Pの、遺跡侵攻記

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船戸山・和光院跡

水戸駅北口に直通の県道232号、ひたちなか市川から南進し、那珂川に架かる”水府橋”を渡って右手に法務局、左手に水戸2中に挟まれる形で谷津の入口でもある信号となる。この信号辺りが近世は”北三ノ丸・御船方”とか”北三ノ丸・海老久保”などと呼ばれた場所で、それ以前の中世は”船戸山(または船渡山)”といった場所で、”真言宗 伝燈山和光院明楽寺”の跡地である。

和光院は、元々は鹿島郡神生にあったお寺だったようで、水戸城主”江戸通雅”が枝川75貫文の土地を寄進したというが、同地で一時衰えてしまったため、大永年間に通雅の子の”江戸通泰”によって水戸・船戸山に移し、江戸氏の祈願所として栄えたという。
その後の天正18年の佐竹氏による水戸城侵攻により、江戸氏は敗走、それに伴い、水戸市西部(旧内原町)田島地区に移って現在に至るようである。永禄年間の佐竹義宣による水戸城改修時は不明だが、徳川時代には北三ノ丸や海老久保などの水戸城大改修時にほぼ跡地は改変されたようである。わずかに、上記の信号から法務局前を登って三ノ丸庁舎へと至る坂道が”伝灯坂”と呼ばれている程度である。
また、その旧地名が示す通り、この場所も那珂川の渡しであり、その寺領の関係もあってか枝川地区との往来の場所であったようである。

画像は上から、所在地、海老久保上から三ノ丸側を見たところ、本城斜面より海老久保及び那珂川水府橋を見たところ(2枚目・3枚目の撮影年は2008年、水戸城内”水戸2中”新校舎建設に伴う発掘調査現地説明会のもの)。
3番目=移転先の水戸市西部田島の和光院不動堂(=近世建立)の様子。
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青柳館

水戸市青柳町の水郡線”常陸青柳駅”から西に約400m、住宅地と那珂川堤防の間に”青柳共同墓地”がある。この墓地一帯が”青柳館”跡とされる。

大掾系馬場氏の一族が青柳地区に住み、土地の名をとって”青柳次郎泰幹”を名乗り館を築いたのが始まりとされる。
青柳氏は、馬場氏が水戸を追われた後は新たに水戸城主となった江戸氏に仕えたとされ、以後、家臣として仕えたという。その後は不明なことが多いが、天正年間の佐竹氏による水戸城攻めで占領され、敗走したと思われる。佐竹氏が水戸城主となったあとに、その家臣として青柳隼人という者がこの地に住んだとされるが、この人物は平氏ではなく、江戸氏や小野崎氏と同じ、藤原一族だったようである。青柳氏は佐竹氏の秋田移封に同行したため城は廃城となったようである。

この場所は、北西から南東に伸びる、那珂川の流れによって形成された微高地上にあり、北から南に向かって高度が高くなっている。現在は周囲が住宅地になってしまい、まったくわからないが、平成の初め頃まで広さ約75m×約68mの台形状の墓地で、宅地化する以前はその周囲は畑に囲まれた島状の様子だったようである。この共同墓地は”真言宗 那珂郡湊華蔵院末 瑠璃山金剛院 長福寺”という中世由来の廃寺跡で、近世に廃されたようである。その脇にかつて土塁があったとされている。しかし、1998年の台風による那珂川増水被害の後、災害対策として堤防が河川沿いに建設され、墓地敷地の南側半分が消滅し、その消滅した区画の墓地を元からある敷地の東側に移転、それから宅地化もさらに進んでそれら土塁も無くなってしまったと思われ、現在、遺構と呼べるものは何も残っていない

画像は上から、航空画像(2018)、航空画像(1948)、墓地入口、敷地内卵塔墓他無縁仏の様子。
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武熊城

水戸城がある水戸市中心市街地の東、国道51号の北側の住宅地の中に”水戸南社会保険事務所”があり、それに隣接して”竹隈公民館”がある。この公民館が建つ周辺一帯が中世城館”武熊城”の跡である。武熊=タケクマと読み、現在の所在地は水戸市柳町2丁目だが、旧町名は”横竹隈町”といい、また、北側に”十間町”が隣接していた。

常陸大掾吉田氏の一族”石川望幹”が初めてこの地に館を築いたと云われ、その後、水戸台地に進出した”江戸氏”が水戸城を築いてからはその江戸氏一族の居城となり、水戸城の南側の守りとして使われたとされる。
その江戸氏も天正年間の佐竹義宣による水戸侵攻によって水戸城を追い出され、この武熊城も一旦は廃城となったが、佐竹義宣が水戸を本拠とした頃から佐竹東家当主”東義久”が住んだという。その義久も突然亡くなり(暗殺説がある)、慶長7年(1602年)には佐竹氏自体も秋田へ移住となり、このときに完全廃城となったようである。
その後、慶安4年(1651年)ごろ、水戸城南の土地の確保のために”千波沼(現在の千波湖の一部)”を埋め立てるため、城のある一帯を削り取ってしまったと云われる。
現在、上記の理由により、わずかな起伏すら残さず遺構はすべて消滅、完全な住宅街になっている。それでも「新編常陸国誌」にある記述を参考にすると、元々この城があった場所は北西の水戸城から続く台地先端部であったと思われ、この僅かな台地を利用して堀や土塁で囲っていたのではないかと思われる。

先の公民館敷地には標柱が建てられている以外は、ここより北東約350mのところに桜川に架かる橋の名前が搦手橋といい、この方向が搦手であったのではないかと思われる。また、大手とされる場所は南側とされ、全体の広さは東西5町(約545m)×南北4町(約436m)ほどと記述されている。
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田谷城

水戸駅より北西に約7キロ、県道169号と県道63号が交差する場所、春日神社周辺の田谷集落一帯が”田谷城”の跡と思われる。所在地は、水戸市田谷町字宿という。

民家の周囲に堀と土塁が残ると「水戸市史」にも記載されている城館跡なのだが、他に詳細な情報が無く、また、現地にも伝承はおろか確実に遺構であると呼べるものが残っていないうえ、この辺りは那珂川の洪水が多発する地域でもあるため”水塚”という民家の基礎かさ上げも多用されているため土地の改変も多く、現地の状況・地図・各種土地資料等からの想像になってしまいます。

田谷集落は、周囲を低地に囲まれ、那珂川の流れによって形成された比高約5mの微高地に広がっています。この地区の村社である春日神社の東側に、字宿・字北小屋・字外城(とじょう)・字門前(もんぜん)といった小字地名が付けられた、広さ約190m×約290mの長方形状に道路が走っており、これが城の区画の跡ではないかと思われる。このうち、字宿・と字北小屋には土塁や堀跡らしき部分、土橋らしき地形が残るほか、周囲を巡る道路の内側は若干土地が低くなっており、堀の跡だったのかもしれない。また、県道169号を挟んで東側には、南北に細長く伸びる畑があり、これも周囲より若干土地が低く、東の堀跡かもしれない。

以上のように、それらしき地形はいくつも見られるが、これだと自信をもって言えるものが無い状況である。ただし、地図や土地資料で見たかぎりでは、「勝田市史に記載され、想定されている枝川城の姿」ととても似ており、田谷町南東端部の那珂川沿いには”船渡”地名があることから、那珂川の河川流通拠点として機能していたことも、やはり枝川城と共通している。

歴史等についてだが、「水戸市史」によれば、田谷五郎という人物の城としているが、よく分かっていない。戦国期、この一帯は水戸城主”江戸氏”の支配域であった。その江戸氏の家臣として田谷村を治めていた人物に、”富永又四郎和泉守”という人物がいたらしく、その富永氏に”仲田氏・岩崎氏・立山氏”といった家臣がいたようである。台地上の”白石台城”も富永氏が城主伝承とされているが、この富永氏は佐竹一族として伝えられている一族ではなく、江戸氏や大掾氏といった、また別の一族だったのかもしれない。彼らによって那珂川の流通・交通拠点として水戸城の北西の玄関口を抑えていたということなのだろう。
天正18年、佐竹氏による水戸城侵攻に際して、佐竹義宣率いる本隊の侵攻ルートだったと思われ、白石台城を落とされた後、この城も占領されたものと思われる。物流・交通拠点としての重要性は変わらずだったと思われ、その後、水戸城に拠点を移した佐竹義宣によって、この城には常陸大宮市小田野地区を治めていた”小田野義安”が移り住んだとされる(美和村史)。実際に廃城となったのは慶長7年の秋田移封のときであろうと思われる。

画像は上から所在地周辺図、縄張図の順。
3番目=縄張図内①から東を見た、クランクした道路の様子。
4番目=図内②の、東端部付近の南北に細長い畑。堀跡だろうか?
5番目=図内③から西を見た、北側堀跡と思われる道路。左手のヤブは土塁跡らしき高まり。
6番目=図内④から南を見た、土塁跡らしき部分。ここは字北小屋と呼ぶ。
7番目=図内⑤から北を見た、字北小屋の南側にある土橋らしき道。
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田谷白石台城

国道118号を水戸市より北進していくと那珂市に入る。さらに北進して台地を上がり進んでいくと、国道のすぐ西に大きな水道施設”県中央水道事務局”が広がっている。この施設の敷地すべてと南側の林のを含めた一帯が、旧石器時代から中世にかけての複合遺跡”白石遺跡”で、その中に城館遺跡”田谷白石台城”の跡が含まれている。所在地は水戸市田谷町(タヤチョウ)字白石(シライシ)という。

那珂台地の北西端部の、低地との比高約30mほどの台地端を利用して築かれており、南部は広大な湿地、北から東にかけては砂川が蛇行して流れている。この砂川が、北の外堀の役目をしていたのかもしれない。

遺構についてだが、水道施設の建設によって南側の林付近や周囲の畑地に僅かに、遺跡(包蔵地)の一部が残っているだけで、城館跡を含むほとんどの遺構は消滅した。だが、この施設建設に先立って、平成2〜3年にかけて発掘調査が行われているので、そのときの調査結果を元に紹介させていただきます。
調査結果によると、この城は大きく分けて4回ほど改修、増強されていることが判明している。

13〜14世紀初期にかけてのⅠ期、14世紀中期〜15世紀初期にかけてのⅡ期、15世紀中期〜後期にかけてのⅢ期、そして15世紀末期のⅣ期である。

まずⅠ期だが、東西約77m×南北約80mで、深さ約20cm程度の堀で区画した、方形で北西角を切欠いたような形の居館であったという。虎口は南側堀の東より1箇所のみで、土塁も無く、防御面はまったく考慮されていなかったと想定されている。

Ⅱ期だが、Ⅰ期の縄張りを一部利用し、東西約65m×南北約80mで、南へ末広がりになった”台形”のような形に変更されている。堀もⅠ期よりも深くなり、若干ながら防御を考慮した造りになっている。郭北側に屋敷があったようである。

Ⅲ期は、Ⅱ期の館の周囲に一辺103mの堀を方形に巡らし、検出はされなかったが、堀の内側には土塁が築かれていたらしい。虎口は南側堀の中央より東よりで前期とほとんど変わらず。内郭内部にも堀や柵、土塁を築いて区画やある程度の防御をしていたようである。また、主郭の東に堀を鉤状に掘った出丸らしき区画が設けられている。この内部には、掘立式建物跡が5棟見つかったようである。

Ⅳ期になると一気に規模が大きくなる。Ⅲ期の館の更に外側に、一辺165mほどの堀を方形に掘り、北東から南にかけて”L字型”に土塁を築いている。虎口は南側堀中央と西堀中央で、南側虎口は土橋を渡り、目の前の土塁を左折して入城する。西虎口は、木橋を渡って直接Ⅲ期館内に入城する。この木橋の両側(Ⅲ期館の堀内部)には”逆茂木”がたくさん打ち込んであったようである。
内郭であるⅡ期館部分の虎口両側には堀が掘られて”坂虎口(下り)”に変更され、内郭内部も掘り込まれて周囲より低くなり、水を溜め込む・周囲から見えなくする等の工夫がされている。Ⅱ期館同様に北側に主となる屋敷があり、周囲に深い堀を掘り込んでいる。

城主や歴史についてであるが、Ⅰ期の頃は、国井氏の領地であったらしい。その後の1285年の霜月騒動以降は、北条氏の領地となった。城内からは古い中国磁器や栄銭が出土していることも、それを物語っているという。
Ⅱ期は1300年代の南北朝期ごろとされ、大掾馬場氏支配の”吉田郡”に所在することから、馬場氏の関係者が住んでいたのではないかとしている。しかし、馬場氏もすぐに江戸氏によって水戸城を追い出されている。
Ⅲ期について、「新編常陸国誌」や「水戸市史」によれば、佐竹一族の白石氏が住んだとしている。また「水府志料」によると、白石志摩の時に”額田氏”に攻め滅ぼされたという。だが、この白石志摩という者は”白石志摩義光”といい、大宮町の”上岩瀬館”の城主で、南北朝期の瓜連城の攻防で南朝方として戦って討死しており、時代が合わないため「水府志料」の記述は若干信用できない。ただ、額田氏に攻められて滅ぼされたのは事実のようで、白石氏滅亡後には江戸氏の関係者が住んでいたのではとしている。
Ⅳ期は戦国時代真っ只中、基本的には江戸氏の領地であるため、その関係者が引き続き住んでいたと思われる。

天正18年の佐竹氏による水戸城攻略の際、ここは大将”佐竹義宣”率いる本隊の進撃ルートに位置し、佐竹氏の軍勢を迎え撃ったようだが落城、水戸が佐竹領になってからはこの城の必要性が無くなり、廃城となったと云う。

画像は上から1975年時の航空画像、現在、報告書掲載図を基にした略図、現況。

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