Pの、遺跡侵攻記

自分の趣味を紹介するブログのつもりです。

遺跡・歴史

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全13ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

舞鶴城(常陸太田城)

投稿できるので、ちょっと再開。

とはいえ、これが城館跡の紹介としては当ブログ最後の物件となります。

最後はやはりここ、言わずと知れた常陸の殿様”佐竹氏”のご自宅「舞鶴城(常陸太田城)」です。

所在地は常陸太田市中城町字中城(なかじょう)という。

 舞鶴城は、佐竹氏の居城として代々形作られてきたが、転機となったのは室町初頭の代替わりであろう。
この頃、藤原一族上杉の竜保丸が跡を継ぎ、名を義人と改め居城したが、自分達(上杉流とは言い過ぎか・・・)の心情に合致しない現状の城に代わってこの地に新規に築城したものと思われる。展望が思ったほど良くない場所にあるのはそのためであろう。基本的には方形単郭で、周囲に土塁と堀を地形にやや合わせる形で巡らせ、このうち北東角の土塁上には、鬼門除けのために若宮八幡宮を設置、同時に稲荷神社も祭ったのかもしれない。また、室町末期に至り、家臣・一族・重鎮といった人物の屋敷が周囲に築かれ、防御を厚くしていったものと思われるが、度々、同族や、末期には伊達・岩城・相馬といった奥州勢力によって攻め込まれるなど、防御力の低さは否めず、そのたびに山奥の砦や那珂川の外といった力が及びにくい場所へ避難していたようである。
 戦国期になり、奥州勢侵攻での教訓、また、下野などの外国勢も力を付けてきたこともあって、本郭東には幅13間(約23m)、他の方角も幅約15mの堀に改めるなど、大規模にほとんど新規築城といっていいほど改修が行われ、現在見られる姿に近い形になったようである(築城者は義篤と思われる)。
 慶長7年の秋田へ移住に伴い、この城は廃城となってしまった。それから約100年後の1700年代になり、水戸藩重鎮の中山備前守によって陣屋が設置されたさいに荒れ果てたこの城を用いている。しかしそれはあくまで本郭のみであり、100年の年月の間に本郭以外の部分は残っている箇所も多かったが耕作や、中山氏による町の整備などによって周囲の遺構はつぶされた部分もあり、だいぶ旧状とは違っていたのかもしれない。このうちの一つが若宮八幡宮で、水戸藩時代に南の堀を埋め立てて現在地に建て直したことが「常陸太田市史」に書かれている。
 明治・大正のころに更に宅地が進んだが、大正の頃まで本郭の土塁や堀はよく残っていたらしく、史跡公園化して保存しようとする動きが見られたらしい。だが、結局は立ち消えてしまったようである。昭和になり、たばこ産業をはじめとする元の郭区画を無視する開発が加速、旧状がよく分からないほどになってしまった。
 現在、この城内の開発の余地が無いほど飽和状態であるが、旧たばこ産業跡地が将来的に「若者向け定住促進住宅地」として開発が計画中で、それに伴う発掘調査がごく一部の大変狭い区画で9月30日まで実施中である。


室町末期の想像縄張図
イメージ 1



戦国末期の想像縄張図。水色線は、8月31日時点での発掘で検出された堀跡。
イメージ 2

戦国図内A、若宮八幡脇の堀跡。堀の出口部分に当たる。
イメージ 3

戦国図内B、本郭北側の堀跡。道の左寄りに堀があったようである。
イメージ 4

発掘調査で出てきた堀跡。本郭のものではない。
イメージ 5

佐竹紋こと「五本骨扇に月丸」があしらわれたお菓子。
イメージ 6

拡大。天神林町の祭りで購入しましたが、もっと市で大々的に売ればいいのにと。
イメージ 7

長い間、ありがとうございました。

水戸城 線画

多分最後かな?

 明日、1日も投稿可能なら投稿してみますが、とりあえず最後の城館紹介、というかイラスト自慢でしょうかね。
明治期ごろに描かれたとされる「水戸城実測図」を基に、縄張図風に線画(ケバ絵)で水戸城を描いてみました。また図内に、現在見られる構造物を描き込んでいます。

イメージ 1

西石崎城

 涸沼を望む低地との比高約15mの石崎台地先端部にある。所在地は、茨城町上石崎字登城(とじょう)という。現在、城の中央を県道50号が貫通し、他は畑地や山林だが、周囲はヤブ化している。
 周囲は高さ鋭い角度の切岸が周囲を巡り、西側には幅約7mの堀切跡が畑となって残っている。この延長と思われる平場が、県道を挟んで対岸の山林内にあり、ここには虎口とそれに伴う土塁跡も残っている。しかし、全体的に遺構の残存状況は悪い。
 台地南側下の集落のご老人に話を伺うも、ここに城があったことは、聞いたことが無いとのこと。複数の住人に聞いていても同じであった。ただし、登城という地名から、何かしらあったのであろうと疑問には感じているようである。残る遺構から旧状を想像すると、東側に築城されている石崎城とよく似た雰囲気を持っていることが分かる。立地条件も全く同じであり、同じ時期に同じ人物によって築城されたのかもしれない。すぐ南西側にある「船渡(ふなど)」という地名から、渡しを監視していた可能性もあるかもしれない。
 この地は、常陸平氏の石崎氏が治めたとされ、1300年代の南北朝期から長い間は佐竹氏の領地であったようで、戦国期は位置的に、水戸の江戸氏の領地であった可能性がある。城は、この頃に江戸氏の砦として築城されたのかもしれない。

所在地
イメージ 1

縄張図
イメージ 2

県道50号上石崎十字路から見た、南からの遠景。
イメージ 3

縄張図内①から北を見た、西側堀跡の様子。
イメージ 4

図内②、西側から見た、城跡内部の様子。画像左端に県道50号がある。
イメージ 5

図内③、北側平場と切岸の様子。
イメージ 6

石崎城

 涸沼を望む低地との比高約15mの親沢台地先端部にある。所在地は、茨城町上石崎字親沢(おやざわ)という。以前、ボーイスカウトの敷地として使われていたため綺麗にされていたが、現在は使用されておらず、ヤブ化している。
 周囲には高さ最大約3mの土塁が周囲を巡り、西側には中央に折れを伴った深さ約5m×幅約7mの堀切が設けられている。また、曲輪内東側には館ノ山古墳があり、祭祀施設あるいは物見として使われたのかもしれない。
 この地は、常陸平氏の石崎氏が治めたとされ、1300年代の南北朝期から長い間は佐竹氏の領地であったようで、瓜連城合戦などで佐竹氏家臣として参戦、そのためか、常陸太田市花房町にはこの頃移住したとされる石崎姓の住民が数多くいる。戦国期は位置的に、水戸の江戸氏の領地であった可能性がある。城は、この頃に江戸氏の砦として築城されたのかもしれない。

所在地
イメージ 1

縄張図

イメージ 2
縄張図内①、城跡内部の様子。
イメージ 3

図内①から見た、館ノ山古墳の様子。
イメージ 4

図内③から①を見た、西側土塁の様子。結構な高さがあります。
イメージ 5

図内④から③を見た、堀底からの様子。
イメージ 6

野曽館(大高城)

 野曽館は、県道16号と県道59号が交差する工業団地南信号から北西に約187mの地点にある。野曽台地が東へ突き出した低地との比高約40m、南を流れる涸沼川から続く谷津が南と東、北方向を取り囲む低地との比高約40mの台地先端部にある。西側のみ台地続きとなっている。所在地は、茨城町野曽字荒谷という。
 現在この場所は、民家敷地内にあるため、許可が必要です。その複数民家敷地を巻き込む形で、高さ約2mの土塁が東側を除いて良く残っている。周囲の若干の起伏から、広さは約30m四方かと思われるが、民家敷地周囲にも斜面が連続しているため、実際の城域はもっと広いと思われる。
 この地の歴史としては、古くは宍戸領内だったそうだが、戦国期は江戸氏の領地かと思われる。後、佐竹氏の領地になったと思われるが、よく分かっていない。城域内の民家には現在「中坪」という屋号があるほか、この地には古くから「大高城」という城があったと伝承されている。それを示すように、城域内には苗字・屋号共に「大高」と呼ぶ家もある。この場所が大高城であった可能性は高いと思われる。このほか「茨城町史 地誌編」によれば、城之内・城屋敷・城跡屋敷・城やしきノ上・代官屋敷といった地名があったとしているが、現在いずれも消滅地名である。
 県道16号を挟んで南側対岸の台地先端部には、珍しい前方後方墳の宝塚古墳があり、城跡本体よりも涸沼川流域の展望が大変利く場所にあることから、物見台あるいは祭祀にまつわる場所として機能していた可能性もある。

所在地
イメージ 1

縄張図
イメージ 2

縄張図内①からAの方向、南東側土塁を内部から見たところ。
イメージ 3

図内②、館跡西側土塁を内側から見たところ。
イメージ 4

図内③から①を見たところ。若干窪んでいる以外は遺構は無い。
イメージ 5

図内④から西を見たところ。画像右手が郭側。狭く、周囲が高い。
イメージ 6

南側にある宝塚古墳。周囲の周溝と相まって、ちょっとした砦のよう。
イメージ 7

全13ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事