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多分、「私」のことをよくわかってる人は、私ではない。 たとえば、俺の顔。 俺は、自分で自分の顔を見たりはできない。可能なのは、鏡に映った虚像としての姿を、自分だと思い込むだけ。 あるいは、他人の反応から、自分の顔について知るだけ。 自分自身というのは、自分の世界の中にある他人の姿のように俺たちに与えられはしない。 俺に与えられるのは地上160センチくらいの高さからの視野だけ。これは、おそらく自分以外の人が認識する「私」(とよばれるもの)とは全然違う。 私の世界は、私を中心に同心円状に、その気になれば、世界の果てへも、未来へも過去へも繋がっていく。 でも、どこまで行っても、どこまで深く世界について知っても、やっぱりそこに私はいない。 E.フッサールが言うように、私が認識する全てのものを本に書いたとすれば、そこにあるのは私以外の全てについて描かれた世界だろう。 だから、私は、「私」のことを想像して、イメージを集めて、反応を見ながら作り上げる。「他人」の似姿を自分に投影して。きっと「私」はこうであるはずだ、こうであればいいな、と思いながら。 もちろん、この私が作り上げた「私」は、他人によって否定されることもありえる。それによって、「私」の姿は、規制を受けたり変更を強いられたりする。 「私」は結局、「他人」のコピーで、おそらく他人から見た私の姿のはずだから、こうした反応について無視することもできない。 私のそうぞうする「私」と、他人が外から捉える「私」は原理的に全然違うもので、でも、これが両方とも原理的には「私」と呼ばれうる。 じゃあ、つまり、分かりあえるっていうのは何だろうか。 私は「私」のことを他人と同じように理解することはできない。どうやってもこの世界の外側にいけない私にとって、他人と同じ視点で「私」を見ることはできない。 じゃ、他人が私を理解することも、他人が私を理解することもできないんだろうか。 いや、きっと、むしろ、他人が居るから、私の姿が見えてくるんだろう。 あくまで、「私」は私から一番遠い「他者」として作られる。おっかなびっくりしながら。 近くにいる他者たちが、「私」だと言って認めてくれること。それが自分がそうぞうする「私」と重なり、認めること。私も、同じようにあなたを「あなた」であると認めること。 私を認めてくれる連関の中にはじめて「私」がいて、「あなた」もいる。 私が「私」であるという感覚は、きっとそういう複雑な関係の中の贈り物みたいなものなのだろう。 |
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