Pの、遺跡侵攻記

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小田野・藤福寺

寛文9年、水戸にて廃寺となった江戸氏菩提寺の藤福寺

常陸大宮市小田野及び周辺地区の有力者”河西・佐藤・大高”といった住民等が真言宗の寺を地元(現常陸大宮市)に置いてほしいと水戸藩に懇願、同年、破却された藤福寺が小田野の中世廃寺”永福寺”跡に建立され、栄えたという。

しかし幕末頃に再び廃寺となり、後に三浦神社が建てられた。

場所は、常陸大宮市北部の小田野地区、県道234号を北進すると県道沿いにある。すぐ南側には中世城館”小田野城”がある。

近くで畑作業をしていた方に聞いてみると、その方が幼った昭和の初め頃に、ぼろぼろになったお堂がまだ残っていたという。

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国道349号を南進、水戸台地を上がっていき”水戸地方気象台”の脇に出る坂道がある。そのすぐ脇に旧道があるが、その旧道から細い上り坂を登ると”水戸2高”がある大町信号に出る。この細い坂道が”大坂”で、そこから南へ直線道があるが、この直線道が”大坂町”という。これを南へ進んで南町や藤澤小路といった横道を過ぎ、台地南端へ突き当たる。その突き当たったところにあるマンション敷地辺りが”藤福寺(トウフクジ)”という廃寺跡である。

現在、梅香トンネルの南側出口の東側にあるこの廃寺跡辺りは梅香1丁目というが、徳川入部から近世初期までは袋町といい、北に大坂町、東にウハ梅香+シタ梅香、西に鈴坂町+鷹匠町が隣接していた。

1400年代の室町期応永年間、この水戸一帯を治めていた吉田大掾氏は常陸府中へ出向いていた際、その留守を狙って藤原氏の一族”江戸氏”に浮の城を奪われてしまった。以後、浮地区は水戸と呼ばれ城を拡張・拡大していった。それから約40年後の寛正年間、水戸城主”江戸通房”は城域内にある”亀田(後の田町、現在は下市)”の地に、寺を建ててほしいという母堂慶隆の願いと共に、「藤原氏に福がありますように」との願いも込めて”藤福寺”と名付けた寺を建立した。正しくは”真言宗 清隆山原勝壽院藤福寺”といい、その後も通秀・通泰(初)・通俊・通政・重通の母などを葬る、水戸城主及び関係者代々の菩提寺として栄えたという。

天正18年、佐竹氏によって水戸城を占拠され佐竹氏の城となり、大改修を受けた際に亀田の地から北西の台地上、梅香の地に移されたという。しかし慶長7年の秋田移封後、徳川入部後に勢いを衰えてしまっていったらしく、東の”六地蔵寺”が寺の管理を兼務していたらしい。そして江戸初期の寛文8年〜9年、2代目藩主によって社寺改革が大規模に行われ、藤福寺も破却、整地されて跡地は武家屋敷群に変わったという。

梅香トンネル南側出口東側の、低地との比高約20mの台地先端角部に位置し、西側には南の千波湖から続く深い谷津が入り込んでいる。台地上は現在完全に市街地化しており、こちらに遺構と呼べるものはまったく残っていない。1600年代の水戸城の近世絵図には”寺”の印、別の絵図には”墓地”と思われる印が見られるが、やはり近世後半以後の改変・開発によっていずれも消滅したようである。寺が”虚空蔵尊”を置いていたこともあり、その名残から西の谷津には”虚空蔵坂”と”虚空神社”が祭られているのが唯一の遺構かと思われる。

画像は上から旧所在地、現所在地、大坂町標柱、紀州堀信号から見た虚空蔵坂、虚空神社の様子。
6番目=大坂町から見た、廃寺跡の様子。奥に見える赤っぽいマンションがそれである。
7番目=マンションの西隣の駐車場。同じく寺の墓域だったところ。

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勝倉台館

勝倉小学校こと”勝倉城跡”より、勝倉溜を挟んで東側に”勝倉台館”という城館跡がある。所在地はひたちなか市勝倉字地蔵根という。

西の勝倉城と同様に、低地との比高約20mの台地南端部に位置し、勝倉溜がある北西及び北東方向に那珂川低地から続く谷津が入り込んでいる。

歴史や城主等についてだが、勝倉城と同様に大掾系勝倉氏や戦国期の飯島氏等が城主だったと、いくつかの郷土資料で見られるが、実際のところは不明である。ただし唯一、勝倉城の支城であるという部分は共通のようである。

付近に住むご老人によると、「ここは城ノ内といって、勝倉城の支城だった。今は陸田になってしまったが、今から25年くらい前(平成最初の頃)までは台地の端っこをぐるりと土塁が囲んでいたんだぞ。」とのことであった。過去の航空画像を見てみると、証言を裏付けるように台地端に土塁のようなものが見えており、南側中央部には折れが伴っているようにも見える。この中央部には、水戸の民間飛行機のパイロットで若くして命を落とした「武石洪波」の大きな墓石が建っており、残存する土塁の一部であるようだ。その外側には、内部に仕切りが見られる堀状の地形が残っている。昭和初期から昭和後半の間に土地の区画整理もあったようで、そして平成になって陸田になり、台地上の土地の様子は一変しており、どんな形状だったのかよくわからなくなっている。
台地斜面の東側には、まるで横堀のようなものが下っているが、これは堀ではなく、堀底道状に台地下へ降りる旧道である。

いくつかの郷土資料には、勝倉城とほぼ同規模・同形状の方形単郭に城として描いているものがあるが、現在ではよくわからなくなっている。位置的に、伝承通り、勝倉城の死角を埋めるあるいは、増員した兵士たちの駐屯地として整備された、出城のようなものだったのかもしれない。

画像は上から1975年撮影の航空写真、現在の縄張図(現況図)の順。位置を合わせてあります。
3番目=縄張図内①から南を見た、曲輪西側端部の様子。
4番目=図内②、台地南側端部にある平場および、堀状の地形。
5番目=図内③から北を見たところ。画像左手にある木が生い茂っているところが、武石墓のある部分。
6番目=図内④、旧道の様子。画像右手が曲輪側。

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勝倉城

ひたちなか市勝倉(カツグラ)地区にある”勝倉小学校”敷地一帯は昔から、中世城館”勝倉城”の跡地として良く知られている。所在地は、ひたちなか市勝倉字富士山(フジヤマ)という。

那珂台地南端部、勝倉地区としても南端部に位置し、南に流れる那珂川による低地から続く谷津が北側を除く3方向を取り囲み、これを天然の堀としている。

平安末期の頃、那珂川流域一帯を含む常陸国のほとんどは常陸平氏大掾一族が支配しており、このうち、水戸市近辺は吉田・石川大掾一族が支配していた。そのなかの、吉田大掾一族”太郎広幹”の4男”俊幹”がこの勝倉地区に住んだとされ、土地の名をとって”勝倉四郎”を名乗ったことに始まるとされる。「勝田市史」の中で、「鹿島大使役記抄記」という資料には1300年代後半の南北朝期に、鹿島神宮の大祭使役にこの”勝倉氏”が参加していた記録を最後に、その後どうなったかは不明という。室町期に、上杉禅秀の乱といった当時の情勢で大掾一族の勢いは大きく後退しており、その際に勝倉氏もこの土地からいなくなってしまったのかもしれない。
その室町期以降に那珂川流域を支配したのが、藤原一族の”江戸氏”で、浮の館を中心に大きく改変した水戸城の支城として、この勝倉城も一帯を含めて改修されていったものと思われる。戦国期の永禄年間頃に、江戸氏の家臣である”飯島氏”がこの城に住んだとされており、当時の佐竹氏の資料には”飯島七郎”といった名が見られるという。しかし、天正18年、その佐竹氏による水戸城侵攻による猛攻を受けて短時間で落城し、廃城になったという。
時はだいぶ流れて大正頃、那珂川近くにあった学校をこの城跡に移し”勝倉小学校”が建設され、これによって遺構も一部破壊されるも大部分は残っていたらしく、昭和21年頃に北側土塁の大部分を崩して周囲の堀も埋められてしまったようである。昭和36年頃、旧校舎を取り壊して新校舎が建設され、それによって残存土塁も更に破壊されてしまったようである。このころまでは、空気が澄んでいたこともあり、条件の良い日には南に遠く富士山が見えたそうで、それに由来するためか富士神社が土塁上に祭られ、地名も”字富士山”になったようである。このため、「不二城」という別名のほか、一時期に呼ばれていたこの地区名から人によっては「勝村城(カチムラジョウ)」と呼んでいるようである。

遺構についてだが、平成26年、グランドへの仮校舎建設に伴う試掘調査が実施され、東西それぞれの谷津を繋ぐように北西から南東に幅約6mの堀跡(深さ不明)が発見されている。小学校敷地のうち、幼稚園と体育館(いずれも旧校舎跡)が建っている辺りが主郭で、約100m×約60mの広さの方形の郭だったようである。幼稚園が建っている場所は周囲より約2m高いが、これは元々の地形であるようだ。西側に高さ約3mの土塁が残り一部崩されているものの、ほぼ旧状のままであるらしい。ここから県道沿いに低い土塁らしきものが直線的にあるが、これは後世の学校敷地拡張及び道路建設によるもののようだ。また、体育館の東にも高さ約2mの土塁の一部が残り、上には富士神社が祭られている。ここからさらに東端には古墳があり、城の物見台として使われていたとも云われる。基本的には単郭の城のようだが、周囲の谷津が天然の堀であることを考えると、主郭を取り囲むように広い曲輪を設定していたのかもしれない。
勝倉台地からこの城の西側下を斜面沿いに南へカーブしながら下っていく道路があり、これが中世当時からの街道だそうで、水戸城へ向かうためには何が何でもこの勝倉城を通らなければ行けないようになっていたと思われ、その街道監視が主な役目であったと思われる。周囲の関連地として、北東に石井戸や、西には勝負ノ間や鹿島台といった地名があるほか、やはり自衛隊敷地内で消滅したと思われる「多計田山照道寺」という廃寺跡もある。

余談だが、2017年秋の”かすみがうら市”文化財集中曝涼に参加した際、当地の主要城館の一つである”宍倉城”域内を歩いていた際、現地の宿には多くの”勝倉姓”が住んでいることが分かった。室町期に不明となった勝倉氏と関係しているのかは分からないが・・・


1番目の画像=勝倉城縄張図。
2番目=図内①から北を見た、西側土塁の様子。
3番目=図内①から南を見た、西側土塁の様子。
4番目=図内②、幼稚園の様子。
5番め=図内③の、富士神社の様子。
6番目=図内④、県道に接続する旧街道の様子。
7番目=図内⑤から見た、堀跡の様子。仮校舎建物の右側半分の辺りが堀があったところ。
8番目=図内⑥の、先端部にある古墳の様子。

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伝:東義久墓跡?

水戸市役所東側の下市地区。その一画、現在の国道51号沿いの本町3町目には白銀町という場所があった。この白銀町には、戦国期に天台宗東福院というお寺があったようだが、寛文6年に破却されたという。

そして、新編常陸国誌によれば、

「茨城郡水戸府下町白銀町ノ、内本六町目ト裏合ワセノ中程ナル、町屋敷ノ尻二、大榎樹アリ、コレ其墳墓ナリ・・・」

とある。

寺の脇に植えられた榎で、これが佐竹”東”義久の墓と云われ、いわゆる樹木葬だったらしいが、この榎の脇には石碑もあったそうだが、破却時に吉田薬王院に移したらしい。
しかし、数年前に当ブログ管理人が訪問して伺ったときには、それらしきものが移された記録・そういったものがあるといった話は無いと言われた。

真相は如何に?

画像は所在地。
2枚目=所在地内、標柱の様子。
3枚目=図内赤丸印から見た白銀町の様子。中央道路を境に左手が白銀町。

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