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国道118号を水戸市より北進していくと那珂市に入る。さらに北進して台地を上がり進んでいくと、国道のすぐ西に大きな水道施設”県中央水道事務局”が広がっている。この施設の敷地すべてと南側の林のを含めた一帯が、旧石器時代から中世にかけての複合遺跡”白石遺跡”で、その中に城館遺跡”田谷白石台城”の跡が含まれている。所在地は水戸市田谷町(タヤチョウ)字白石(シライシ)という。
那珂台地の北西端部の、低地との比高約30mほどの台地端を利用して築かれており、南部は広大な湿地、北から東にかけては砂川が蛇行して流れている。この砂川が、北の外堀の役目をしていたのかもしれない。
遺構についてだが、水道施設の建設によって南側の林付近や周囲の畑地に僅かに、遺跡(包蔵地)の一部が残っているだけで、城館跡を含むほとんどの遺構は消滅した。だが、この施設建設に先立って、平成2〜3年にかけて発掘調査が行われているので、そのときの調査結果を元に紹介させていただきます。 調査結果によると、この城は大きく分けて4回ほど改修、増強されていることが判明している。
13〜14世紀初期にかけてのⅠ期、14世紀中期〜15世紀初期にかけてのⅡ期、15世紀中期〜後期にかけてのⅢ期、そして15世紀末期のⅣ期である。 まずⅠ期だが、東西約77m×南北約80mで、深さ約20cm程度の堀で区画した、方形で北西角を切欠いたような形の居館であったという。虎口は南側堀の東より1箇所のみで、土塁も無く、防御面はまったく考慮されていなかったと想定されている。 Ⅱ期だが、Ⅰ期の縄張りを一部利用し、東西約65m×南北約80mで、南へ末広がりになった”台形”のような形に変更されている。堀もⅠ期よりも深くなり、若干ながら防御を考慮した造りになっている。郭北側に屋敷があったようである。
Ⅲ期は、Ⅱ期の館の周囲に一辺103mの堀を方形に巡らし、検出はされなかったが、堀の内側には土塁が築かれていたらしい。虎口は南側堀の中央より東よりで前期とほとんど変わらず。内郭内部にも堀や柵、土塁を築いて区画やある程度の防御をしていたようである。また、主郭の東に堀を鉤状に掘った出丸らしき区画が設けられている。この内部には、掘立式建物跡が5棟見つかったようである。
Ⅳ期になると一気に規模が大きくなる。Ⅲ期の館の更に外側に、一辺165mほどの堀を方形に掘り、北東から南にかけて”L字型”に土塁を築いている。虎口は南側堀中央と西堀中央で、南側虎口は土橋を渡り、目の前の土塁を左折して入城する。西虎口は、木橋を渡って直接Ⅲ期館内に入城する。この木橋の両側(Ⅲ期館の堀内部)には”逆茂木”がたくさん打ち込んであったようである。
内郭であるⅡ期館部分の虎口両側には堀が掘られて”坂虎口(下り)”に変更され、内郭内部も掘り込まれて周囲より低くなり、水を溜め込む・周囲から見えなくする等の工夫がされている。Ⅱ期館同様に北側に主となる屋敷があり、周囲に深い堀を掘り込んでいる。 城主や歴史についてであるが、Ⅰ期の頃は、国井氏の領地であったらしい。その後の1285年の霜月騒動以降は、北条氏の領地となった。城内からは古い中国磁器や栄銭が出土していることも、それを物語っているという。
Ⅱ期は1300年代の南北朝期ごろとされ、大掾馬場氏支配の”吉田郡”に所在することから、馬場氏の関係者が住んでいたのではないかとしている。しかし、馬場氏もすぐに江戸氏によって水戸城を追い出されている。
Ⅲ期について、「新編常陸国誌」や「水戸市史」によれば、佐竹一族の白石氏が住んだとしている。また「水府志料」によると、白石志摩の時に”額田氏”に攻め滅ぼされたという。だが、この白石志摩という者は”白石志摩義光”といい、大宮町の”上岩瀬館”の城主で、南北朝期の瓜連城の攻防で南朝方として戦って討死しており、時代が合わないため「水府志料」の記述は若干信用できない。ただ、額田氏に攻められて滅ぼされたのは事実のようで、白石氏滅亡後には江戸氏の関係者が住んでいたのではとしている。
Ⅳ期は戦国時代真っ只中、基本的には江戸氏の領地であるため、その関係者が引き続き住んでいたと思われる。
天正18年の佐竹氏による水戸城攻略の際、ここは大将”佐竹義宣”率いる本隊の進撃ルートに位置し、佐竹氏の軍勢を迎え撃ったようだが落城、水戸が佐竹領になってからはこの城の必要性が無くなり、廃城となったと云う。 画像は上から1975年時の航空画像、現在、報告書掲載図を基にした略図、現況。
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