Pの、遺跡侵攻記

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勝倉台古戦場

陸上自衛隊勝田駐屯地が立地する、ひたちなか市勝倉(かつぐら)地区。

その自衛隊敷地内に”字勝負ノ間(しょうぶのま)”という地名があり、これら一帯が戦国末期の”勝倉台古戦場”と伝わる。

天正18年、水戸城侵攻を行っていた佐竹氏の一団のうち、当主”義宣”率いる本隊とは別に、海側から迂回するルートを進み途中の城館群を攻め落としていた父”義重”率いる別動隊は、現在のひたちなか市内国道6号付近の市毛原へ着いた後、東進して勝倉地区へ侵攻したとされる。地区の南端にある”勝倉城”を拠点として南側の枝川地区の武士たちもこの地に布陣して佐竹義重勢を迎え撃ったとされ、激戦の末、多大な犠牲を出したうえ突破を許し、隣の金上城も落とされ、枝川城も焼かれ、水戸城へ攻め込まれたという。その勢いは凄まじかったともいわれ、市毛原から水戸城占領まで数日のうちにこれらは成されたという。

時は流れて昭和となり、日立兵器株式会社(後の日立工機)が土地を買収して工場を建設、本土決戦に備えて”高射砲陣地”となったが、米軍による空爆及び艦砲射撃の餌食となって壊滅。終戦後、陸上自衛隊敷地となったなど、何かと武力と縁がある地域でもあるようだ。

字勝負ノ間は、那珂川北側の低地との比高約30mの那珂台地南端部に位置し、兵器工場建設前は山林や荒地などであった。土地の別名を”勝負沼”ともいい、清水地名と同様に水が湧いたりするところと同意味の「しょうぶぬま」が本来の意味であるらしい。それを示すように、少量の降雨でも水が溜まる水はけが悪い湿地帯であったようで、ここから流れ出た水が沢となって谷津となり、西は武田溜がある字稲荷谷津、東は字石井戸や、勝倉小学校東側の谷津へと派生している。これら湿地帯は、兵器工場建設で大部分が整地され、後の自衛隊駐屯地設置で更に整地がされて跡形もなく消滅した。現在は唯一、水はけの悪さだけが、残されているにすぎない。
県道63号沿いの小学校入口信号(字鹿島台)には、「藤本因幡守」と刻まれた近世・近代の墓石が弓矢八幡と共に残っているが、近世の人物なのか、あるいは勝倉の攻防の関係者なのかは分からない。

広域図内の茶色線は道です。


2018年6月10日日曜日追記:上記の「藤本因幡守」の墓石ですが、墓石の形からあまり古くはない人物かと思っていましたが、調べてみて、江戸後期の山伏修験者の墓であることが分かりました。
元々は、ここから県道を下った、旧街道との合流点付近に八幡と共にあったようですが、自衛隊敷地等後世の改変に伴って、この場所に移されたようです。

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小幡城に駐車場設置

ちょっと寄り道して、茨城町の小幡城を先日訪れました。

なんとビックリ。

入口手前の道沿いに、広い駐車場が設けられてました。

車は10台以上停められるでしょうかね。

そして入口には綺麗な柱が2本、そして看板もデザインはたぶん前と一緒でしょうが、綺麗に張り直されてました。その周囲も藪が払われて綺麗になっているし。

森林環境税を用いて、今年平成30年3月にこれらが設置されたようです(平成29年度末っていうことでしょうね)。

駐車場設置の際に発掘とかはされていないでしょうけど(しないほうがいいです、いちいち法律にしたがっているといつまで経っても先に進まないので)、以前に比べて随分と見やすくなりました。

地元の努力の成果は言うまでもないでしょう。

感謝です。

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金上城が立地する金上地区には、古くから、西の勝倉、東の三反田(みたんだ)との境界に、台地を分断するように土塁と堀が築かれていることが知られている。
「勝田市史」によれば、勝倉との境にある西側を二の堀、三反田との境にある東側を新堀(にいぼり)とし、両堀とも幅約10m×深さ約2mの規模としている。
現在は遺跡地図(いばらきデジタルマップ内)でもそれぞれが遺跡登録されている。

昭和57年に、二の堀に隣接する”勝倉・大房地遺跡”において、民家建設に伴う発掘調査が行われ、調査区内において上幅6.5m×底幅1・8m×深さ1.75mの大溝が出土している。

昭和の前半までに、耕作や宅地開発によってほとんどの遺構が隠滅または消滅してしまったが、残っていた当時の様子を知る90代くらいのご老人によれば、結構大きかった土塁があったことをよく覚えているそうだ。そしてこのご老人によれば、勝田市史の名称の記述は完全に間違っているそうで、

東の三反田側は新堀(にいぼり)、西の勝倉側は新堀(しんぼり)

と呼ぶのが正しいそうである。
はっきりと「あれは違う」と言っておられたので、勝田市史は間違っているということである。
以後、このブログでも、自分自身も、この呼び方で呼ばせていただきます。

わずかに、新堀(にいぼり)の南端付近の民家敷地と北端付近が土地の高まりに名残が見られるほか、新堀(しんぼり)の南端部の谷津と接続する辺りに遺構のごく一部が残存している。

市史ではこれら堀切を、大掾一族がこの那珂川沿いに住み着く以前に、この金上地区を支配していたであろう”金上氏”による境界堀として、平安後半の頃のものであるとしているが、その様子からは、金上城防衛のために戦国末期に築かれた外郭堀ではないかと思われる。そういう意味では、金上城の城域は先端部だけではなく、現在の金上地区全域となる総構えの城館ということになるかと思う。

1番目画像=周辺図
2番目=周辺図内①、新堀(にいぼり)北端部。
3番目=図内②から南を見た、新堀(にいぼり)の様子。画像右手が金上側。
4番目=図内③、新堀(にいぼり)南端部付近の民家敷地、金上側内部から見た様子。
5番目=図内④、新堀(しんぼり)南端の、谷津との接続部分にある残存部。
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金上城

ひたちなか市の南東部にある金上(かねあげ)地区の南端部、南に那珂川を望む低地との比高約20mの台地突端部に”金上城”が築かれている。所在地は、ひたちなか市金上字外城(とじょう)という。
城内は熊野神社境内となっており、台地東下の道路脇に車は路駐できます。

近世資料の「水府史料」によれば、

「深二丈余の堀あり。四方に高土手矢倉の跡あり。堀より西を御城山と唱え、東を外城山と云う。何人の居なるを知らず」

と記述しており、熊野神社が建つ場所が御城(地元では内城と呼ぶ)で、堀を挟んで南側先端部が外城であるようだ。現地の高齢者にも話を伺うと、先っぽから外城・内城と呼んでいたので、「勝田市史」記載の情報は間違っている可能性がある。

御城又は内城と呼ばれるⅠ郭は、広さ約60m×約90mの歪な五角形状で、東側は崩落していたり他は崩されていたりするが、周囲を高さ十数センチから最大約2.5mの土塁が巡らされている。城内ではもっとも高所に位置する。
Ⅰ郭の南側には幅約15m×深さ約6mにもなる大堀切が”くの字”状に折れながら掘りきられており、その南側に高さ約2mの土塁が堀に沿って盛られ、外城と呼ばれるⅡ郭となる。
Ⅱ郭は、広さ約50m×約30mの方形で、南西角に南へ向かって小曲輪が突き出している。郭の周囲には土塁が巡らされ、その外側約2〜4m下には幅約3〜5mの横堀が巡らされている。また、先の小曲輪の横堀を隔てて南側に尾根が突き出し、ここには天保年間の石碑がある。
一方で、Ⅰ郭北側には幅約3mの堀切の跡が残っている以外は、端城山(たんじょうやま)とか新屋敷(あらやしき)と呼ばれる段差を伴った畑や民家が広がり(いずれも字塙である)、北側も城域は広がっていたようであるが、それら段地形以外は明確に遺構は見当たらない。

主な遺構としては以上で、周囲を湿地に囲まれた台地突端部を利用、屈折した大堀切、郭の造り等、大きさはまるで違うが”水戸城”をこの土地に再現したかのような姿をしている。

金上氏系図」によると、金上氏は村上天皇の流れを組むとされ、平安後半の寛治年間に伊勢守明成平井の地に築城したとされる。だが、この系図は鎌倉期までのかなり古い時代の歴史ばかりで1300年代の歴史が丸々記されていないなど、信ぴょう性に疑問が多いように感じる。ようやく、伊勢守明方という人物が応永年間頃の城主として記され、その子孫で天文年間の城主としているのが”弾正左衛門明春”で、現在残る城の姿に近い形にしたのはこの人物の頃ではないかと思われる。恐らく江戸氏の家臣になっていたと思われ、金上城も水戸城の支城として整備され、明春の子孫”弾正明直・明村”の兄弟が天正18年の佐竹氏による水戸城侵攻に際して、佐竹義重率いる別動隊の猛攻を受けて討ち死に、城も落城し、そのまま廃城になったという。この兄弟それぞれの子らは一時浪人となったようだが生き残り、その子らは徳川に仕えて存続したようである。


画像は上から所在地、縄張図の順。
3番目=縄張図内①、Ⅰ郭北側の土塁を郭内側から見たところ。
4番目=図内②の堀切跡を、①の土塁上から見たところ。
5番目=図内③から見た、大堀切東側出口の様子。画像右手が熊野神社側。
6番目=図内④、Ⅱ郭北東側土塁上から見た、Ⅱ郭内部の様子。
7番目=図内⑤から見た、横堀の様子。
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枝川城

水戸城より、北東に約1.4キロ、県道232号(旧国道6号)沿いの”勝田枝川郵便局”や”枝川小学校”が立地する一帯が”枝川城”の跡で、所在地ひたちなか市枝川字城の内(じょうのうち)という。
車は、枝川小学校に停めておくといいかと思います。

平安末期、この辺り一帯を治めていた常陸大掾一族の”馬場資幹”の5男”時幹”がこの地に住んで”枝川五郎”を名乗ったことに始まるとされる。大掾系枝川氏についてのその後はよく分かっていない。後に、江戸氏が水戸城を築いて治めると、室町期の水戸城主”江戸通房”の4男”通弘”がこの地に住んで枝川氏を名乗り、以後、通衡・通近・(枝川信濃守又は小宿信濃守)・播磨守重氏と続いたとされる。天正18年、佐竹氏による水戸城侵攻に際し、東側の迂回ルートを進軍してきたとされる佐竹義重の別動隊の攻撃にあい焼き討ちされたという。

枝川郵便局や枝川小学校等が立地する、広さ東西約340m×南北約140mの長方形状に道路が走る区画が城域とされている。はっきりとした遺構は見当たらず、ほぼ隠滅したと思われる。那珂川の流れによって作られた微高地上にあり、北側那珂台地より流れる早戸川の支流が無数に枝分かれしているため”枝川”と呼ばれ、この枝川が微高地を取り囲んでまるで天然の水堀のようである。

地元研究者による「ふるさと枝川昔語(市川武雄著)」という資料によれば、著者が幼少の頃に聞いた話として、大正時代に字城の内の中央部に2反歩くらいの土地を持った大きなお屋敷があり、その土地の周りを小高い土手と堀が巡っていたらしい。檜類が群生していたその小高い土手のうち北東角の辺りには塚があり、榎や椿等が生えていたという。しかし、それらも昭和5〜6年頃に、国道6号(現県道232号)を通すための盛り土にするために崩してしまったという話を聞かされていたという。その後、大きな屋敷一帯は周囲よりもやや高い畑であっただけで、真っ平になっていたようである

昭和の最初までは、かなり見ごたえある遺構が残っていたと考えると、なんとももったいない感じである。

以前の記事にて、ここと水戸市田谷城が似ている話題をしたが、

枝川城 東西約340m×南北約140mの長方形状

田谷城 東西約304m×南北約135mの長方形状

航空画像内①、枝川城南東角付近の、内側へクランクした部分

画像内②、枝川城では馬橋と呼ばれる、南側へ延びる直線道

画像内③、城の内北西角の祠(稚児墓?)、田谷城では春日神社などの宗教施設の設置

以上のように、広さはやや違うが、立地条件や河川交通拠点など田谷城との共通点が多く、もしかすると田谷城と築城者が同じあるいは設計が共有されているのかもしれない。

画像内③の祠にあるお地蔵様の一部は、なんと五輪塔の”空風輪”で2個見られる。中世のものだろうか?
画像内④、塚(又は櫓台跡)があったと思われる辺り。

画像内⑤、城の内東側の枝川の様子。
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