Pの、遺跡侵攻記

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金上城が立地する金上地区には、古くから、西の勝倉、東の三反田(みたんだ)との境界に、台地を分断するように土塁と堀が築かれていることが知られている。
「勝田市史」によれば、勝倉との境にある西側を二の堀、三反田との境にある東側を新堀(にいぼり)とし、両堀とも幅約10m×深さ約2mの規模としている。
現在は遺跡地図(いばらきデジタルマップ内)でもそれぞれが遺跡登録されている。

昭和57年に、二の堀に隣接する”勝倉・大房地遺跡”において、民家建設に伴う発掘調査が行われ、調査区内において上幅6.5m×底幅1・8m×深さ1.75mの大溝が出土している。

昭和の前半までに、耕作や宅地開発によってほとんどの遺構が隠滅または消滅してしまったが、残っていた当時の様子を知る90代くらいのご老人によれば、結構大きかった土塁があったことをよく覚えているそうだ。そしてこのご老人によれば、勝田市史の名称の記述は完全に間違っているそうで、

東の三反田側は新堀(にいぼり)、西の勝倉側は新堀(しんぼり)

と呼ぶのが正しいそうである。
はっきりと「あれは違う」と言っておられたので、勝田市史は間違っているということである。
以後、このブログでも、自分自身も、この呼び方で呼ばせていただきます。

わずかに、新堀(にいぼり)の南端付近の民家敷地と北端付近が土地の高まりに名残が見られるほか、新堀(しんぼり)の南端部の谷津と接続する辺りに遺構のごく一部が残存している。

市史ではこれら堀切を、大掾一族がこの那珂川沿いに住み着く以前に、この金上地区を支配していたであろう”金上氏”による境界堀として、平安後半の頃のものであるとしているが、その様子からは、金上城防衛のために戦国末期に築かれた外郭堀ではないかと思われる。そういう意味では、金上城の城域は先端部だけではなく、現在の金上地区全域となる総構えの城館ということになるかと思う。

1番目画像=周辺図
2番目=周辺図内①、新堀(にいぼり)北端部。
3番目=図内②から南を見た、新堀(にいぼり)の様子。画像右手が金上側。
4番目=図内③、新堀(にいぼり)南端部付近の民家敷地、金上側内部から見た様子。
5番目=図内④、新堀(しんぼり)南端の、谷津との接続部分にある残存部。
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金上城

ひたちなか市の南東部にある金上(かねあげ)地区の南端部、南に那珂川を望む低地との比高約20mの台地突端部に”金上城”が築かれている。所在地は、ひたちなか市金上字外城(とじょう)という。
城内は熊野神社境内となっており、台地東下の道路脇に車は路駐できます。

近世資料の「水府史料」によれば、

「深二丈余の堀あり。四方に高土手矢倉の跡あり。堀より西を御城山と唱え、東を外城山と云う。何人の居なるを知らず」

と記述しており、熊野神社が建つ場所が御城(地元では内城と呼ぶ)で、堀を挟んで南側先端部が外城であるようだ。現地の高齢者にも話を伺うと、先っぽから外城・内城と呼んでいたので、「勝田市史」記載の情報は間違っている可能性がある。

御城又は内城と呼ばれるⅠ郭は、広さ約60m×約90mの歪な五角形状で、東側は崩落していたり他は崩されていたりするが、周囲を高さ十数センチから最大約2.5mの土塁が巡らされている。城内ではもっとも高所に位置する。
Ⅰ郭の南側には幅約15m×深さ約6mにもなる大堀切が”くの字”状に折れながら掘りきられており、その南側に高さ約2mの土塁が堀に沿って盛られ、外城と呼ばれるⅡ郭となる。
Ⅱ郭は、広さ約50m×約30mの方形で、南西角に南へ向かって小曲輪が突き出している。郭の周囲には土塁が巡らされ、その外側約2〜4m下には幅約3〜5mの横堀が巡らされている。また、先の小曲輪の横堀を隔てて南側に尾根が突き出し、ここには天保年間の石碑がある。
一方で、Ⅰ郭北側には幅約3mの堀切の跡が残っている以外は、端城山(たんじょうやま)とか新屋敷(あらやしき)と呼ばれる段差を伴った畑や民家が広がり(いずれも字塙である)、北側も城域は広がっていたようであるが、それら段地形以外は明確に遺構は見当たらない。

主な遺構としては以上で、周囲を湿地に囲まれた台地突端部を利用、屈折した大堀切、郭の造り等、大きさはまるで違うが”水戸城”をこの土地に再現したかのような姿をしている。

金上氏系図」によると、金上氏は村上天皇の流れを組むとされ、平安後半の寛治年間に伊勢守明成平井の地に築城したとされる。だが、この系図は鎌倉期までのかなり古い時代の歴史ばかりで1300年代の歴史が丸々記されていないなど、信ぴょう性に疑問が多いように感じる。ようやく、伊勢守明方という人物が応永年間頃の城主として記され、その子孫で天文年間の城主としているのが”弾正左衛門明春”で、現在残る城の姿に近い形にしたのはこの人物の頃ではないかと思われる。恐らく江戸氏の家臣になっていたと思われ、金上城も水戸城の支城として整備され、明春の子孫”弾正明直・明村”の兄弟が天正18年の佐竹氏による水戸城侵攻に際して、佐竹義重率いる別動隊の猛攻を受けて討ち死に、城も落城し、そのまま廃城になったという。この兄弟それぞれの子らは一時浪人となったようだが生き残り、その子らは徳川に仕えて存続したようである。


画像は上から所在地、縄張図の順。
3番目=縄張図内①、Ⅰ郭北側の土塁を郭内側から見たところ。
4番目=図内②の堀切跡を、①の土塁上から見たところ。
5番目=図内③から見た、大堀切東側出口の様子。画像右手が熊野神社側。
6番目=図内④、Ⅱ郭北東側土塁上から見た、Ⅱ郭内部の様子。
7番目=図内⑤から見た、横堀の様子。
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枝川城

水戸城より、北東に約1.4キロ、県道232号(旧国道6号)沿いの”勝田枝川郵便局”や”枝川小学校”が立地する一帯が”枝川城”の跡で、所在地ひたちなか市枝川字城の内(じょうのうち)という。
車は、枝川小学校に停めておくといいかと思います。

平安末期、この辺り一帯を治めていた常陸大掾一族の”馬場資幹”の5男”時幹”がこの地に住んで”枝川五郎”を名乗ったことに始まるとされる。大掾系枝川氏についてのその後はよく分かっていない。後に、江戸氏が水戸城を築いて治めると、室町期の水戸城主”江戸通房”の4男”通弘”がこの地に住んで枝川氏を名乗り、以後、通衡・通近・(枝川信濃守又は小宿信濃守)・播磨守重氏と続いたとされる。天正18年、佐竹氏による水戸城侵攻に際し、東側の迂回ルートを進軍してきたとされる佐竹義重の別動隊の攻撃にあい焼き討ちされたという。

枝川郵便局や枝川小学校等が立地する、広さ東西約340m×南北約140mの長方形状に道路が走る区画が城域とされている。はっきりとした遺構は見当たらず、ほぼ隠滅したと思われる。那珂川の流れによって作られた微高地上にあり、北側那珂台地より流れる早戸川の支流が無数に枝分かれしているため”枝川”と呼ばれ、この枝川が微高地を取り囲んでまるで天然の水堀のようである。

地元研究者による「ふるさと枝川昔語(市川武雄著)」という資料によれば、著者が幼少の頃に聞いた話として、大正時代に字城の内の中央部に2反歩くらいの土地を持った大きなお屋敷があり、その土地の周りを小高い土手と堀が巡っていたらしい。檜類が群生していたその小高い土手のうち北東角の辺りには塚があり、榎や椿等が生えていたという。しかし、それらも昭和5〜6年頃に、国道6号(現県道232号)を通すための盛り土にするために崩してしまったという話を聞かされていたという。その後、大きな屋敷一帯は周囲よりもやや高い畑であっただけで、真っ平になっていたようである

昭和の最初までは、かなり見ごたえある遺構が残っていたと考えると、なんとももったいない感じである。

以前の記事にて、ここと水戸市田谷城が似ている話題をしたが、

枝川城 東西約340m×南北約140mの長方形状

田谷城 東西約304m×南北約135mの長方形状

航空画像内①、枝川城南東角付近の、内側へクランクした部分

画像内②、枝川城では馬橋と呼ばれる、南側へ延びる直線道

画像内③、城の内北西角の祠(稚児墓?)、田谷城では春日神社などの宗教施設の設置

以上のように、広さはやや違うが、立地条件や河川交通拠点など田谷城との共通点が多く、もしかすると田谷城と築城者が同じあるいは設計が共有されているのかもしれない。

画像内③の祠にあるお地蔵様の一部は、なんと五輪塔の”空風輪”で2個見られる。中世のものだろうか?
画像内④、塚(又は櫓台跡)があったと思われる辺り。

画像内⑤、城の内東側の枝川の様子。
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船戸山・和光院跡

水戸駅北口に直通の県道232号、ひたちなか市川から南進し、那珂川に架かる”水府橋”を渡って右手に法務局、左手に水戸2中に挟まれる形で谷津の入口でもある信号となる。この信号辺りが近世は”北三ノ丸・御船方”とか”北三ノ丸・海老久保”などと呼ばれた場所で、それ以前の中世は”船戸山(または船渡山)”といった場所で、”真言宗 伝燈山和光院明楽寺”の跡地である。

和光院は、元々は鹿島郡神生にあったお寺だったようで、水戸城主”江戸通雅”が枝川75貫文の土地を寄進したというが、同地で一時衰えてしまったため、大永年間に通雅の子の”江戸通泰”によって水戸・船戸山に移し、江戸氏の祈願所として栄えたという。
その後の天正18年の佐竹氏による水戸城侵攻により、江戸氏は敗走、それに伴い、水戸市西部(旧内原町)田島地区に移って現在に至るようである。永禄年間の佐竹義宣による水戸城改修時は不明だが、徳川時代には北三ノ丸や海老久保などの水戸城大改修時にほぼ跡地は改変されたようである。わずかに、上記の信号から法務局前を登って三ノ丸庁舎へと至る坂道が”伝灯坂”と呼ばれている程度である。
また、その旧地名が示す通り、この場所も那珂川の渡しであり、その寺領の関係もあってか枝川地区との往来の場所であったようである。

画像は上から、所在地、海老久保上から三ノ丸側を見たところ、本城斜面より海老久保及び那珂川水府橋を見たところ(2枚目・3枚目の撮影年は2008年、水戸城内”水戸2中”新校舎建設に伴う発掘調査現地説明会のもの)。
3番目=移転先の水戸市西部田島の和光院不動堂(=近世建立)の様子。
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青柳館

水戸市青柳町の水郡線”常陸青柳駅”から西に約400m、住宅地と那珂川堤防の間に”青柳共同墓地”がある。この墓地一帯が”青柳館”跡とされる。

大掾系馬場氏の一族が青柳地区に住み、土地の名をとって”青柳次郎泰幹”を名乗り館を築いたのが始まりとされる。
青柳氏は、馬場氏が水戸を追われた後は新たに水戸城主となった江戸氏に仕えたとされ、以後、家臣として仕えたという。その後は不明なことが多いが、天正年間の佐竹氏による水戸城攻めで占領され、敗走したと思われる。佐竹氏が水戸城主となったあとに、その家臣として青柳隼人という者がこの地に住んだとされるが、この人物は平氏ではなく、江戸氏や小野崎氏と同じ、藤原一族だったようである。青柳氏は佐竹氏の秋田移封に同行したため城は廃城となったようである。

この場所は、北西から南東に伸びる、那珂川の流れによって形成された微高地上にあり、北から南に向かって高度が高くなっている。現在は周囲が住宅地になってしまい、まったくわからないが、平成の初め頃まで広さ約75m×約68mの台形状の墓地で、宅地化する以前はその周囲は畑に囲まれた島状の様子だったようである。この共同墓地は”真言宗 那珂郡湊華蔵院末 瑠璃山金剛院 長福寺”という中世由来の廃寺跡で、近世に廃されたようである。その脇にかつて土塁があったとされている。しかし、1998年の台風による那珂川増水被害の後、災害対策として堤防が河川沿いに建設され、墓地敷地の南側半分が消滅し、その消滅した区画の墓地を元からある敷地の東側に移転、それから宅地化もさらに進んでそれら土塁も無くなってしまったと思われ、現在、遺構と呼べるものは何も残っていない

画像は上から、航空画像(2018)、航空画像(1948)、墓地入口、敷地内卵塔墓他無縁仏の様子。
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