Pの、遺跡侵攻記

自分の趣味を紹介するブログのつもりです。

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府中城 

 Ⅱ郭の東にあるのが石岡小学校敷地及び住宅地となったⅢ郭である。Ⅲ郭は、広さ約200m×約250mの五角形状で、北東角に高さ約3mの大土塁の一部が残るほか、北西斜面に堀と帯曲輪の一部が残っている。この帯曲輪は更に西側へ土塁となって谷津の中へ延びていき、谷津を東西に区分けして大堀に変化させている。これらの遺構は、元々は小学校西側を除く3方を大土塁が外側に堀を伴って囲み、北側の堀は西へ延びて谷津を区分けする土塁に繋がっていたのだが、明治半ばの頃に大土塁を崩して平らにして学校を建設したり広大な畑地にしてしまったらしい。そして昭和・平成になって学校敷地を更に広げて土地を改変したほか、西側谷津に伸びた土塁も輪郭はそのままに谷津に土盛りして住宅地になってしまった。そのため、土塁の先端部がわずかに顔を覗かせている程度である。
 Ⅲ郭に入る入口は、明治の迅速測図などから判断すると、南西角・北・東の3か所のようで、東以外の2か所については現在も学校入り口として残っている。東入り口だが、市の公式では市民会館南側の駐車場及び車道を指定しているが、実際はもう少し南側の民家の間の細い通路のようである。
 Ⅲ郭は、古代からの常陸国の”県庁”である国府が置かれた場所とされ、その国府を取り込み整備する形で作られたという。広さも城内では最大であり、国府という意味合いの他、Ⅰ郭が城主のプライベート空間であったと思われるので、政治・外交・そして戦闘全てを司るこの城の実質的な本郭であったと思われる。

縄張図
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縄張図内①=市民会館裏手の大土塁。
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縄張図内②=総社宮北東参道。Ⅲ郭南側の堀跡である。
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縄張図内③=Ⅲ郭西端の様子。
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縄張図内④=③北側斜面の帯曲輪の様子。
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縄張図内⑤=帯曲輪から続く土塁の先端部。画像右手がⅠ郭側。
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縄張図内⑥=Ⅲ郭東側入口に繋がる小道。
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府中城 

 Ⅰ郭の東にはⅡ郭及び、総社宮がある。Ⅱ郭は、Ⅰ郭同様に早くに開発が成され、集合住宅が建設されたため、台地上の遺構についてはほとんど残っていない。Ⅰ郭との間の残存堀切のほか、Ⅲ郭との間の堀切も一部は小学校敷地で隠滅し、更に西暦2000年になる直前辺りで大きく堀が展開していた曲輪北側を土砂で埋め立られてしまった。このⅡ郭北側の堀底に、かつて鈴ヶ池と呼ぶ池があり、天正18年の佐竹氏による府中城侵攻の際、小川城の薗部氏の娘で府中城主大掾浄幹の妻であった、鈴姫が夫によって片目を刀で刺され、深手を負わされて身を投げた場所という伝承が残る池であった。このため、この池の魚はみな片目がつぶれているんだとか。将来的には、このⅡ郭にも住宅地が建ち並ぶのかもしれない。
 Ⅲ郭の南側にあるのが、茨城の有名な神社である常陸国総社宮で、所在地は石岡市総社2丁目字総社といい、府中城としては最も南の舌状に突き出した台地突端部にある。元々、府中城にあったわけではなく、ここより北側に古代寺院国分尼寺跡がある字尼寺ヶ原(にじがはら)という土地があり、その尼寺ヶ原に祭られていた神社であったという。南北朝期、大掾詮国によって常陸国首都の拠点として城が築かれたが、その際、城内氏神として尼寺ヶ原からこの場所に移したのだという。常陸国の首都に祭られた神社なので、(常陸)国内全ての神社の中心であることから総社宮と呼ばれるそうだ。この神社の霊験にあやかろうと、室町期には太田道灌が、戦国期には薗部氏や屋代氏、その後は佐竹義宣に車丹波といった多くの武将達が願いを込めたという。この神社南側斜面には、幅約3mの竪堀のような溝が2本あるほか、更にその南側下道路沿いにも土塁で囲ったような地形があり、位置的に府中城の南の谷津を見張る物見台だったのかもしれない。

縄張図=赤い線は、迅速測図より判断した明治期当時の道。
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縄張図内①から見た、Ⅱ郭東側堀切跡の様子。この奥に、鈴ヶ池があった。
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縄張図内②から見た、総社宮の様子。
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縄張図内③、総社宮南斜面にある竪堀らしきもの。
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縄張図内④、南側道路沿いにある窪地。画像左手が古い神社参道。
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おまけ=この日出迎えていただいた府中城関係者。
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府中城 

 令和初の紹介城館なんですが、お城趣味としても初登城、神社にも初訪問、初御朱印と、実は初めて尽くしな物件です。
 まあそもそも、お城趣味なんだからこの場所は行ってて当然ということが、まったく当てはまらないのが当ブログ管理人Pなんですがね・・・


 府中城は、石岡市市街地の端部にある石岡小学校を中心とした一帯にあり、所在地は石岡市総社1丁目字古城(こじょう)という。南を流れる志筑川(現:恋瀬川)とその広大な湿地を望む、低地との比高約20mの台地端部を利用している。この台地には、その志筑川低地から続く谷津が何本も深く入り込み、これらが天然の水堀となっている。
 この城の歴史としては、常陸大掾職の平国香を先祖とする常陸平氏がこの地を治めていたが、、平安末期に庶流で主に水戸地方を治めていた吉田系一族(馬場)資幹が宗家を継いだことに始まるとされる。資幹から、職名であった大掾を家名にしたと云われ、以降、宗家は大掾氏と呼ばれていき、鹿島・行方・真壁・小栗といった非常に多くの一族を生み出しそれぞれの土地で大きく発展していき、常陸国の大半は平氏が治めていた平氏王国であったが、南北朝期は北条氏や足利氏、佐竹氏などに付いたりといった対応だったらしく、この時期の当主詮国によって初めて府中城は築かれたという。その後、室町初期の上杉禅秀の乱を経て、多くの一族が滅亡したり移住を余儀なくされ、宗家もその力を落としてしまったという。それを示す事件として、府中で行われた祭事青屋祭に一族が参加、それによって留守になった水戸の屋敷が藤原一族江戸氏に占拠されてその地方の影響力・所領を失ってしまった。室町末期には、その江戸氏が南進、大掾一族小幡氏を攻め立てたという。これに対し、同族小幡氏支援のために出陣、小鶴原で江戸氏と合戦に及んだとされる。そして戦国期、北から江戸氏、南や西からは小田氏や真壁氏が府中侵攻を繰り返したほか、東からは園部氏もちょっかいを出し始めるなど、ほぼ四面楚歌といった状態が続いていたようである。そんな状態が続いた戦国末期、小田氏によって南の拠点三村城が落城してしまう。この時期はもう1勢力の佐竹氏も味方に付いたり敵になったりと非常に強い影響を与え、天正18年に豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったことも影響し、同年末に秀吉から公認を得た佐竹氏によって水戸城の江戸氏と共に、府中城も攻められて落城、城主大掾清幹は自刃し、これによって府中は佐竹氏の領地となり、府中城は佐竹(南)義尚が城主となり、現在に続く町割りの基礎を作ったという。しかし慶長7年に佐竹氏は秋田移封となり、直後に入れ替わりで六郷氏が入ったとされる。後に、六郷氏も出ていき、今度は皆川氏が入った。その皆川氏が出ていった1700年代以降、府中松平氏の領地となって城内に陣屋を設けた。その後、明治になってしばらくは畑地であったようだが、半ばの頃に学校用地となり校舎が建設され、今の石岡小学校となって周囲は住宅地へと変わっていった。府中城は、奈良時代からこの常陸国の中心地、現在の呼び方で県庁所在地にあたるこの地区と共に、発展や衰退を繰り返してきた城郭と言える。
 城の遺構等についてだが、上記の通り明治半ばに学校地となってから急速に市街地化が進み、現在も宅地開発が行われ残存状況はあまり良くない。とはいえ、明治17年の陸軍迅速測図や現地の土地の起伏などからある程度の姿は想像できるかと思う。
台地最西端部にⅠ郭を置き、東にⅡ郭、更に東に小学校が建つⅢ郭、それら3つの曲輪を取り囲むようにⅣ郭が設けられ、大きく4つの曲輪で構成されていたようで、更にその周囲を多くの砦を配置して防備を厚くしていたようである。このうち、Ⅲ郭跡の小学校敷地東端には高さ約4mの土塁が残っており、残存遺構としてはもっとも良好かつ知名度がある場所である。また、Ⅲ郭とⅠ郭の間にあるⅡ郭にはかつて堀切が残っていたが、西暦2000年の直前あたりで埋められてしまったが、それでも幅約10m×深さ約5mの堀切の一部が残っている。このⅡ郭北側下にかつては鈴ヶ池という池があったという。この他、Ⅰ郭西突端部には、上部が削られて下部のみが小規模な畑として使用されている土塁(もしくは櫓台跡)の残欠があるほか、総社宮南側斜面には竪堀らしき溝、Ⅲ郭周囲には谷津から派生した大堀や切岸、箱之内台地北側斜面には先の大堀(谷津)に繋がる帯曲輪など、城の遺構と思われる地形が広範囲にわたって残っている。


縄張図
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縄張図内①=Ⅰ郭東堀切の残存部
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縄張図内②=Ⅰ郭西突端部の土塁残欠
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縄張図内③=Ⅰ郭西端部の堀跡の様子
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縄張図内④=Ⅰ郭西端の切岸。上記の土塁跡の斜面部
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縄張図内⑤=Ⅰ郭南側の切岸の様子
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縄張図内⑥=Ⅰ郭南側下にある、曲輪のような民家と堀跡?
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連休中の改元参り

改元、そして5月連休。

自分はこれまでの活動のお礼(というかお詫び?)と新元号・新時代もご迷惑をおかけしますという挨拶目的で、主要な神社をお参りかつ御朱印を戴きに行きました。
行った場所は、府中・若宮八幡・吉田そして最後に、ここのところお世話になっている鹿島様。

改元記念御朱印目当てでしょうか、どこも参拝客でいっぱいですね。
鹿島様はこれが普通でしょうかね。

実は自分は、かつて祖父母に手を引かれ、鹿島鉄道で訪れて以来、約30年ぶりの訪問だったりします。
あのときのうっすら残る記憶を引っ張り出して歩いてみると、何とも言えない気持ちになりましたね。

でもここ、東照宮とか御岩山同様の、徳川ワールドな神宮なんですよね・・・
ちょっとお願い事はしたくないです。

そんな鹿島神宮大鳥居のすぐ脇(西側台地端部)の林に中には、さりげなく幅約8mくらいの堀跡がわずかに残っていたりします(4枚目の画像)。

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大戸館

平成最後ですからね。
昭和から平成まで所在不明だった城館跡でも紹介したいと思います。

 大戸館は、南に涸沼前川を望む低地との比高約30mの大戸台地先端部付近、大戸小学校より道路を挟んで北東に約160mの住宅地にあったと思われる。所在地は茨城町大戸(おおど)字馬場前という。
 この館は、近世資料「水府史料」の中で「大城(おおしろ)坪と云う所にあり。北に門口と云う地あり。又陣所跡と云うあり。四方拾五間ほど、高土手を構へ堀あり・・・」と記述がされるほか、近世以降の多くの郷土資料において場所や遺構の様子が記されているにもかかわらず、未だに発見されたことが無かった。「茨城町史 地誌編」を見る限りでは、幕末ごろの地名でもその名が見られないようで、想像だが、現地で言っているだけのいわゆる俗称地名であって、元々小字として正式に登録されたものではなかったのかもしれない。今回、付近の住民数人に尋ね歩いて昔は言っていたという場所として、ようやくその場所が「武熊神社の1の鳥居脇の住宅地」と判明した。
 館の遺構としては、方形に道が囲っているため、区画を想像できる程度である。もっと詳しく館跡を紹介すると、区画南東側の住宅地のみが大城と呼ばれていた場所であり、近世資料にもある規模の約30m四方という大きさとも一致する。戦後まもなく既に民家が建っていたが、この時点でも、遺構はある程度残っていた可能性もあるが、現在は周囲より若干土地が高いという程度である。
 この地の歴史として、平安末期に石川系大掾清幹の長男盛幹が吉田太郎と称して大戸に居住、後に国幹が大戸氏を名乗ったことに始まるとされる。その後しばらくは大掾氏の土地であったが、応永年間以降は水戸城を築いた江戸氏の領地となり、その後、佐竹氏の領地となった。城は小規模であるが、大掾の時代というよりは江戸氏の時代に築かれた屋敷だったのかもしれない。
 なお、この土地をご存じだった住民数人はいずれも90代の高齢者のみであった

画像は上から所在地周辺図、1947年航空画像、縄張図の順。
4番目=縄張図内①、火の見櫓の様子。右手奥が神社の1の鳥居。
5番目=図内②、館跡南側の様子。右手が館跡。
6番目=図内③、神社参道脇、館跡東側の様子。
7番目=図内④から南を見た、区画西側のクランクした部分。
一番下=図内⑤から東を見た、館跡全景。

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