Pの、遺跡侵攻記

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健児所屋敷

 古代から続く常陸府中6名家のうち、「金丸氏(かねまる)」の居住地については不明である。もう1家、その居住地がいまいちはっきりしない「健児所氏」という一族がいる。
 健児所氏は、「こんでいしょ」し又は「こにしょ」しと読み、「健児(所)」とは古代の兵士、現代で言えば警察とか治安維持部隊などに相当する役職及び管轄役所のことである。平安末期以降、その役職を継いできた一族が大掾氏と同様に一族の苗字として名乗り始めたことに始まるという。苗字とした一族での呼び方は「こにしょ」で統一されているようで、健児所とか金泥とか、近世には近衛所などと書き、平安末期以来、大掾氏家臣として防衛・祭事などで府中の一角を担っていたようである。天正年間の府中落城以後も存続していたが、明治10年代に健児所徳次郎という人物を最後に途絶えてしまったらしい。
 所在地についてだが、石岡市の歴史について記した複数の資料によれば、市内貝地1丁目字貝地にある月天宮(がってんぐう)と南東の茨城廃寺(ばらきはいじ)の間一帯にあった岩城内(いわぎぢ)と呼ばれた辺り、または、その北東の台地先端の字小山辺りと推定している。現在、岩城内一帯は、一部畑地となっている以外は住宅地で、堀や土塁といった遺構は見当たらないが、南北を流れる河川低地から続く谷津が何本も周囲を巡っている様子で、それらを天然の堀としてこの地に屋敷を建てていたものと思われる。また、南東の古代寺院、茨城廃寺との間の倉庫脇に石仏が寄せてあり、この辺りは健児所氏と関係する「ちまぐれ」と呼ばれるお堂跡・墓所跡であったらしい。そのほか関係する場所として、北東方向へ続く坂道「こんでい坂」や、その先の山王川に架かる橋「こんでい橋」などがある。このこんでい橋及び常磐線を越えた目の前の台地、現在は南台1丁目から東石岡2丁目にかけての団地を「字兵崎(びょうざき)」といい、健児所が仕切る兵士達の詰所・練兵場に由来する地名とされる。府中城の守りであることは間違いないが、位置的には、すぐ南にある古国府こと、石岡城(外城)の関係屋敷という意味合いが強いのかもしれない。

航空画像と推定地
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航空画像内①、月天宮の様子。
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航空画像内②、月天宮東側の畑地。岩城内の範囲内に当たる。
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航空画像内③、茨城廃寺跡西の交差点にある倉庫、ちまぐれ地内の様子。
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上記の倉庫脇にある石仏と宝篋印塔の部材。
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航空画像内④、台地下から見た、こんでい坂の様子。画像右手が字小山。
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航空画像内⑤、常磐線貝地踏切より見た、こんでい橋跡。矢印、低い部分。
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 常磐線石岡駅の南西にある石岡プラザホテルから、その西の華園寺までの住宅地一帯約130m×約90mの範囲辺りが弓削屋敷の跡である。所在地は石岡市国府1丁目〜2丁目字室ヶ井(むろがい)という。
 弓削屋敷は、慶長年間より昭和の最初の頃まで存続した税所(さいしょ)氏の屋敷跡として知られ、近世に住んでいた税所門弥という人物にちなみ、地元では「もんや様」という呼び名で長く呼ばれ続け、この土地の有力者及びその屋敷として存続していたという。上記の通り、税所氏が住んだのは慶長年間からで、それ以前は、古代から続く府中6名家の1家「弓削氏(ゆげ)」の屋敷であり、中世を通して大掾氏の家臣として仕えたが、天正14年の江戸氏による竹原城の攻防で「竹原のゆけの小屋打落し」の出来事(「烟田旧記」より、弓削氏が守っていた小屋という意味?=弓削砦)、天正18年の佐竹氏による府中城侵攻などによって、天正年間で弓削氏は滅んでしまったという。
 遺構だが、東を流れる山王川から続く深い谷津が南北に入り込み、それらを天然の堀とし、また、敷地の大部分は住宅地となって隠滅・消滅してしまったが、かつては敷地の周囲を土塁が取り巻き、南から東、北へ堀を巡らせていたという。このうち、東側に設けられた堀は道路となった今も残っており、唯一明確な遺構と言える。
 
なお、一族かどうかは不明だが単純に弓削という苗字としては、古代から現在まで、茨城県に残る唯一の6名家の名称のようである。

縄張図
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「石岡の地名」内、天保年間 府中町絵図の一部。
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縄張図内①、屋敷内にある稲荷神社。
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縄張図内②から南を見た、屋敷跡東の堀跡。
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縄張図内③から南を見た、屋敷跡南側の谷津田跡。
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府中城 香丸屋敷

 府中城Ⅲ郭の市民会館の北東に、照光寺というお寺がある。南北朝期の応安年間開基と云われ、浄土宗 雷電山西光院照光寺といい、この境内は香丸屋敷の跡でもあるという。所在地は、石岡市府中2丁目字土橋(つちばし)という。
 香丸屋敷(こうまるやしき)は、すぐ東隣の国道355号沿いの商店街がある字香丸の地名由来でもある、「府中6名家」の1家「香丸氏」の居所であるとされる。
 香丸氏は、大中臣守綱という人物が香丸氏を名乗ったことに始まるとされるが、詳しいことはよく分かっていない。後に大掾家臣として仕え、天正年間にこの照光寺に住んでいた資料があるようで、それを最後に地区で名前が見られなくなったようである。天正18年の佐竹氏による府中城侵攻によって滅んでしまったのかもしれない。なお、照光寺北側に隣接した本浄寺も天正年間に焼失したと伝えらえている。
 遺構としては、特に土塁や堀といったものが残っているわけではないが、周囲の住宅地よりも2段ほど高い土地にあり(本浄寺は1段目)、特に墓地が広がる西側を中心に鋭さなどは無いが斜面などが見られる。その周囲は、府中城周囲の谷津を利用した堀と繋がる堀等が取り巻いていたのかもしれない。府中城北東の出城として機能したものと思われる。

縄張図
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図内①、照光寺本堂
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図内②から見た、本堂裏手。墓地より1段高い土地にある。
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府中城 宮部出丸

 磯部出丸から、谷津を挟んで西側にあるのが宮部出丸と呼ばれる砦跡である。所在地は、石岡市若宮2丁目字宮部(みやべ)という。
 宮部出丸は、磯部出丸同様に低地との比高約10mの台地先端部に位置し、現在台地上は不動院境内及び墓地となっている。台地南側は、この寺院建設に際してかなり削っている可能性があるが、台地の最東端部を最高所とし、その周囲に削平が甘いながらも帯曲輪状の平場が見られるほか、西側基部側に谷津から繋がる堀跡らしき地形があるがこれらも、遺構なのかははっきりしない。
 府中は古代平安時代からの常陸中心地であり、都から役人が赴任、移住していたことが知られている。そして移住後しばらくして、中世へ至る中で役人たちは職名であったり役職でのあだ名を苗字としており、そのうちの1例が大掾氏である。大部分は古代から中世の時点で断絶してしまったようだが、中には大掾氏から養子を迎えるなどして存続した「中丸・香丸・弓削・健児所・中宮部・税所」という6家あって、それらを「府中6名家」と呼ぶという。宮部地区は、そのうちの1家の「中宮部」氏に関係した土地とも云われる。肝心の中宮部氏は、上記のように中世あるいは古代の段階で滅んでしまったのかもしれない。

縄張図
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縄張図内①から見た、参道及び山門
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縄張図内②、山門の様子
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縄張図内③、本堂裏の斜面。後世のものだろうか。
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縄張図内④、本堂裏の墓地脇にある斜面と平場。台地上も改変が激しい。
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府中城 磯部出丸

 府中城の主な部分を紹介したが、これら主要部の周囲広範囲に小規模な砦や屋敷を配置、家臣等をそれらに住まわせたり守らせて城の防衛を担っていたようである。そのうちの一つが磯部出丸と云われる砦で、所在地は若宮2丁目字宮部(みやべ)という。
 磯部出丸のある場所は、低地との比高約10mの台地先端部にあり、ちょうど南に府中城Ⅰ郭を見る場所になる。もともと磯部(いそべ)という地名(現在消滅)があった場所とされ、そのため磯部出丸と呼ぶらしい。
 台地上はご多分に漏れず、住宅地が所狭しと並んでいるが、本来の地形にある程度合わせる形で開発をしているようで、台地南端部を最高所とし、北側に一段低く平坦地が広がり、この2つの曲輪を主郭としていたようである。その周囲斜面に2〜3段の平場を巡らせ、北側台地基部には幅深さとも不明ながら、大きな堀切を設けていたようである。現在でもこの堀切部分は更に約2m低く、南側堀内部の斜面と思われるものが一部残っており、また、道路も不自然にクランクして非常に通りにくくなっている。開発されているとはいえ、比較的遺構の残り具合は良好なほうと言える。

縄張図
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縄張図内①から見た、砦遠景。
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縄張図内②から見た、登り口の様子。
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縄張図内③、台地上にある半円地形。元々の地形に手を加えたのだろうか。
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縄張図内④、曲輪内部から見た堀切跡の様子。
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縄張図内⑤、堀切内部から見た、曲輪側斜面の様子。
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