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平成最後ですからね。
昭和から平成まで所在不明だった城館跡でも紹介したいと思います。
大戸館は、南に涸沼前川を望む低地との比高約30mの大戸台地先端部付近、大戸小学校より道路を挟んで北東に約160mの住宅地にあったと思われる。所在地は茨城町大戸(おおど)字馬場前という。
この館は、近世資料「水府史料」の中で「大城(おおしろ)坪と云う所にあり。北に門口と云う地あり。又陣所跡と云うあり。四方拾五間ほど、高土手を構へ堀あり・・・」と記述がされるほか、近世以降の多くの郷土資料において場所や遺構の様子が記されているにもかかわらず、未だに発見されたことが無かった。「茨城町史 地誌編」を見る限りでは、幕末ごろの地名でもその名が見られないようで、想像だが、現地で言っているだけのいわゆる俗称地名であって、元々小字として正式に登録されたものではなかったのかもしれない。今回、付近の住民数人に尋ね歩いて昔は言っていたという場所として、ようやくその場所が「武熊神社の1の鳥居脇の住宅地」と判明した。
館の遺構としては、方形に道が囲っているため、区画を想像できる程度である。もっと詳しく館跡を紹介すると、区画南東側の住宅地のみが大城と呼ばれていた場所であり、近世資料にもある規模の約30m四方という大きさとも一致する。戦後まもなく既に民家が建っていたが、この時点でも、遺構はある程度残っていた可能性もあるが、現在は周囲より若干土地が高いという程度である。
この地の歴史として、平安末期に石川系大掾清幹の長男盛幹が吉田太郎と称して大戸に居住、後に国幹が大戸氏を名乗ったことに始まるとされる。その後しばらくは大掾氏の土地であったが、応永年間以降は水戸城を築いた江戸氏の領地となり、その後、佐竹氏の領地となった。城は小規模であるが、大掾の時代というよりは江戸氏の時代に築かれた屋敷だったのかもしれない。
なお、この土地をご存じだった住民数人はいずれも90代の高齢者のみであった。
画像は上から所在地周辺図、1947年航空画像、縄張図の順。
4番目=縄張図内①、火の見櫓の様子。右手奥が神社の1の鳥居。
5番目=図内②、館跡南側の様子。右手が館跡。
6番目=図内③、神社参道脇、館跡東側の様子。
7番目=図内④から南を見た、区画西側のクランクした部分。
一番下=図内⑤から東を見た、館跡全景。
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2019年04月30日
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