むろがい)という。
 弓削屋敷は、慶長年間より昭和の最初の頃まで存続した税所(さいしょ)氏の屋敷跡として知られ、近世に住んでいた税所門弥という人物にちなみ、地元では「もんや様」という呼び名で長く呼ばれ続け、この土地の有力者及びその屋敷として存続していたという。上記の通り、税所氏が住んだのは慶長年間からで、それ以前は、古代から続く府中6名家の1家「弓削氏(ゆげ)」の屋敷であり、中世を通して大掾氏の家臣として仕えたが、天正14年の江戸氏による竹原城の攻防で「竹原のゆけの小屋打落し」の出来事(「烟田旧記」より、弓削氏が守っていた小屋という意味?=弓削砦)、天正18年の佐竹氏による府中城侵攻などによって、天正年間で弓削氏は滅んでしまったという。
 遺構だが、東を流れる山王川から続く深い谷津が南北に入り込み、それらを天然の堀とし、また、敷地の大部分は住宅地となって隠滅・消滅してしまったが、かつては敷地の周囲を土塁が取り巻き、南から東、北へ堀を巡らせていたという。このうち、東側に設けられた堀は道路となった今も残っており、唯一明確な遺構と言える。
 
なお、一族かどうかは不明だが単純に弓削という苗字としては、古代から現在まで、茨城県に残る唯一の6名家の名称のようである。

縄張図
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「石岡の地名」内、天保年間 府中町絵図の一部。
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縄張図内①、屋敷内にある稲荷神社。
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縄張図内②から南を見た、屋敷跡東の堀跡。
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縄張図内③から南を見た、屋敷跡南側の谷津田跡。
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