Pの、遺跡侵攻記

自分の趣味を紹介するブログのつもりです。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全10ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]

[ 前のページ ]

イメージ 1

11月1日、今日は常陸大宮市文化センターにて「よみがえる戦国の城」と題して、大学の教授らを招いてのシンポジウムが開かれたので、この講演を聴いてきた。
午前と午後の2部構成で行われ、自分はこのうち午後の部に参加した。目的は当ブログでもたまに書き込みをしていただいている、”余湖くんのホームページ”の管理人”オレンジャー”こと余湖さんの講演である。
時間の関係で午後の部は全体的に短縮されてしまったが、各大学教授の説明、主催した茨城大学の学生さんたちの説明など、なかなか濃い内容の講演であったと思う。そんななかでも”常総戦隊ヤブレンジャー”という名前はかなり際立っておりましたが…
ともあれ、茨城ではあまり行われない企画だったのは間違いないでしょう。参加したお客さんたちにも、かなり関心を持たせられたのではないかと思います。今後も、このような企画が行われることを期待したいです。もちろん、他の地域でも。

感じたことをいくつか。
終了前のコーディネーターさんの一言「余湖さんに来て頂いて良かった」という言葉、自分もうなずいていました。
学校在学の頃は授業は寝てしまえがモットーだった自分の考えで申し訳ございませんが、普通、こういった講演の場は大抵、堅苦しい雰囲気になってしまうと思います。当たり前ですが…
そこを余湖さんがいい感じに笑いを誘って聞きやすい雰囲気にしてくれていたのが印象に残りました。終盤の何か言いたそうな顔をしていたのも良かったです。

あとは何気にヤブレンジャーのみなさんというか、”図説:茨城の城郭”の執筆者達が以前のつくば市多気山城現地説明会以来、ほぼ全員来ていたというのも、かなり驚きました。そんなこんなで、とても充実した午後からの数時間でした。

現地でお会いしたみなさま、また機会がありましたらご一緒できることを楽しみにしております。


暗い画像になってしまって申し訳ないのですが、余湖さんの講演中のお姿であります。

開く コメント(2)

多気山城現説

イメージ 1

イメージ 2

本日13日は、つくば市北条の地にある山城”多気山城”の発掘調査現地説明会が、絶好の行楽日和の中、午前と午後の2回に分けて行われました。自分はアオレンジャーさんと共に、午後の部に参加してまいりました。

この多気山城には実は初登城なのだが、他のいろいろな方々が茨城癸韻了馨襪班床舛気譴討い訥未蝓∨榲にすごい遺構であった。
郭の周囲を取り巻く深さ約7mほどの横堀には圧倒されるばかり。しかもこれが2重に構築されているから驚きは2倍どころではない。
今回の発掘では誰が築いたかなどはよく分からずじまいだったが、小田氏を撃退した後の16世紀後半に今の姿になったのは間違いないようである。調査員の方は、築城指示を出したのは佐竹氏が、築城担当をしたのは真壁氏や多賀谷氏あたりではないかと考察されていた。

この多気山城の発掘、宗教団体による営林事業の施設建設に伴う記録保存で、今回限りで後は大部分が消失すると思われる。団体側は”寺社による営林事業”なる文書まで出して、山の景観は保存されるとしているが、それはあくまで遠くから見た山の姿であって、山の内部はどうでもいいのであろう。自分が住む土地の殿様が関わった城が、また一つ、消えてしまうと思うととても胸が苦しくなる。
時代の流れなのかね…

ちなみに、ここへは真っ直ぐ向かったわけではなく、午前中は内原・友部・笠間、午後は筑波山付近・八郷など所々寄り道していった。いずれそれらについては紹介すると思います。
今日はとにかく、おなかいっぱいの1日でした。


上の画像は、多気山城の1郭の南側にある通称”馬ノリバ”という鞍部西側の堀。

下の画像は、帰りに寄った八郷町にある”善光寺”境内にある”小田一族の墓”。

開く コメント(14)

開く トラックバック(1)

伝:佐竹氏の墓

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

城里町の”龍崖城”の1回目の攻めの帰りに訪れたお寺の紹介です。

城里町内を走る県道61号を城里市街地方面より笠間方面へ西進、しばらく走ると”古内(フルウチ)地区”に入り、水戸市成沢町方面より来た県道51号と合流する信号を過ぎて少し走ると右手に、”清音寺”というお寺がある。ここは一旦、旧道に入らなければならないが、案内板やら看板等が建っているので場所は分かると思う。

清音寺は南側を除く3方を高い山に囲まれた谷間にあり、また現在は、鳥居の建つ入口から舗装道が真っ直ぐ伸びているので、車で入ることが出来るが、すぐ脇には旧参道や門等が今も残っている。

太古山獅子院清音禅寺といい、大同4年(809年)に弘法大師が草庵を設けたのが始まりとされ、その後、文和元年(1345年)に時の領主”佐竹9代貞義”が没し、子の”10代義篤”が100日忌のため復庵宗己を招いて開いた”臨済宗”のお寺である。
境内を見ると建物等が新しく感じるが、1237年の鎌倉時代、1580年の戦国時代の2回を兵火で、昭和15年に伽藍等と、過去3回燃えてしまったことが原因のようである。

歴史も古い由緒あるお寺だが、ここにはまたスゴイ方々のお墓がある。
入口(旧門脇)を抜けて左の案内板の更に奥に、5基の宝篋印塔がある。1基は清音寺を開山した復庵宗己、残りがなんと常陸領主”佐竹氏”の墓石である。その造りから、南北朝期の建立されたといわれ、史実の通り、義篤さんの頃なのであろうと思う。


一番上の画像は国土地理院の地形図に描き込んだ寺の所在地(赤×印)。

2番目の画像は清音寺本堂。

一番下の画像は、境内西側にある宝篋印塔。
画像右から、1180年に”源頼朝”が現在の石岡市辺りまで”佐竹討伐”のために挙兵し、金砂山城にて戦闘を繰り広げた”金砂城の戦い”。奇策により落城して常陸北部(奥州)、現在の北茨城市に山奥にある花園神社に敗走した常陸4代目領主”佐竹秀義”さんの墓石と云われる。

右から2番目の一番小さい墓石
初期の佐竹氏は常陸平氏と親密であった。1180年の”富士川の戦い”で平氏と戦い勝利した源頼朝は、源氏でありながら平氏と親密で敵対関係である佐竹氏討伐のため挙兵した際、頼朝の縁者”上総広常”に矢立橋に呼ばれ、謀殺されてしまった佐竹4代目秀義の実兄”佐竹義政”の墓石と云われる(現地案内板では名前が”政義”なので注意)。本来は別の場所に首塚として埋骨されていたが、江戸時代の天保年間に弟の眠る清音寺に改葬したのだという。

右から3番目の墓石
1303年に多賀郡手綱に竜弧山(現在の竜子山)に興禅寺を建立、また、鎌倉幕府の討幕運動の際に幕府軍として”笠置山攻め”に参加、後に”足利尊氏”の調略を受けて討幕軍に寝返り、1335年に常陸守護に任じられた9代目領主”佐竹貞義”さんの墓石。

右から4番目の墓石
清音寺を開山した”大光禅師復庵宗己”和尚の墓石。

一番左(奥)の墓石
父である9代目領主”佐竹貞義”の菩提寺として清音寺を開いた張本人、10代目領主”佐竹義篤”の墓石。

結構山奥の田舎である旧常北町、意外な史跡が多くて非常に侮りがたし…

開く コメント(0)

飯盛山城

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

福島県会津若松市一箕町の東にある、戊辰戦争時に白虎隊が自刃した地として有名な”飯盛山”がある。この飯盛山の山頂を利用して築かれたのが、飯盛山城である。
この城へは、先のヤブレンジャー会津方面ツアーに参加させていただき訪れた。初めての会津地方でもある。
山は、東から北西方向へ突き出した形で、飯盛山という名称は飯を盛ったような山の形に見えるというところからとったらしい。標高368.5m、麓の白虎隊の墓等がある辺りからの比高差は約80mほどである。山頂へは、白虎隊の墓の脇もしくはさざえ堂の後から延びる小道を入っていけば行くことが出来る。他の観光客の、”何か変な生き物を見たときの目”よろしく視線を受けながら、この道を登っていくと、縄張図内,龍蔑悗暴个襦J臣鈎呂如幅約10m×長さ約30mの広さで、ここは下草が多い。10月ということで、滞空するオオスズメバチのオマケ付き。ここから南方向へ山頂を目指して登っていくが、途中何箇所か平坦なところがあり、これらも腰曲輪等であろう。また、この登城ルートの東側脇に土塁が盛られ、幅約3〜4mほどの横堀となって約80m程続き、途中で折れ曲がって竪土塁(たてどるい)となっている。この構造は自分ははじめて見た。ここを過ぎて斜面沿いに東から南へ回り込むと、堀切状の鞍部に出る。この部分から更に南東へ行くともう一つ堀切があるらしい。この鞍部より北へ斜面を登るとここが主郭部となる。全体の広さは約60m×約50m程度の三角形のような感じで、中心部付近が盛り上がり南方向へ斜面が下って、その先に盛土がされた物見台がある。と思っていたら後で知ったのだが、この山頂部は”飯盛山古墳”という遺跡と重複していた。全長65mの前方後円墳1基と南に円墳1基がある。この城はこれら古墳を郭や物見として、その周囲に堀切を入れて、いくつかの平坦部等を設けて用いていたようである。
時間の関係から、残念ながらすべての遺構を見れたわけではないが、大まかな感じは以上である。城主等はよく分からない。葦名氏の頃に築城されたのだろうか?
南北朝期の会津地方は、南朝方の領土であったらしいが…

いきなり茨城県外の山城を紹介したが、実は前回の記事と繋がっていたりする。そう、”楠木正勝”さんの伝承がここにもあったのである。
楠木正成さんの子、正行(まさつら)さんが戦死した”四条畷の戦い”があったが、この戦の敗戦理由に、ある”僧”の裏切りがあったのだそうだ。戦後、楠木一族が再興を思いながら各地に散り、ここ会津に土着した者も居たらしい。そして、その裏切りを忘れない為に、故郷の河内地方にある山と同じ名を付けた。それが”飯盛山”であったという。
この飯盛山より南へ約1.5kほどのところ、東山町に天寧寺というお寺がある。このお寺、葦名11代盛信が応永28年(1421年)に”傑堂能勝(けつどうのうしょう)”というお坊さんを招いて建立したそうである。この傑堂能勝というお坊さんこそ、正勝さん本人であるらしい。

真実のほうは分からない。だが、ここに城があるということで立ち寄っただけなのに、まさか正勝さんの伝承にここでも遭遇するとは…。この人に何かしらの縁を感じ始めている今日この頃である。


画像は上から、市営駐車場より見た遠景、城址縄張り図。

3番目の画像は、縄張図内,諒臣撹堯2質陲世蕕韻礼。

4番目のは、図内△痢⊆膤塢(前方後円墳)にある祠。

最後の画像は、図内の、主郭部北側にある堀切。

開く コメント(2)

水戸城 発掘調査

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

先日11月16日(日)、曇り時々雨という冴えない天候の中、水戸市中心部の江戸さん宅、水戸城の発掘調査現地説明会に行ってきた。お昼過ぎまで家族で紅葉見物した後、急いで帰宅し2時半からの説明会に参加という、強行日程であった。
現在、発掘が進められているのは水戸二中全面改築のために一時的に壊された校舎跡地および水府橋交差点道路脇の2箇所です。
茨城新聞や読売新聞等に掲載された障子堀があったのは水戸二中校舎側です。この障子堀が造られた年代を調べてみると、江戸さんがご在宅だったころだそうです。以前の発掘で、大規模に谷に手を加えた跡が出てきたことがありましたが、今回の発掘成果で、江戸さんによる改築がかなり大掛かりであったという、史実とはだいぶ様相が違ってきてしまったのは確実だそうです。
ところでこの障子堀って、県南地区では主に北条系の城館に見られる形態だそうだが、それがここ水戸市で見られるとは思わなかった。あくまで想像(妄想)だが、この障子堀は防御用というよりは溜池というか用水路的なものとして使ったのかな?とか思ったりする。江戸氏系の城館って結構、水路や溜池などと関係が深いからその延長かなと考えたのだが、真実は?
台地下の道路沿いの堀跡だが、発掘前に行われたボーリング調査で、推定深さ5m程度だという。16日現在、ようやく3m近くの深さになったそうで、明治時代くらいまではきたらしい。今現在分かっているのは、コーナーの確認、土・粘土・砂等を交互に積み上げた版築構造です。また、堀に溜まっていた灰の層がありそれを調べると第二次大戦で焼けた廃材のもので、堀が現在の地表面の高さまで埋まったのは意外にもつい最近、大戦直後だったらしいです。
調査員の方も言っておりましたが、水戸城についてようやく一歩足を踏み出した段階とのこと。実際、多くの資料にも載っているため、水戸城のこと知っている人は大勢います。ですが、水戸城の全容はまったく不明です。光圀を始めとする徳川による佐竹消しと、ろくに発掘調査もせずに開発を最優先してしまったのが原因でしょう。残念ながら今回も、記録調査終了後に破壊されてしまうようです。


上から2番目の画像は、発見された障子堀。発見場所は、地図内赤丸A右側の、赤い棒線辺り。

3番目のは、台地下道路脇の現場。地図内赤丸Bの棒線の辺り。周りの鉄板は崩れ防止用である。

4番目のは、一昨年の調査で発見された瓶と古銭の一部。発見場所は、地図内のプール付近。

開く コメント(0)

全10ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10]

[ 前のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事