Pの、遺跡侵攻記

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武熊城

水戸城がある水戸市中心市街地の東、国道51号の北側の住宅地の中に”水戸南社会保険事務所”があり、それに隣接して”竹隈公民館”がある。この公民館が建つ周辺一帯が中世城館”武熊城”の跡である。武熊=タケクマと読み、現在の所在地は水戸市柳町2丁目だが、旧町名は”横竹隈町”といい、また、北側に”十間町”が隣接していた。

常陸大掾吉田氏の一族”石川望幹”が初めてこの地に館を築いたと云われ、その後、水戸台地に進出した”江戸氏”が水戸城を築いてからはその江戸氏一族の居城となり、水戸城の南側の守りとして使われたとされる。
その江戸氏も天正年間の佐竹義宣による水戸侵攻によって水戸城を追い出され、この武熊城も一旦は廃城となったが、佐竹義宣が水戸を本拠とした頃から佐竹東家当主”東義久”が住んだという。その義久も突然亡くなり(暗殺説がある)、慶長7年(1602年)には佐竹氏自体も秋田へ移住となり、このときに完全廃城となったようである。
その後、慶安4年(1651年)ごろ、水戸城南の土地の確保のために”千波沼(現在の千波湖の一部)”を埋め立てるため、城のある一帯を削り取ってしまったと云われる。
現在、上記の理由により、わずかな起伏すら残さず遺構はすべて消滅、完全な住宅街になっている。それでも「新編常陸国誌」にある記述を参考にすると、元々この城があった場所は北西の水戸城から続く台地先端部であったと思われ、この僅かな台地を利用して堀や土塁で囲っていたのではないかと思われる。

先の公民館敷地には標柱が建てられている以外は、ここより北東約350mのところに桜川に架かる橋の名前が搦手橋といい、この方向が搦手であったのではないかと思われる。また、大手とされる場所は南側とされ、全体の広さは東西5町(約545m)×南北4町(約436m)ほどと記述されている。
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田谷城

水戸駅より北西に約7キロ、県道169号と県道63号が交差する場所、春日神社周辺の田谷集落一帯が”田谷城”の跡と思われる。所在地は、水戸市田谷町字宿という。

民家の周囲に堀と土塁が残ると「水戸市史」にも記載されている城館跡なのだが、他に詳細な情報が無く、また、現地にも伝承はおろか確実に遺構であると呼べるものが残っていないうえ、この辺りは那珂川の洪水が多発する地域でもあるため”水塚”という民家の基礎かさ上げも多用されているため土地の改変も多く、現地の状況・地図・各種土地資料等からの想像になってしまいます。

田谷集落は、周囲を低地に囲まれ、那珂川の流れによって形成された比高約5mの微高地に広がっています。この地区の村社である春日神社の東側に、字宿・字北小屋・字外城(とじょう)・字門前(もんぜん)といった小字地名が付けられた、広さ約190m×約290mの長方形状に道路が走っており、これが城の区画の跡ではないかと思われる。このうち、字宿・と字北小屋には土塁や堀跡らしき部分、土橋らしき地形が残るほか、周囲を巡る道路の内側は若干土地が低くなっており、堀の跡だったのかもしれない。また、県道169号を挟んで東側には、南北に細長く伸びる畑があり、これも周囲より若干土地が低く、東の堀跡かもしれない。

以上のように、それらしき地形はいくつも見られるが、これだと自信をもって言えるものが無い状況である。ただし、地図や土地資料で見たかぎりでは、「勝田市史に記載され、想定されている枝川城の姿」ととても似ており、田谷町南東端部の那珂川沿いには”船渡”地名があることから、那珂川の河川流通拠点として機能していたことも、やはり枝川城と共通している。

歴史等についてだが、「水戸市史」によれば、田谷五郎という人物の城としているが、よく分かっていない。戦国期、この一帯は水戸城主”江戸氏”の支配域であった。その江戸氏の家臣として田谷村を治めていた人物に、”富永又四郎和泉守”という人物がいたらしく、その富永氏に”仲田氏・岩崎氏・立山氏”といった家臣がいたようである。台地上の”白石台城”も富永氏が城主伝承とされているが、この富永氏は佐竹一族として伝えられている一族ではなく、江戸氏や大掾氏といった、また別の一族だったのかもしれない。彼らによって那珂川の流通・交通拠点として水戸城の北西の玄関口を抑えていたということなのだろう。
天正18年、佐竹氏による水戸城侵攻に際して、佐竹義宣率いる本隊の侵攻ルートだったと思われ、白石台城を落とされた後、この城も占領されたものと思われる。物流・交通拠点としての重要性は変わらずだったと思われ、その後、水戸城に拠点を移した佐竹義宣によって、この城には常陸大宮市小田野地区を治めていた”小田野義安”が移り住んだとされる(美和村史)。実際に廃城となったのは慶長7年の秋田移封のときであろうと思われる。

画像は上から所在地周辺図、縄張図の順。
3番目=縄張図内①から東を見た、クランクした道路の様子。
4番目=図内②の、東端部付近の南北に細長い畑。堀跡だろうか?
5番目=図内③から西を見た、北側堀跡と思われる道路。左手のヤブは土塁跡らしき高まり。
6番目=図内④から南を見た、土塁跡らしき部分。ここは字北小屋と呼ぶ。
7番目=図内⑤から北を見た、字北小屋の南側にある土橋らしき道。
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田谷白石台城

国道118号を水戸市より北進していくと那珂市に入る。さらに北進して台地を上がり進んでいくと、国道のすぐ西に大きな水道施設”県中央水道事務局”が広がっている。この施設の敷地すべてと南側の林のを含めた一帯が、旧石器時代から中世にかけての複合遺跡”白石遺跡”で、その中に城館遺跡”田谷白石台城”の跡が含まれている。所在地は水戸市田谷町(タヤチョウ)字白石(シライシ)という。

那珂台地の北西端部の、低地との比高約30mほどの台地端を利用して築かれており、南部は広大な湿地、北から東にかけては砂川が蛇行して流れている。この砂川が、北の外堀の役目をしていたのかもしれない。

遺構についてだが、水道施設の建設によって南側の林付近や周囲の畑地に僅かに、遺跡(包蔵地)の一部が残っているだけで、城館跡を含むほとんどの遺構は消滅した。だが、この施設建設に先立って、平成2〜3年にかけて発掘調査が行われているので、そのときの調査結果を元に紹介させていただきます。
調査結果によると、この城は大きく分けて4回ほど改修、増強されていることが判明している。

13〜14世紀初期にかけてのⅠ期、14世紀中期〜15世紀初期にかけてのⅡ期、15世紀中期〜後期にかけてのⅢ期、そして15世紀末期のⅣ期である。

まずⅠ期だが、東西約77m×南北約80mで、深さ約20cm程度の堀で区画した、方形で北西角を切欠いたような形の居館であったという。虎口は南側堀の東より1箇所のみで、土塁も無く、防御面はまったく考慮されていなかったと想定されている。

Ⅱ期だが、Ⅰ期の縄張りを一部利用し、東西約65m×南北約80mで、南へ末広がりになった”台形”のような形に変更されている。堀もⅠ期よりも深くなり、若干ながら防御を考慮した造りになっている。郭北側に屋敷があったようである。

Ⅲ期は、Ⅱ期の館の周囲に一辺103mの堀を方形に巡らし、検出はされなかったが、堀の内側には土塁が築かれていたらしい。虎口は南側堀の中央より東よりで前期とほとんど変わらず。内郭内部にも堀や柵、土塁を築いて区画やある程度の防御をしていたようである。また、主郭の東に堀を鉤状に掘った出丸らしき区画が設けられている。この内部には、掘立式建物跡が5棟見つかったようである。

Ⅳ期になると一気に規模が大きくなる。Ⅲ期の館の更に外側に、一辺165mほどの堀を方形に掘り、北東から南にかけて”L字型”に土塁を築いている。虎口は南側堀中央と西堀中央で、南側虎口は土橋を渡り、目の前の土塁を左折して入城する。西虎口は、木橋を渡って直接Ⅲ期館内に入城する。この木橋の両側(Ⅲ期館の堀内部)には”逆茂木”がたくさん打ち込んであったようである。
内郭であるⅡ期館部分の虎口両側には堀が掘られて”坂虎口(下り)”に変更され、内郭内部も掘り込まれて周囲より低くなり、水を溜め込む・周囲から見えなくする等の工夫がされている。Ⅱ期館同様に北側に主となる屋敷があり、周囲に深い堀を掘り込んでいる。

城主や歴史についてであるが、Ⅰ期の頃は、国井氏の領地であったらしい。その後の1285年の霜月騒動以降は、北条氏の領地となった。城内からは古い中国磁器や栄銭が出土していることも、それを物語っているという。
Ⅱ期は1300年代の南北朝期ごろとされ、大掾馬場氏支配の”吉田郡”に所在することから、馬場氏の関係者が住んでいたのではないかとしている。しかし、馬場氏もすぐに江戸氏によって水戸城を追い出されている。
Ⅲ期について、「新編常陸国誌」や「水戸市史」によれば、佐竹一族の白石氏が住んだとしている。また「水府志料」によると、白石志摩の時に”額田氏”に攻め滅ぼされたという。だが、この白石志摩という者は”白石志摩義光”といい、大宮町の”上岩瀬館”の城主で、南北朝期の瓜連城の攻防で南朝方として戦って討死しており、時代が合わないため「水府志料」の記述は若干信用できない。ただ、額田氏に攻められて滅ぼされたのは事実のようで、白石氏滅亡後には江戸氏の関係者が住んでいたのではとしている。
Ⅳ期は戦国時代真っ只中、基本的には江戸氏の領地であるため、その関係者が引き続き住んでいたと思われる。

天正18年の佐竹氏による水戸城攻略の際、ここは大将”佐竹義宣”率いる本隊の進撃ルートに位置し、佐竹氏の軍勢を迎え撃ったようだが落城、水戸が佐竹領になってからはこの城の必要性が無くなり、廃城となったと云う。

画像は上から1975年時の航空画像、現在、報告書掲載図を基にした略図、現況。

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藤井堀ノ内城

今回紹介する城館跡は完全に民家敷地内にあります。もし登城される際には、家の住人への声掛け厳守でお願いします。

水戸市北西部を流れる藤井川にかかる”工兵橋”、その北東に広がる集落一帯が”藤井堀ノ内城”の跡で、所在地は水戸市藤井町字堀ノ内という。

すぐ南側を藤井川が流れ、周囲を水田となる低湿地に囲まれた微高地に立地しているように見えるが、実際は北側の水戸ニュータウンがある”十万原台地”から続く台地最先端部に位置する。

各種資料によると、この藤井の地は1300年代の南北朝期ごろに、佐竹一族”義貫(よしつら)もしくは義実(よしみ)”が住み、土地の名をとって”藤井又次郎義貫”と名乗ったとされる。しかし、子がいなかったため、常陸大宮の小場氏が所領を持ったとされる。その、義貫の局(つぼね)の跡という「御局屋敷」と呼ばれる城館跡があったと多くの資料に記載されているが、具体的にどこなのか、この堀ノ内なのか関連があるのか等、詳細は不明である(一応、ここから北西に字小坪という場所があり、地元ではそこであろうと云われている)。その後、戦国期に至るまで藤井地区は、一時的に江戸氏が横領した時期もあったようだが、ほぼ佐竹氏の所領であり続け、領地としては最南西端の場所であったようである。

現在、城跡と思われる一帯は民家が軒を連ねているが、その周囲に堀跡や、土塁跡らしきものが見られる。しかし、一番の見どころとなる中心部は1軒の民家敷地で、高さ最大約2mにもなる土塁が北西→北→北東→東辺りまで巡り、その外側を幅約4mの堀跡がよく残っている。南側などは崩されてしまっているようである。堀も現在は深さが1mちょっとしかないが、明らかに埋まっており、本来は2mくらいあったものと思われる。また、土地の様子から、当時は水堀だったのではないかと思われる。
また、更に外側を同規模の堀跡らしき段差があり、2重の堀に囲まれていたように見える。そのほか、この民家より北西の場所には道路がクランクした場所があり、枡形のような雰囲気を持っている。

遺構としては以上で、典型的な平地城館と思われ、堀や土塁よりも、南を流れる河川や周囲の低湿地を最大の防御としていたのかもしれない。

この民家のご主人、この場所が城跡であることを誇らしく感じておられるようで、なんと、民家脇に「堀の内藤井城」と刻んだ石柱を建ててくれている。
なお、ご主人によれば、この城跡の東を「河岸」と呼ぶほか、周囲に点在する民家にはそれぞれ「こうや(染物業)・畳屋・伊勢屋・油屋・桶屋・新宅・旧宅」といった屋号で今も呼び合っているという。
近世資料の「水府史料」によると、藤井川(当時は入野川=いの川)の物流拠点として、小勝・塩子までの荷物を水戸や海老沢(茨城町)などへ運搬する河岸がこの地にあったと記している。
つまり、この城は藤井地区の支配と物流拠点であったといことになるかもしれない。


ちなみに、戦国期にこの地を任されていたのは綿引氏とされ、藤井氏については資料に乏しく、詳しいことは分かっていない。だが、同時期に佐竹一族藤井氏が佐竹氏に仕えていたのは確かなようで、秋田移封時に佐竹氏に同行し、秋田県大曲地区に移住したという。
藤井氏は武士であるだけでなく医学の心得もあったようで常陸在住時から、佐竹義宣の医療関係者として仕えていたという。時代は流れ、六郷に住んでいた江戸末期の子孫”藤井玄淵”が”のど薬”を開発、2代目が改良し、そして3代目が蘭学の知識を足してさらに改良したその”のど薬”を一般に販売、よく効くとたちまち評判になってよく売れたという。
3代目によって「龍角散」と名付けられ改良されたのど薬は、現在も本社を藤井氏が経営、販売されています。(龍角散HPより)


画像は上から所在地周辺図、縄張図の順。
3枚目=縄張図内①、民家脇の石柱。
4枚目=図内②を北から見たところ。クランクした道路の様子。
5枚目=図内③を北から見たところ。主郭部東側の堀跡。
6枚目=図内④から西を見たところ。主郭部北東部の土塁角及び堀の角部分。
一番下=図内⑤から東を見たところ。字河岸場の様子。
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藤井小屋城

水戸市西部の藤井町内を抜ける国道123号、城里町に入る手前にある”水戸ニュータウン入口信号”から、北西に約820mの位置。北側には水戸ニュータウンが立地する、八幡太郎義家の軍勢駐屯地伝説がある”十万原”が広がり、そこから徐々に高度を下げながら、ちょうど東に”那珂西城”を望む位置に台地が突き出している。この台地先端が”藤井小屋城”の跡で、所在地は水戸市藤井町字小屋という。
近世資料の「水府史料(茨城県史料 近世地誌編内)」によると、

「増井組 藤井村 小屋まい=佐竹義篤の時、下那珂西の坂上かきあげ普請の時、小屋をかけたる所」

と書かれている。
これ以外に資料が無く、また、地元伝承等も伝わっていないようであり、詳しいことは不明。水府史料の記述を信じれば、戦国期に当時の領主である佐竹義篤によって、向かい側にある那珂西城の改修に際して築かれた同城の西を監視する物見だったのかもしれない。
北から西へ流れる、藤井川の支流”西田川”とその低地の南側の、比高約10mの台地先端を利用して築かれている。この、低地に面した北から東にかけては急斜面となる。
先端に広さ約60m・30m×約50mの台形状のⅠ郭があり、周囲を高さ約20センチ〜1.5mの土塁を巡らせている。内部は段差が見られるがほぼ平坦である。この西側外を取り囲むようにⅡ郭がある。
Ⅱ郭は細長く、西側基部側に高さ最大約2mの立派な土塁が盛られており、中央部には横矢がかけられ、虎口も開けられている。その外側約3m下には、土塁に沿って幅約4mの堀が巡っているが、埋まっているためかかなり浅くなっている。
Ⅰ郭東下にも、同規模の堀が設けられている。
また、南東に、溜池らしき場所があるが、字小屋地名から離れてしまうので、ここは城域外とみていいようである。
遺構としては以上で、約100m四方程度の広さの小規模な城館跡で、案外、水府史料の記述そのままなのかもしれない。だが、横矢がかけられた堀や土塁など、小さいながらも見ごたえある遺構だと思います。
(2018年3月4日訪問)

画像は上から所在地、北から見た遠景、縄張図の順。
4番目=縄張図内①から南東方向を見た、土塁の折れの部分。画像中央より少し左手に虎口が映っています。
5番目=図内②から北西方向を見た、Ⅱ郭外側の堀と土塁。
6番目=図内②から、南東方向を見た、溜池の様子。
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