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茨城県央の鉾田市、その市街地内に”鉾田城”が築かれていた。所在地は、鉾田市鉾田字城ノ内という。
城北側にある”鉾神社”もしくは城内にあるコンビニに駐車できます。
この城は、北から流れる鉾田川、西から流れる巴川の両河川の河口部かつ合流地点に位置し、両河川の間の中州を利用して築かれている。また、南東に広がる北浦の北端いわば源流にあたる位置でもあるため、この地方の水上交通の最重要ポイントに築かれたことになる。周囲は水が豊富な湿地帯で廃城後は水田等であったが、元々水運が盛んだったこともあって昭和になってどんどん市街地化が進み、昭和50年代後半の巴川沿岸耕地整理による土地の区画変更等により(耕地整理の前後で土地の番地も全く違う)、ほとんどの遺構は隠滅・消滅した。
戦国期の鹿島城主”治時”の頃、訳あってこの周辺地区を治める烟田氏と武田氏そして鹿島氏で3ヶ村の取り合いになってしまったことがあった。その睨みあいにクサビを打つように2村の境界に当たる場所に鹿島氏によって築かれたという。この地を任された鹿島義清は、家臣”田山保胤”を城主とし、烟田・武田両氏の監視に当たっていたという。少し時期は過ぎて天正19年に家臣が佐竹氏に内通し夜討にかけたため、城主田山氏は自刃。その子でまだ幼少であった”田山駿河”は手習いで外出中だったために難を逃れ、後、烟田地区にて帰農したとされる。以後、城主子孫田山氏はこの地区に残っている。
鹿島氏等が滅ぼされてしまった後の文禄年間、佐竹義宣の家臣”酒勾豊後守道貞”という人物が城を任されていたらしい。廃城は慶長7年の秋田移封のころではないかと思われる。 市街地化する以前の城内は畑地で、周囲を水田である水堀が全周し、その外側を田山氏の家臣等の屋敷群が並ぶ細長い微高地が周囲を囲んでいたようである。それらの城域は東西約200m×南北約400mであったらしい。
現在、高須病院が建つ場所が城の中心部で、病院の西に接する場所に建物に隠れるように小さな神社と田山家の石碑、鉾田市の標柱が建てられた西の物見塚とされる土塁の一部が唯一明確に残る遺構である。その他、北側の堀の跡と思われる荒地となった水田が鉾神社の南側に隣接するほか、かつて城内だった部分は周囲の土地よりも若干地勢が高いなどの痕跡が残っている。 遺構としては以上で、基本的には単郭の城だが、周囲を取り囲む広大な水堀でそれなりの防御力があったのかもしれない。それ以上に、水運の重要地点に陣取っているということが、この城の最大の存在意義なのかもしれない。
画像は上から、明治期作成の陸軍迅速測図にある城跡の様子(中央の畑)、縄張図の順。 3番目=縄張図内①、高須病院西に接する物見塚(要害祭祀跡)と標柱。
4番目=図内②から①を見たところ。病院と民家の間の境界線。右が城内、左の民家が堀跡。 5番目=図内③、鉾神社南側に接する、堀跡と思われる荒れた水田の様子。 一番下=鉾神社。 |
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茨城県北西部の常陸大宮市は、2町3村が合併して誕生した大型の市である。その常陸大宮市西部と栃木県馬頭町と接する辺りにあるのが”旧美和村”である。
美和村は常陸国の北西端部にあって下野国の那須領とも近いため、この方面の事実上の最前線であったためか、街道に沿って多くの城館跡が見られる。そしてこの土地柄、山地が非常に多いために平城タイプは見られず、ほぼすべてが山城タイプというのも、この地域の特徴なのかもしれない。 国道293号を”常陸太田市”方面よりひたすら馬頭町方面へ西進していけば、この旧美和村内に入る。花立トンネルを抜け、十字路を左折してしばらく進み”鷲子(トリノコ)宿”に入り、国道沿い右手に”川勾(カワワ)林産(←この辺りでも非常に珍しい名前です)”という材木加工工場がある。
この工場背後の山が”鷲子城”の跡で、所在地は常陸大宮市美和鷲子字関根といい、道路沿いに城址標柱が建てられているが、車は南側の旧道にあるお寺”善徳寺”の駐車場に停めるのがいいかもしれません。 一般的にはこの城を”河内(コウト)城”と呼び、茨城県遺跡地図でもそのように登録されていますが、江戸氏系図等の資料にはその記載が無く、ここでは”鷲子城”の名称で進みます。
なお、同名の城が北側にもありますが、地元では北側の城を鷲子城とは呼びません。
城址のある山は、国道に沿って流れる緒川の北側の、低地との比高約50mほどの南西に舌状に突き出した山上を利用して築かれ、南側は緒川による低地が広がり、北側は低地から続く谷津が入り込み、それ以外の周囲も急斜面に囲まれた要害の地形で、北東側のみ山続きとなっている。
城内には現在”稲荷神社”祭られ、入り口の鳥居はそのためである。鳥居を潜ると掘り込まれたような参道が登っていき、神社へとたどり着く。ここが郭Ⅱである。
郭Ⅱは広さ約50m×約40mほどで内部は平坦、方形に土盛りがあるがこれは先の稲荷神社建立によるものと思われる。郭の周囲は高さ約4〜5mほどの切岸となり、幅約3mほどの帯曲輪がほぼ全周し一部は外側に土盛りがされて横堀状になっている。郭Ⅱ北側には幅約3m×深さ約2mほどの堀切となって、郭Ⅰに繋がる。 郭1は約20m四方程度の五画形状で、郭Ⅱより約4mほど高く、北西角と南東角に虎口らしき小道がある。郭の北側から南西にかけて高さ約1m程度の土塁が設けられ、郭の周囲は約5m〜最大約7mくらいの斜面に囲まれ、その周囲はやはり帯曲輪・一部横堀が巡っている。 郭1の北側には深さ約4m(郭Ⅰ側より)幅約5mほどの堀切を挟んで郭Ⅲがある。 郭Ⅲは広さ約25m×約20ほどの台形状で、周囲は高さ約2mほどの斜面となって郭Ⅰから続く帯曲輪が全周している。 ここより北側は尾根が上っていっているだけで遺構は無い。 なお、内部は植林によって杉林となっており、以前は荒れて藪化していたが、ここ最近、地区の地域活性化活動の一環として、ヤブや山林の伐採が進み、全体が見やすく歩きやすくなっています。 山上は普段の生活には不向きな構造で、すぐ南側下の国道が突っ切り、材木工場が立地している部分”居館”に当たると思われる。この場所は低地よりも高さ約4〜5mほど高くなって独立した空間であり、また、ここの小字地名は”字祢古屋”という。祢古屋は城主等の普段の住まいを指す”根小屋”が変化したもので、この字祢古屋を取り囲むように、集落が配置され、さらにその外側を囲むように緒川が流れる姿は小さいながらも城下町そのものである。
この館跡の歴史等についてだが、室町期の応永年間に、水戸市所在の大掾氏の”馬場館”を占拠し初めて水戸城とした”江戸通房(ミチフサ)”の子”通治(ミチハル)”によって築かれたと云われる。要するに、水戸城の代々の城主で那珂氏の末裔である”常陸江戸氏”の一族である。
江戸氏宗家は最終的には常陸領主”佐竹氏”と敵対して追放されてしまったが、この”鳥子江戸氏”は築城以来、代々佐竹氏に仕えて下野との境目であるこの地域を守ってきたため、佐竹氏の秋田移封に同行している。 この、秋田移住時の最後の城主といわれるのが”舜通(キヨミチ?)”で4人の子とともにこの地を去っていったが、子の一人”新五郎”だけは元々病弱でもあったらしく、秋田の風土が体に合わなかったためか病気を患ってしまい、なんと単身でこの鳥子宿に戻ってきたという。 その後、江戸氏家臣”小林氏”の後の代の子孫によって文化6年(1809年)に供養碑が建てられたという。それが現存する市指定文化財”江戸新五郎墓”である。墓碑の前にはいくつか土盛りが見られるが、これは家臣”小林氏”等の塚であると云われる。 画像は上から所在地、縄張図の順。 3番目=縄張図内①、Ⅰ・Ⅱ郭間の堀切の様子。画像右手がⅠ郭側。
4番目=図内②から見た、Ⅰ・Ⅲ郭間の堀切の様子。
5番目=図内③から見た、最奥の堀切の様子。ここが城域の終わりであろう。
6番目=図内④から国道方面を見た、根小屋地区の様子。
一番下の画像は、宿の南側の外れ、畑地の中にある”江戸新五郎墓”の様子。やや左手奥に見える山が鷲子城。
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昨日12月2日、茨城大学講堂にて開催された「魅力!迫力!!茨城の城ー埋もれた中世遺跡がいま蘇るー」という講座に参加させ戴きました。
この講座のメインであろう、ヤブレンジャーのメンバーのお話も、やはり現地に赴いて実際に見て経験した話なので、とっても面白かったです。
ここのところ、自分はこの趣味への熱が冷め気味だったのですが、この講座に参加して、少し燃えてきたような感じがしました。
とてもいい1日を過ごしました。
そして本日、その熱をさらに高めようと、久しぶりに登城。
まずはリハビリも兼ねて、藪無しの、ほぼ隠滅状態の歩きやすそうなものを2か所周りました。
その後3か所目、時間も3時を回ったので、茨城町にある巨大城郭に、これまた発掘調査現地説明会以来約9年ぶりに訪れて、初めて描いてみました。
1時間ちょっといましたが、到底、終わりません。
まあ、こんな感じです。
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