|
グリム童話だったかアンデルセン童話だったか、木こりがうっかりと手を滑らせて斧を泉に
落してしまった時、女神が現われて
「そなたが落としたのは金の斧か、銀の斧か。」
と木こりに訊ね、正直な木こりが
「私が落としたのはいずれでもありません。ステンレス、いや、鉄製です(←記憶あやふや)。」
と答えると、女神は木こりの正直さに金の斧と銀の斧の両方を与えた、という話は『無欲は大欲に似たり』という事でしょうか。
一方、正直者の誠実さを称える逆説として、日本には『舌切り雀』という昔話があります。
雀から大きな葛篭と小さな葛篭のどちらかを選ぶように言われ、無欲のおじいさんは小さい方を選び、
強欲なおばあさんは迷わず大きい方を選んだ結果、とんでもないものが入っていたという、強欲の戒めみたいな説話です。
ロシア民謡、ではなく、トルストイの『イワンの馬鹿』もこれに似た説話です。
愚直なまでに正直で無欲なイワンに悪魔がもっと賢く要領よく狡猾に生きる知恵(悪知恵)を授けようと、イワンの欲や射幸心を煽ろうとあの手この手で苦慮しますが、イワンは一向に興味を示さず、とうとう悪魔は力尽きて頭を打って死に絶える、というエピソード。
人間の尊厳とは一体何か、社会的地位・名誉・財産を得る事が果たして真の尊厳なのか、それらを得られれば果たして人間は幸せになれるのか、反対にそれらがなければ人間は幸せにはなれないのか、と幸福の本質について考えさせられる、童謡の体をとってはいるけれども、むしろ大人になってからこそこれを読むべきではないか、と思ったものでした。(と言いつつ子供の頃読んだきり、大人になってからは読み返していないが。。。)
バリバリのキリスト教徒だったトルストイならではの説話とは言え(ちなみに私は仏教徒)、
露骨に革新を突いた説話だと思います。
が、最近の子供達が現実的というか、冷めているというのか、恐らくマスメディアの発達の成す技だと
思われますが、それ以前に今の親達は子供に童謡など読み聞かせていないのではないか、と思える事が
ありました。
関西に転勤してきて初めて訪れた美容院の若い美容師さんとたまたまそら豆の話をしていた時(私が髪を切って貰っている間に読んでいた雑誌にそら豆のポタージュのレシピが載っていた為)、ソラ豆の童話を突然思い出して「そう言えばそら豆の筋が黒いのは、そら豆が爆笑してお腹が破裂した為にお婆さんに裂け目を縫って貰ったけれども、その時たまたまお婆さんは黒い糸しか持ち合わせていなかったからそら豆の裂け目は黒い、という童話があったわね。」と話したら若い美容師さんは大変いぶかられ、後輩の美容師さんにもそんな童話本当にあったかなどと確認され、しかも結構これが面白かったらしく、
私はすっかり“面白いデタラメエピソードをいうおかしなオバサン”というキャラとして、そら豆の童話は結局突拍子もない“ネタ”位にしか取られませんでした。
40年以上生きていると記憶が曖昧になる事は否めないものの、しかし全く存在し得ないフィクションが私の頭の中で新たに生まれたのだったとしたら、アルツハイマーよりも更に始末に負えない話です。
いずれにせよ、子供の頃に童話を読み聞かせるという事は、善悪の分別を認識させるという事も然ることながら、想像力を養う、親もしくは祖父母が施す大切な情操教育だと思います。
でなければ、トルストイの『イワンの馬鹿』を読んでもイワンの事をただ単に愚鈍で馬鹿な人間として見下すような、悪魔から太鼓判を押されるような立派な人間に成長することでしょう。
知識は視野を拡げる反面、却って固定観念を狭くしてしまうという現実もあります。
これは実例ですが、「雪が溶けると何になる?」と尋ねられた3歳児が「春になる。」と答えたというエピソードを親になった友人から聞いた事があります。
大人が同じ質問をされれば、十中八九「水になる。」と答えるでしょう。
人間の価値観とは多様なものです。自分の価値観を狭く限定してしまわない為に、常に謙虚さと反省の心を持ち続けたいものです。
|