Pの、遺跡侵攻記

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 常磐線石岡駅の南西にある石岡プラザホテルから、その西の華園寺までの住宅地一帯約130m×約90mの範囲辺りが弓削屋敷の跡である。所在地は石岡市国府1丁目〜2丁目字室ヶ井(むろがい)という。
 弓削屋敷は、慶長年間より昭和の最初の頃まで存続した税所(さいしょ)氏の屋敷跡として知られ、近世に住んでいた税所門弥という人物にちなみ、地元では「もんや様」という呼び名で長く呼ばれ続け、この土地の有力者及びその屋敷として存続していたという。上記の通り、税所氏が住んだのは慶長年間からで、それ以前は、古代から続く府中6名家の1家「弓削氏(ゆげ)」の屋敷であり、中世を通して大掾氏の家臣として仕えたが、天正14年の江戸氏による竹原城の攻防で「竹原のゆけの小屋打落し」の出来事(「烟田旧記」より、弓削氏が守っていた小屋という意味?=弓削砦)、天正18年の佐竹氏による府中城侵攻などによって、天正年間で弓削氏は滅んでしまったという。
 遺構だが、東を流れる山王川から続く深い谷津が南北に入り込み、それらを天然の堀とし、また、敷地の大部分は住宅地となって隠滅・消滅してしまったが、かつては敷地の周囲を土塁が取り巻き、南から東、北へ堀を巡らせていたという。このうち、東側に設けられた堀は道路となった今も残っており、唯一明確な遺構と言える。
 
なお、一族かどうかは不明だが単純に弓削という苗字としては、古代から現在まで、茨城県に残る唯一の6名家の名称のようである。

縄張図
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「石岡の地名」内、天保年間 府中町絵図の一部。
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縄張図内①、屋敷内にある稲荷神社。
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縄張図内②から南を見た、屋敷跡東の堀跡。
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縄張図内③から南を見た、屋敷跡南側の谷津田跡。
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府中城 香丸屋敷

 府中城Ⅲ郭の市民会館の北東に、照光寺というお寺がある。南北朝期の応安年間開基と云われ、浄土宗 雷電山西光院照光寺といい、この境内は香丸屋敷の跡でもあるという。所在地は、石岡市府中2丁目字土橋(つちばし)という。
 香丸屋敷(こうまるやしき)は、すぐ東隣の国道355号沿いの商店街がある字香丸の地名由来でもある、「府中6名家」の1家「香丸氏」の居所であるとされる。
 香丸氏は、大中臣守綱という人物が香丸氏を名乗ったことに始まるとされるが、詳しいことはよく分かっていない。後に大掾家臣として仕え、天正年間にこの照光寺に住んでいた資料があるようで、それを最後に地区で名前が見られなくなったようである。天正18年の佐竹氏による府中城侵攻によって滅んでしまったのかもしれない。なお、照光寺北側に隣接した本浄寺も天正年間に焼失したと伝えらえている。
 遺構としては、特に土塁や堀といったものが残っているわけではないが、周囲の住宅地よりも2段ほど高い土地にあり(本浄寺は1段目)、特に墓地が広がる西側を中心に鋭さなどは無いが斜面などが見られる。その周囲は、府中城周囲の谷津を利用した堀と繋がる堀等が取り巻いていたのかもしれない。府中城北東の出城として機能したものと思われる。

縄張図
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図内①、照光寺本堂
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図内②から見た、本堂裏手。墓地より1段高い土地にある。
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府中城 宮部出丸

 磯部出丸から、谷津を挟んで西側にあるのが宮部出丸と呼ばれる砦跡である。所在地は、石岡市若宮2丁目字宮部(みやべ)という。
 宮部出丸は、磯部出丸同様に低地との比高約10mの台地先端部に位置し、現在台地上は不動院境内及び墓地となっている。台地南側は、この寺院建設に際してかなり削っている可能性があるが、台地の最東端部を最高所とし、その周囲に削平が甘いながらも帯曲輪状の平場が見られるほか、西側基部側に谷津から繋がる堀跡らしき地形があるがこれらも、遺構なのかははっきりしない。
 府中は古代平安時代からの常陸中心地であり、都から役人が赴任、移住していたことが知られている。そして移住後しばらくして、中世へ至る中で役人たちは職名であったり役職でのあだ名を苗字としており、そのうちの1例が大掾氏である。大部分は古代から中世の時点で断絶してしまったようだが、中には大掾氏から養子を迎えるなどして存続した「中丸・香丸・弓削・健児所・中宮部・税所」という6家あって、それらを「府中6名家」と呼ぶという。宮部地区は、そのうちの1家の「中宮部」氏に関係した土地とも云われる。肝心の中宮部氏は、上記のように中世あるいは古代の段階で滅んでしまったのかもしれない。

縄張図
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縄張図内①から見た、参道及び山門
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縄張図内②、山門の様子
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縄張図内③、本堂裏の斜面。後世のものだろうか。
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縄張図内④、本堂裏の墓地脇にある斜面と平場。台地上も改変が激しい。
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府中城 磯部出丸

 府中城の主な部分を紹介したが、これら主要部の周囲広範囲に小規模な砦や屋敷を配置、家臣等をそれらに住まわせたり守らせて城の防衛を担っていたようである。そのうちの一つが磯部出丸と云われる砦で、所在地は若宮2丁目字宮部(みやべ)という。
 磯部出丸のある場所は、低地との比高約10mの台地先端部にあり、ちょうど南に府中城Ⅰ郭を見る場所になる。もともと磯部(いそべ)という地名(現在消滅)があった場所とされ、そのため磯部出丸と呼ぶらしい。
 台地上はご多分に漏れず、住宅地が所狭しと並んでいるが、本来の地形にある程度合わせる形で開発をしているようで、台地南端部を最高所とし、北側に一段低く平坦地が広がり、この2つの曲輪を主郭としていたようである。その周囲斜面に2〜3段の平場を巡らせ、北側台地基部には幅深さとも不明ながら、大きな堀切を設けていたようである。現在でもこの堀切部分は更に約2m低く、南側堀内部の斜面と思われるものが一部残っており、また、道路も不自然にクランクして非常に通りにくくなっている。開発されているとはいえ、比較的遺構の残り具合は良好なほうと言える。

縄張図
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縄張図内①から見た、砦遠景。
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縄張図内②から見た、登り口の様子。
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縄張図内③、台地上にある半円地形。元々の地形に手を加えたのだろうか。
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縄張図内④、曲輪内部から見た堀切跡の様子。
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縄張図内⑤、堀切内部から見た、曲輪側斜面の様子。
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府中城 

 Ⅰ郭〜Ⅲ郭3つの曲輪をLの字状に取り囲むように展開しているのがⅣ郭で、北は字箱之内、東は字古城東・字元真地(もとまち)などと呼ばれる。現在この場所には市民会館などのほか大部分は住宅地で、やはり早い段階で開発が行われた関係で土塁などは見当たらない。また、市民会館がある場所は近世半ばの頃に、府中松平藩によって府中陣屋が設置された場所でもある。それでも、低地から続く谷津を利用した堀と、その周囲の高さ約3〜5mの切岸の一部は今も見ることができ、北側の箱之内地区の北から西斜面には帯曲輪がよく残っている。この箱之内地区は資料によっては「箱之内出丸」と紹介されている場所である。

縄張図
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縄張図内①から見た、堀跡の上池(うわいけ)公園。左手がⅣ郭切岸。
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縄張図内②から見た、字土橋(つちばし)の様子。
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縄張図内③、東耀寺(とうようじ)山門。寛永末期に堀を埋めたという。
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縄張図内④、箱之内北側の帯曲輪。左手の道が曲輪で、右手の畑は堀跡。

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縄張図内⑤、箱之内西側の斜面。竹が生えている部分が平場。
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