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戦国末期の天正18年12月末、佐竹氏による江戸氏の水戸城及び、大掾氏の府中城への侵攻が開始された。このうち、水戸城についてだが、佐竹義宣率いる本隊が直進ルートを、佐竹義重率いる別動隊が東側の迂回ルートを進んで各地の支城群を破っていったと、「水戸市史」以後の資料に記されており、管理人自身もその考えでいた。古くは近世資料「新編常陸国誌」に始まるという。
那珂市教育委員会の那珂市史編さん委員会によって、平成31年3月31日に発行された「中世那珂台地の領主 那珂・江戸氏と額田小野崎氏の歴史」という資料がある。この資料の本文を高橋裕文氏が担当されており、同氏によると、天正18年12月前半に、人質として佐竹義重は在京、佐竹義宣と東義久も秀吉謁見のため上洛中であり、12月末の水戸・府中攻めに両氏は参加していないことが分かるという。「新編常陸国誌」などの近世資料では、上記のように2ルートに分かれて義宣・義重が水戸城を挟撃したとしているが、これは”嘘”とのこと。その後の「水戸市史」や「勝田市史」、そして「常陸太田市史」を始めとするほとんどの資料も根拠無し・誤解・嘘であるそうだ。そのほか、水戸城攻撃に関わった者への義重の官途状が茨城県北で多数伝えられているが、これらは後世の偽文書、要するに捏造されたものであると断言している。 実際に上洛に当たって義宣が下した「江戸の仕置」と「行方郡之仕置」を受け取ったのは、重鎮の真崎兵庫助(真崎氏は代々舞鶴城内が居所であったそうだ)であった。同時に、和田昭為と尽力せよとも記しており、水戸・府中攻めはこの2人によって部隊の編制などが行われ、実行されたようである。とはいえ、わずか2日で両本城だけでなく、その支城群も攻めこんで攻略していることは、あまりにもスピーディーな出来事のように思える。部隊の攻撃力、相手方への根回し、相手方の士気の低下など、いろいろ理由があったのかもしれない。 |
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2019年08月29日
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