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水戸市青柳町の水郡線”常陸青柳駅”から西に約400m、住宅地と那珂川堤防の間に”青柳共同墓地”がある。この墓地一帯が”青柳館”跡とされる。
大掾系馬場氏の一族が青柳地区に住み、土地の名をとって”青柳次郎泰幹”を名乗り館を築いたのが始まりとされる。
青柳氏は、馬場氏が水戸を追われた後は新たに水戸城主となった江戸氏に仕えたとされ、以後、家臣として仕えたという。その後は不明なことが多いが、天正年間の佐竹氏による水戸城攻めで占領され、敗走したと思われる。佐竹氏が水戸城主となったあとに、その家臣として青柳隼人という者がこの地に住んだとされるが、この人物は平氏ではなく、江戸氏や小野崎氏と同じ、藤原一族だったようである。青柳氏は佐竹氏の秋田移封に同行したため城は廃城となったようである。
この場所は、北西から南東に伸びる、那珂川の流れによって形成された微高地上にあり、北から南に向かって高度が高くなっている。現在は周囲が住宅地になってしまい、まったくわからないが、平成の初め頃まで広さ約75m×約68mの台形状の墓地で、宅地化する以前はその周囲は畑に囲まれた島状の様子だったようである。この共同墓地は”真言宗 那珂郡湊華蔵院末 瑠璃山金剛院 長福寺”という中世由来の廃寺跡で、近世に廃されたようである。その脇にかつて土塁があったとされている。しかし、1998年の台風による那珂川増水被害の後、災害対策として堤防が河川沿いに建設され、墓地敷地の南側半分が消滅し、その消滅した区画の墓地を元からある敷地の東側に移転、それから宅地化もさらに進んでそれら土塁も無くなってしまったと思われ、現在、遺構と呼べるものは何も残っていない。
画像は上から、航空画像(2018)、航空画像(1948)、墓地入口、敷地内卵塔墓他無縁仏の様子。 |
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2018年04月17日
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