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水戸駅より北西に約7キロ、県道169号と県道63号が交差する場所、春日神社周辺の田谷集落一帯が”田谷城”の跡と思われる。所在地は、水戸市田谷町字宿という。
民家の周囲に堀と土塁が残ると「水戸市史」にも記載されている城館跡なのだが、他に詳細な情報が無く、また、現地にも伝承はおろか確実に遺構であると呼べるものが残っていないうえ、この辺りは那珂川の洪水が多発する地域でもあるため”水塚”という民家の基礎かさ上げも多用されているため土地の改変も多く、現地の状況・地図・各種土地資料等からの想像になってしまいます。
田谷集落は、周囲を低地に囲まれ、那珂川の流れによって形成された比高約5mの微高地に広がっています。この地区の村社である春日神社の東側に、字宿・字北小屋・字外城(とじょう)・字門前(もんぜん)といった小字地名が付けられた、広さ約190m×約290mの長方形状に道路が走っており、これが城の区画の跡ではないかと思われる。このうち、字宿・と字北小屋には土塁や堀跡らしき部分、土橋らしき地形が残るほか、周囲を巡る道路の内側は若干土地が低くなっており、堀の跡だったのかもしれない。また、県道169号を挟んで東側には、南北に細長く伸びる畑があり、これも周囲より若干土地が低く、東の堀跡かもしれない。
以上のように、それらしき地形はいくつも見られるが、これだと自信をもって言えるものが無い状況である。ただし、地図や土地資料で見たかぎりでは、「勝田市史に記載され、想定されている枝川城の姿」ととても似ており、田谷町南東端部の那珂川沿いには”船渡”地名があることから、那珂川の河川流通拠点として機能していたことも、やはり枝川城と共通している。
歴史等についてだが、「水戸市史」によれば、田谷五郎という人物の城としているが、よく分かっていない。戦国期、この一帯は水戸城主”江戸氏”の支配域であった。その江戸氏の家臣として田谷村を治めていた人物に、”富永又四郎和泉守”という人物がいたらしく、その富永氏に”仲田氏・岩崎氏・立山氏”といった家臣がいたようである。台地上の”白石台城”も富永氏が城主伝承とされているが、この富永氏は佐竹一族として伝えられている一族ではなく、江戸氏や大掾氏といった、また別の一族だったのかもしれない。彼らによって那珂川の流通・交通拠点として水戸城の北西の玄関口を抑えていたということなのだろう。
天正18年、佐竹氏による水戸城侵攻に際して、佐竹義宣率いる本隊の侵攻ルートだったと思われ、白石台城を落とされた後、この城も占領されたものと思われる。物流・交通拠点としての重要性は変わらずだったと思われ、その後、水戸城に拠点を移した佐竹義宣によって、この城には常陸大宮市小田野地区を治めていた”小田野義安”が移り住んだとされる(美和村史)。実際に廃城となったのは慶長7年の秋田移封のときであろうと思われる。 画像は上から所在地周辺図、縄張図の順。 3番目=縄張図内①から東を見た、クランクした道路の様子。
4番目=図内②の、東端部付近の南北に細長い畑。堀跡だろうか? 5番目=図内③から西を見た、北側堀跡と思われる道路。左手のヤブは土塁跡らしき高まり。 6番目=図内④から南を見た、土塁跡らしき部分。ここは字北小屋と呼ぶ。 7番目=図内⑤から北を見た、字北小屋の南側にある土橋らしき道。 |
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2018年04月14日
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