Pの、遺跡侵攻記

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石崎城

 涸沼を望む低地との比高約15mの親沢台地先端部にある。所在地は、茨城町上石崎字親沢(おやざわ)という。以前、ボーイスカウトの敷地として使われていたため綺麗にされていたが、現在は使用されておらず、ヤブ化している。
 周囲には高さ最大約3mの土塁が周囲を巡り、西側には中央に折れを伴った深さ約5m×幅約7mの堀切が設けられている。また、曲輪内東側には館ノ山古墳があり、祭祀施設あるいは物見として使われたのかもしれない。
 この地は、常陸平氏の石崎氏が治めたとされ、1300年代の南北朝期から長い間は佐竹氏の領地であったようで、瓜連城合戦などで佐竹氏家臣として参戦、そのためか、常陸太田市花房町にはこの頃移住したとされる石崎姓の住民が数多くいる。戦国期は位置的に、水戸の江戸氏の領地であった可能性がある。城は、この頃に江戸氏の砦として築城されたのかもしれない。

所在地
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縄張図

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縄張図内①、城跡内部の様子。
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図内①から見た、館ノ山古墳の様子。
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図内③から①を見た、西側土塁の様子。結構な高さがあります。
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図内④から③を見た、堀底からの様子。
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野曽館(大高城)

 野曽館は、県道16号と県道59号が交差する工業団地南信号から北西に約187mの地点にある。野曽台地が東へ突き出した低地との比高約40m、南を流れる涸沼川から続く谷津が南と東、北方向を取り囲む低地との比高約40mの台地先端部にある。西側のみ台地続きとなっている。所在地は、茨城町野曽字荒谷という。
 現在この場所は、民家敷地内にあるため、許可が必要です。その複数民家敷地を巻き込む形で、高さ約2mの土塁が東側を除いて良く残っている。周囲の若干の起伏から、広さは約30m四方かと思われるが、民家敷地周囲にも斜面が連続しているため、実際の城域はもっと広いと思われる。
 この地の歴史としては、古くは宍戸領内だったそうだが、戦国期は江戸氏の領地かと思われる。後、佐竹氏の領地になったと思われるが、よく分かっていない。城域内の民家には現在「中坪」という屋号があるほか、この地には古くから「大高城」という城があったと伝承されている。それを示すように、城域内には苗字・屋号共に「大高」と呼ぶ家もある。この場所が大高城であった可能性は高いと思われる。このほか「茨城町史 地誌編」によれば、城之内・城屋敷・城跡屋敷・城やしきノ上・代官屋敷といった地名があったとしているが、現在いずれも消滅地名である。
 県道16号を挟んで南側対岸の台地先端部には、珍しい前方後方墳の宝塚古墳があり、城跡本体よりも涸沼川流域の展望が大変利く場所にあることから、物見台あるいは祭祀にまつわる場所として機能していた可能性もある。

所在地
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縄張図
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縄張図内①からAの方向、南東側土塁を内部から見たところ。
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図内②、館跡西側土塁を内側から見たところ。
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図内③から①を見たところ。若干窪んでいる以外は遺構は無い。
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図内④から西を見たところ。画像右手が郭側。狭く、周囲が高い。
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南側にある宝塚古墳。周囲の周溝と相まって、ちょっとした砦のよう。
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雨ヶ谷城

 雨ヶ谷城は、南を巴川、東を支流の黒川に挟まれた上雨ヶ谷地区の南東部、低地との比高約20mの台地先端部を利用して築かれている。所在地は、茨城町上雨ヶ谷字長者屋敷という。この辺りは駐車スペースがほとんど無いため、城内にある鈴木家墓地に、周囲住民の許可を経て駐車させてもらった
 この城は、西に入り込んだ谷津に沿って、幅約7m×深さ最大約2.5mの横堀を巡らせた南北約130mのⅠ郭と、北側に南北約80m×東西約150mのⅡ郭という2つの曲輪で構成されていると思われる。ただ、Ⅰ郭について、台地内側にかけて入り込んだ堀が途中から消えてしまい、Ⅰ郭本来の大きさが分からなくなっている。この、埋められたようにも見えない、途中から消えてしまう形態は同じ巴川流域の富田城と似た印象がある。また、南から東にかけては自然の谷津が堀の代わりになっている程度で、特に遺構らしいものは見当たらない。
 この土地は、平安末期に石川系大掾一族の家幹の3男秀幹が居住し、名を天神三郎と名乗ったことに始まるとされる。現在も、城跡のある台地南側下の集落は天神家(てんじん)が多数住み、古くからの住人だととの認識があり、字古屋敷(こやしき)にある天神社は氏神様として新たに祭ったものだという。その一族と関係するかは不明だが、「水府志料附録」によれば、藤枝長門という人物の居所だとしている。立地条件や規模の大きさ、遺構の造りからは、戦国期の巴川流域に多数見られる城館、特に鉾田市下冨田に所在する冨田城に似た印象があり、これらと同時期に築かれたこの土地の拠点とみていいのかもしれない。初めて住んだ天神氏(てんじん)も、その土地名から本来は「あまかい」と呼んでいた時期の名残なのだろうか。
戦国末期の頃は、佐竹氏の領地となったようである。廃城もこの頃ではないかと思われる。
 この城には、奥州成敗の行き帰りに立ち寄り最後は滅ぼした、県内ではふつうに見られる八幡太郎義家の長者伝説が残っている。しかし現地住民に伺うと、長者屋敷の伝説はおろか、地名「長者屋敷」のこともあまり知られていないようで、代わりに「ここは城だったと聞いている」という声を聴くことができる。

周辺図
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縄張図
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縄張図内①から見た、郭内の様子。
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図内①から見た、西側横堀の様子。
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図内②から見た、郭北側の堀の様子。画像左手がⅠ郭側。
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図内③、北郭の北側横堀の様子。
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図内④から巴川を見たところ。
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