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約10年前に水戸市方面でお世話になった城巡り仲間のEさんより、久しぶりに連絡を頂いた情報です。
水戸市西部の大塚町内国道50号沿いに、中古車販売のガリバーがある。実施はその奥にあるファッション雑貨店がある大きな1軒の民家がある。この民家敷地が中世城館”鯉渕民部館”の跡という。所在地は、水戸市大塚町字大塚という。
名称が示す通り、この館の城主は鯉渕民部という人物で、江戸氏から分かれた一族で旧内原町所在の”鯉渕城”城主を本家とする人物である。戦国末期の天正18年頃、当時の鯉渕城主である”通賢”の家臣として、佐竹氏による水戸城攻略の際に、やはり江戸氏家臣である外岡氏等と共に、那珂市の五台原にて佐竹勢を迎え撃ち、時間稼ぎをしたという。結局は突破され、水戸城は落ち、江戸氏も敗走してしまい、本家である鯉渕氏も没落してしまう。
このとき、鯉渕民部は他の場所に逃げ隠れて無事だったといい、その場所でしばらくおとなしくしていたという。その後、佐竹氏は秋田へ移住し、時を同じくして鯉渕民部はこの大塚の場所に屋敷を建てて帰農したという。以後、大塚の鯉渕家として周辺一帯の土地を治めたそうである。 館跡裏手に住むおばあさんによれば、今から約60年以上前まで、この辺りには北側に1軒民家がある以外は、大塚町内にはこの鯉渕家のみ建っていたという。北側には福祉施設や乗馬クラブなどがあるが、これらもこの鯉渕家の土地らしい。
遺構としては、民家敷地の周囲に低い土塁が巡らされており、このうち角にあたる部分は特に高く盛られ、塚と呼ばれていた。現在もこの角部分には大きな古木が生えている(ただし、途中から切られてしまっているが生きてます)。外側に堀の類は無く、純粋に豪族屋敷といった印象である。
2018年3月4日(この日の本命です)に登城したのだが、この数日前に北側土塁が開発によって消滅した。 画像は上から航空画像、画像内①からAを見たところ、①からB方向を見たところの順。 |
遺跡・歴史
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2018年2月11日、ヤブレンジャー及び栃木県の方々合わせて10人くらいのメンバーに同行させていただき、登城した山城です。
茨城県西部にある安産祈願のお寺として、また、アジサイ寺としても有名な真言宗豊山派雨引山楽法寺がある。通称:雨引観音と呼ばれるお寺の北側にそびえるのが雨引山である。その雨引山山頂が”雨引要害”の跡である。所在地は桜川市(旧大和村)本木字雨引という。
雨引山は三角点表記がある標高409.2m、雨引観音との比高は約210mにもなる。雨引観音からはハイキングコースが設定されているため、容易に山頂まで行くことができ、展望も良いためか登山客も多い。
この地域は戦国期には結城氏、笠間氏、真壁氏、益子氏といった勢力による合戦が多かった地域であったようで、「大和村史」によれば、天正14年頃、笠間氏を抑えるために桜川市の橋本城を結城氏家臣”片身晴信”が守っていたといい、これと合わせる形で橋本城の南側にある龍蓋山(後の雨引山)に砦を築いて兵を駐屯させていたという。しかし、益子町田野を目指す真壁道無とその救援に駆け付けた太田三楽斎の軍勢のうち、真壁道無の手勢に攻められ、雨引要害は落城したという。一方の橋本城は雨引要害攻めに先立って、太田三楽斎等によって占領されてしまったという。
遺構は、雨引山の山頂部をほぼ全部使用して築かれており、三角点が置かれた本郭らしき区画には東屋やベンチが置かれ、ここからの見晴らしはスゴイのひとことである。道や、階段等が設置されているが、あまり改変は受けていないようであり、東屋がある区画は広さ約20m×25mの五角形状で、東側が微妙に高く土塁のようにも見える。西には深さ約4m×幅約3mの堀切が設けられ、この堀切は帯曲輪となって北から東へ山頂全体を取り囲んでおり、東端部も同規模の堀切となっている。中央部北側には虎口が設けられ、東へ土塁は折れ曲がり、この部分のみ横堀となっている。深さは50センチ程度しかない。 全体的に北側に重点を置いた造りで、南側は急斜面ばかりなためかあまりいじられていない。郭も一応は複数設定しているようにも見えるが、基本的には単郭の臨時築城のような感じで、村史に記述されている通りの遺構のように思える。 落城後、この地は下の楽法寺含めて真壁氏の領地となったようで、そのころには使われなくなったものと思われる。
画像は、上から所在地、雨引観音黒門前駐車場から見た遠景、縄張図の順。 4番目=縄張図内①、東側堀切の様子。画像右手が郭側。 5番目=図内②、西側堀切を郭から見たところ。 6番目=図内③、北側横堀の様子。中央部から左手に登城路が登っている。 一番下=郭から南側を見た展望。前日の雨で靄かかってます。本来なら真壁城が見えます。左手の山は筑波山、右端の山はたぶん筑波・多気山城。 |
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鹿島市所在の、佐竹氏による築城とも言われる大規模城郭”林外城(ハヤシトジョウ)”。
見事な遺構が見られる3つの郭は林地区にありますが、堀を隔てた南側の広大な外郭、こちらはお隣”田野辺地区”になります。
この田野辺地区の広大な外郭部が、2020年の東京五輪開催に伴う宿泊施設の建設によってそのほとんどが消滅します。
今年の4月以降には順次、重機が入っていくと思われます。
建物等が建っていない林外城、その姿を見るのは今シーズンが最後となります。
主郭周りに見られるような大規模な遺構が無いため、このような場所に興味を持つのは自分だけでしょうが、気が向いたらご覧になってみてはいかがでしょうか。
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那珂市菅谷地区にある城館跡”高内館”にて、現在発掘調査が行われています。
南から来る道路と、西の国道349号竹ノ内十字路から来る道路がLの字に交差する部分になります。
昨年12月から、今年の3月まで調査が行われているということですが、2月時点で現在の調査区であり、もっともすごい遺構が見られる館跡中心部が調査終了直後より、破壊されるとのこと。
3月までは、北側の外郭部が調査の中心になるようです。
もしご覧になりたい方は、お早めに。
画像は2017年12月24日に撮影したもの。 |
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茨城町内国道6号から鉾田市方面へ県道18号が通っているが、途中の鉾田市内紅葉(モミジ)地区で新道と旧道に分岐する場所がある。この分岐点から西に約400mの場所に”紅葉学習館”という施設がある。この施設より県道を挟んで北側にある2〜3軒の民家敷地一帯が”持地館”の跡で、”いばらきデジタルマップ”内の遺跡地図の表示位置・所在地名は間違いで、正しくは鉾田市紅葉字大乗(ダイジョウ)という。古代遺跡”大乗遺跡”と重複しています。
車は、この”紅葉学習館”か北側の”鹿島神社”に停められます。 この城には、持地館・用地館・用茲館・用次館(いずれも読みはモチジ)のほか、威公(徳川頼房)別邸・紅葉陣屋・小宮山楓軒居住地と、実に7種類の名称を持ち、現在は”紅葉城”という名称で遺跡登録されている。
平安末期、鹿島成幹の4男”四郎助幹(スケモト)”がこの地に居住、地名から”用地氏または持地氏(モチジ)”を名乗ったことに始まるとされる。以来、鹿島一族”持地氏”は代々この城に住んでいたが、室町期の”上杉禅秀の乱”に参戦し討ち死にしたとされ、それによって廃城になったという。この城の所在地”字大乗”は、大掾一族が城主だったことに由来するとされる。その後は城主伝承は無く、北には海老沢氏、南には武田氏、東には烟田氏といった者たちが勢力を競い合い、いずれかの者の領地となっていたことと思われる。時代は過ぎて近世江戸期、水戸徳川の奉行所としてこの地に陣屋が置かれた。その際、見事な”紅葉の木”が立っていたことから地区名を”紅葉”に改名したという(単純に発音し辛かっただけではとも思うが・・・)。
後にこの陣屋に水戸徳川の家臣”小宮山楓軒”が住んで業務にあたったといい、幕末に焼失、別の場所に再建されたといういのがこの館跡の歴史のようだ。 現在、館跡の南端部を県道18号が斜めに分断している状態だが、広さ約60m×約40mの方形館のような印象である。県道北側の民家裏手を土砂でかなり埋めてしまったが、本来は大きな谷津が西から東へ入り込んでいたようで、南の巴川を望む、西側へ突き出た低地との比高約20mの台地先端部に築かれている。その民家裏手には堀の名残である高さ約2mの切岸が途中まで残っている。これが唯一明瞭なこの城の遺構である。そのほか、南側の紅葉学習館の周囲も段々地形が見られるが、これらも遺構なのかは不明である。また、館跡がある台地の西側には深い谷があるが、これは江戸期に造られた運河”勘十郎堀”の跡である。
画像は上から所在地、縄張図の順。 3番目=縄張図内①、民家裏手にある城址標柱の様子。 4番目=図内①から見た、民家裏手の堀跡の斜面部の様子。 5番目=図内②、県道から見た民家西側の切岸斜面の様子。画像左手に鹿島神社が見える。 6番目=図内③から館跡を見たところ。奥の民家への直通入り口だった道。左手の植え込み外側は急斜面となっている。 7番目=図内④、県道から見た、紅葉学習館の看板と小宮山楓軒の碑標柱の様子。 |






