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今回の大地震はいろいろな新しいことを日本人に教えてくれたと思う。 Twitterの情報伝達の強靱さや、その口コミに似た特性。 即応性が高いがノイズが多い。 日本人の秩序意識と共生意識。一方で、これは指示待ちという意識でもある。 現代社会における受益層と受苦層のズレの問題。産業による災害では顕著に出のだが、もっとも利益を受ける層ともっとも被害を受ける層が異なる、ということ。そして、おおむね被害は社会の中で弱い立場の人を直撃する。 今回で言えば、電力をもっとも必要としているところと、もっとも被害の大きいところは、やはり異なるだろう。最大多数の最大幸福という観点からすれば、その判断は誤りとは言えない。 しかし、現に暮らしている人一人一人の問題で考えれば、そんな観点は意味がないことに気がつく。他がどうであれ、ほかでもないその人にとってどれほど違いがあるのだろうか。 最後に、日本の言論空間の中心はやはり東京にある、ということだ。 マスメディアの人間は、東京に住んでいる。 だから、東京が関わった時だけ報じ方が多く、長くなる。それは報じる側の危機意識の影響だろう。 そして、近代国家の形成以後、社会的な意識はマスメディアによって形作られる。なぜなら、私たちは日常生活で関わることがない範囲の人たちであっても、私たちと共に生きる圏の内部にいると考えている。このような関係性は、決して自然なものではなく、メディアによる媒介を通じてしか成立しない関係性だからだ。 そして、公論の中心的な担い手であるマスメディアが、ある特定の自分が住んでいる場所からの実感に基づいて、公的な領域で危機を報じ続けている。 だから、諸外国においては日本全体が危ないという認識を受ける。なぜならば、日本のマスメディアは危機を報じ続けるから。私の周りで関西在住の留学生達が母国からの関心への対応に閉口している。海外に住んでいる人に、日本の生活の実感があるわけがないのだから、公論として日本から発せられたものだけを受信していると、危機があるように感じてしまう。 しかし、一方で、極論してしまえばそれはある地域の危機であって、日本の危機ではないのだ。もちろん、深く長い問題がこれからも続いていくことは理解している。経済的な打撃も大きい。しかし、少なくともそもそも日本全土が避難を考えたり、逃げ出したりしなくては状態ではない、といいこともできる。 先ほど述べたように、私たち(日本人)そのものが、マスメディアの媒介を経て成立している想像の共同体(B.アンダーソン)に過ぎない。だから、実感のレベルとはズレがあってもそれを無視することはできない。 そこで、本来的には関係ないはずの事でも、自粛しなくてはいけないような感覚に陥る。 確かに日本人として災害には気を配り続けるべきだろう。ただし、一方で生活者として私たちは生きていくことを考える必要がある。それは、非常事態から平時へと繋がっていくなだらかな道筋を形作って行くはずだ。 私たちは忘れてはならない。なぜ、かつての国家総動員体制を私たちが止められなかったのか、ということを。 山之内靖によれば、その決定的な契機は関東大震災にあった。確かに非常時において平時の手続きや議論は融通が利かない。そこで、そのような場合、平時の手続きは簡略化され、無視される傾向にある。そして、確かにその方が結果として人を多く救う、こともある。 しかし、それは非常事態だから許されることだ。結果論がまかり通れば、良い結果を目指して行った全ての行いを正当化する他なくなり、権力をコントロールすることができなくなる。 平時においては、大して賢くも立派でもない人間達が、右往左往しながら、慎重に、確実に議論を行うことが不可欠である。そして、適切な時間と手間暇をかければ、その過程は、結果論の時のような暴走も失敗も防げるはずだ。 確かに、災害の傷跡は、深く、まだ一部の余波は収束するあてもない。 しかし、それでも、災害に対して応急処置的に対処する時期から、災害をかかえてそれでも生活する時期へと私たちは移行しなければならない。それができる人から率先して。 普通に生き、笑い、悩んで、苦しむ。そして、その生活と災害をかかえていることをいかに両立させるのか。これが今、直接的な被災地にいない、しかし、同じ国に生きる人間の考えるべき事ではないかと思う。 |
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