Pの、遺跡侵攻記

自分の趣味を紹介するブログのつもりです。

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再開そして 告知

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3月いっぱいで休止していたこのブログ、約3ヶ月ちょっとぶりに再開です。

最初の記事は告知から。


すでにあちらこちらで紹介されていますが、今から約10年ほど前に出版された


「図説:茨城の城郭」


自分もかつて購入し、これを見ながらいろいろ巡った辞書のような、そんな書籍でしたが、

実物に関しては残念ながら現在は入手不可能と呼んで差し支えないほど入手困難な本でした。

その改訂版がこの夏出版されます。

誤字・脱字といった細かい修正のほか、カバーが「国安城」から「つくば多気山城」に変更、国安城や笠

間城ほか多数の縄張図の更新など、大きく中身に変更を加えて、生まれ変わりました。



そして、この本の続編となる


「続 図説:茨城の城郭」


が夏というか、ネット上で調べてみると今月7月末ごろに発売されます。

店頭に並ぶのはずれるかもしれませんが、8月にはお店で見かけるようになると思います。

「図説:茨城の城郭(改訂版)」では142箇所、そして今回の「続 図説:茨城の城郭」では新たに2

09箇所の城館跡を新掲載。

有名どころではなく、まったく知られていない場所ばかりなので、前書以上に”人を選ぶ本”になってい

ますが、これを見ながら改めて地域を巡るのもいいのではないでしょうか?



国書刊行会URL=http://www.kokusho.co.jp/np/result.html?writer_id=30011


アマゾン他のショッピングサイトでも予約を受け付けています。

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プレミアムバンダイで予約していたプラモデル、HGUCクロスボーンガンダムX3の2月発送分がそろそろ届くのでしょうか。

自分は2次予約の3月発送分を注文しました。

楽しみですね。


しかし、実は2015年9月ごろ、既発売のクロスボーンX1のプラモを改造して作っちゃってたりします。

ビルドファイターの影響?もあってか、このころ結構勢いでいろいろ作ったんです。

以前紹介したガンイージもこの前年だったかな。


そこで、ちょっと紹介(自慢?)させて頂きます。


使用キットはHGUCクロスボーンガンダムX1に、HGBFクロスボーンフルクロス、HGFCシャイニングガンダムです。

基本的には劇中通り?に、X1のままで細かい違いの部分を作ることになります。


頭部アンテナ=形状はX1のまま、塗り分けの境界をナイフで掘り込んだのみ。

アンテナ中央の額パーツ=形状はX1のままで、X1ではドクロレリーフが付いていた穴を埋め、0.5ミリプラ板で「3」のマークを作ります。小さいです。

胸部コクピットカバー=フルクロスのパーツそのまま、ガトリングがある眼窩内部をピンバイスで穴開け。

腕カバー(Iフィールド発生器)=たぶん、想像した人が多そうなシャイニングガンダムの腕カバーを使用。ですが、まったく形状が違います。なので、実際にクロスボーンの腕の大きさ、そしてマスターグレードX3の腕カバーの形状とを比較しながら、その形にニッパーで切り飛ばしちゃいます。その後は、シャイニング本来のモールドが消えるまで、X3のちょっと平面的なカバー表面になるまで、ナイフや棒ヤスリで削りまくって形を整えます。

腕カバーの腕への接続は、X1のブランドマーカー(ビームシールド)のアームパーツをそのまま使用。というか、ビーム発生器が差し替え、アームのみ可動するというパーツ構成って今思うと、X3の発売を見越してのものだったんでしょうかね。

カバー内部というか、腕側内部には市販パーツでそれっぽく作りこみ。

形状変更は大体こんな感じで、色について基本色のブルーは、ガイアノーツのVRカラー景清風ブルーを使用。


今更な改造記事ですね、ほんとに。


画像は上から腕カバー部分の刷り合わせ→改造→改造後の順。
4枚目=カバー内部というより、腕側内部。
5〜6枚目=頭部アンテナ中央パーツの「3」の加工の様子。
一番下=大雑把に、完成。

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先月の11月21日にバンダイより発売した、144分1スケールHGUCシリーズ”Vガンダム”を購入、それから昨日までのほぼ2週間ぶっ通しで改造し続け、ようやく完成いたしました。

これが何かというと、93年放映の”機動戦士Vガンダム”の中に登場する主人公機のガンダム、その量産型に当たる機体で、名前を”ガンイージ”といい、変形合体といった特殊機構が無い代わりに、無駄をそぎ落としたバランス型、シンプルイズベストを地でいくMSで、所属部隊のせいでパイロットのほとんどが女性っていうのも話題となり、デザイン共々結構な人気の機体です。

当時、コレクションシリーズとして144分1スケールで発売されたものの店頭からは姿を消し、ここ1年ちょっとの間に再販となったものです。また、HGUCシリーズという新しいシリーズで主人公機”Vガンダム”が発売されるという情報を得た直後にそのガンイージのキットを改めて購入し、どうせ発売されないだろうという思いから、2つのキットを合わせて造ってしまおうと考えていました。

なんとかなるかと思いきや、まず、元々この2機種をデザインされた方がそれぞれ違うということを忘れていたため、元にした素体のガンダムが”関節部・パーツはめ合わせ用のピン及びその受け穴”程度しか残らなかったです。
また、ガンダムの関節部等を若干削りこんで調整するだけで、以外にも旧キットの外装パーツがスポッとはまったのには驚きました。
そのためか、ほとんど外装パーツの干渉を受けずに一部Vガンダム以上に可動範囲が広がってます。

ガンダムを同程度に動かせて遊べればいいというのが目標でもあったので、一応塗装はしていますが、全体的に色ムラがあったり、塗装すらしていない箇所があったり、また、合わせ目の削りこみもしていなかったりしますが、自分としては結構、満足いく出来かななんて思ってたり。

これで来年以降に発売決定とかなったりすると、ちょっと悲しくなっちゃうかも。

まあ、買いますが……


上から3枚目の画像で、左に写ってるのが元キットのHGUCヴィクトリーガンダム。

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弥彦・桔梗城

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今回は初めての日本海側の、そして新潟県の城館跡の紹介です。

新潟県の日本海に面した中央部やや北よりにある有名な観光名所”弥彦神社”であるが、その神社の東側の”競輪第1駐車場”や県道を挟んで台地が向かい合っている。この台地上には現在”弥彦総合文化会館”が建てられているが、これよりも更に東奥に中世城館”桔梗城”が築かれている。所在地は新潟県西蒲原郡弥彦村字荒城という。

この城跡は現在は城山森林公園として整備され、上記の弥彦総合文化会館の他、広場がいくつか設けられ、散策路が何本も設けられていて、各所に案内板が設置されている。ところが、この案内板に書かれていない道もあるようで、以外に分かり辛くて迷いやすい。
管理人が訪れたこの日も、時間が無かったために早歩き状態だったためか迷ってしまった。一番早いルートは、神社から階段を登ってきて弥彦総合文化会館南前の舗装道を通り抜けると”陽だまり広場”という場所に出る。この広場入り口と先の道路との間に細い山道が登って行っているので、これを登って延々と尾根を伝っていけば城址に行ける。しかし、史跡公園、散策路等に整備といっても最近はあまり手を入れているようには見えず、この日は10月初めで気温も高めということもあってか、以外に下草が多く、道は足を一歩踏み出すだけで小さなカエル達が無数に跳ねていき、また、ニョロニョロさんが待ち伏せしている状態であった。
そのため、あまり隅々まで散策出来なかったのが心残りである。

弥彦神社東側にある台地の一部が突き出した形の先端部、東から北にかけて広大な水田地帯が広がり、南側も低地から続く谷津が入り込んだ低地との比高約80m、弥彦神社との比高は約30mほどの要害の地形に築かれている。主郭部には三角点が設置されていて、標高86.2mを示している。

先の入り口を登ってくると最初に”城山平”と案内板に記された場所に出る。といっても特に遺構らしきものが見当たらない楕円形状のピークで、一応は平坦にはなっているので城の後方監視の役目があったのかもしれない。それを過ぎて鞍部を越えるとやがて堀切靴肪り着く。
堀切靴蓮幅約5m×深さ約2m程度で北側のみ竪堀が伴っているが、南側は散策路となってしまっている。ここを越えて約15mほど進むと堀切靴汎欝模の堀切兇ある。ここも本来は両脇に竪堀を伴っていたようである。
堀切兇らは南北に道が付けられているが、両方とも郭気亮囲を巡って郭掬貘Δ遼拈抬気箸隆屬寮擇蠶未靴嚢舂する。
この両方の小道は現在は散策路であるが、かつては帯曲輪であったのかもしれない。合流したところから西に登ると郭気貌る。
郭気蝋さ約50m×約7mほどと非常に細長くカーブした形となっていて、内部は平坦で案内板と古びたベンチが設置され、東側に一段低く平坦地がある以外は土塁もなにも無い。
道の合流地点から東に登ると郭兇ある。ここは広さ約40m四方程度の四角形状で、やはり土塁等は見当たらない。東側に一段低く幅約5mほどの平坦地があり、そこから東側斜面にかけて帯曲輪が何段か設けられている。
このほかにも周囲の斜面部にはいくつか平坦地があるようなのだが、残念ながら時間切れで見ることは叶わなかった。

ところで、騎圓鉢恭坿屬遼拈擇覆里世、多くのブログやHP等ではこの散策路切り通しの部分を堀切としているようであるが、よく見てみると切り通しと恭圓隆屬療个蠍に土塁と切れ込みがあり、しかも両脇斜面部には深い竪堀が伴っている。どうもこの切り通しは散策路を設置する際に大きく削り取ったように感じ、切り通し脇に残る溝が堀切気箸いΥ兇犬する。

遺構としては以上で、土塁や横堀を持たない以外に古さを感じさせる造りで、茨城県北部の国安城や美和村地区等の南北朝期頃の山城を思わせる感じである。

歴史としては当村HPに掲載されていたものを以下に載せておく。

平安時代天喜年間(1050年代)源頼光の一族であった弥彦庄司吉川宗方がこの城を築き、康平6年(1063)黒鳥兵衛の乱を防いだと伝えられているが、弥彦神社自衛のために早くからここに簡単な塁を築いたのが始まりであろう。
戦国期に至り、城主黒田秀忠は長尾景虎に抗して自殺し、その後は黒滝城主山岸秀能の支配となった。
慶長3年(1598)上杉景勝の会津移封により廃城となった。
<以上、弥彦村HPより転載>

東側の燕市一帯を一望できる位置にあり、弥彦神社やその周囲の村落の物見・防衛ということもあったのだろうが、後には黒滝城の支城の一つに落ち着いたのかもしれない。

画像は上から所在地、縄張図の順。

3番目の画像は、縄張図内 郭菊睇瑤鯏貘Δら見たところ。

4番目のは、図内◆郭兇ら見た堀切気陵融辧2菫手前が推定堀切(着色部分)、奥が切り通し散策路。

5番目と6番目はそれぞれ、図内の堀切(右手が主郭側)、い亘拈抬(奥が主郭)の様子。

一番下の画像は、図内ァ⇒曚世泙蟾場脇にある入り口。

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撤去されました

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今回はちょっと休憩。
我が地元、常陸太田市にある廃寺跡のことです。

茨城県北部の旧常陸太田市北部増井町にひっそりと佇むお寺がある。茨城県の歴史ツアーなどでおなじみでもあり、茨城県の戦国大名”佐竹氏”の初期の墓石や水戸徳川2代目藩主の家臣”助さん”こと”佐々宗淳”の墓石がある”正宗寺”である。
この正宗寺の北東約200mほどのところ、南側に源氏川が流れ、現在は水田や畑地、宅地になっている微高地があるが、ここも正宗寺と関連が深い”勝楽寺”という廃寺跡である。

勝楽寺は正宗寺より歴史が古く、延元元年(923年)に鎮守府将軍平良将が増井寺を創建したと云われる。その後、永承6年(1051年)に源義家が前九年の役に下向途中に朝敵調伏の祈願を行ったことが縁となって真言宗に変わり”大瑞山勝楽寺”と改称されたという。その後、境内に子院正法院、正宗寺が建てられていったという。
この勝楽寺は後の慶長初年に兵火で焼失し、それ以後も正法院とともに建物等は再建されず、正宗寺を残して廃されてしまったと云われている。

この勝楽寺跡について、現在は宅地や水田、畑となっているものの、それらの配置が当時のままという部分が多々あって、割と容易に当時の寺の範囲などが判明したと云われている。しかし、それ以外にまったく遺構が無いわけではなく、実は当時の遺物が残っていた。それが”盤陀石”と呼ばれる庭園庭池に設置されていた石である。
大小合わせて3つの石が水田の端に残っていて、正宗寺に設置されていた案内板にもそれが書かれ、この地を訪れた方々の多くがこれをご覧になられたと思います。

そんな、過去に行われた測量等の調査でも間違いなく基準の一つになったであろう、当廃寺跡のほぼ唯一のパッと見ですぐわかる遺物の盤陀石なのですが…

今年の3月の終わりか4月の初めくらいだったでしょうか。撤去されました。

理由は恐らく単純に”田んぼの邪魔”ということでしょう。文化財指定になってなかったものとはいえ、これはちょっとあんまりなのでは?

上の画像は今年2010年3月21日撮影のもの。

下の画像は2009年6月13日撮影のもの。

両者とも大体同じ位置から撮影しています。
残存していた頃のこの画像が、まさか最後を写したものになるとは思いませんでした。

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