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最近、台湾ではタイタニック3Dなんていうのが流行っている。 さて、このタイタニックという主題がなぜこれほどまでに人を惹きつけるのか、このあたりをちょっと深いレベルから考えてみようというのが今回の主題。 社会学とか人類学には供儀論っていう議論がある。これは、ようするに生贄を捧げるっていう儀式について研究する議論。有名なのだとバタイユとかジラールとか。 なんで生贄の捧げるなんていう儀式があるかっていうと、それによって共同性を担保するため、っていうのが一般的な答え方。それってどういうことよ、っていうのはまぁ、終わってみてから考えてみて。 さて、タイタニックに戻る。 タイタニック号っていうのは外界から隔絶されたひとつの特別な世界だ。 社会の中にいる普段は関わることがない人々も、まとめて分かりやすく一つの空間の中に包括される。したがって、タイタニック号で出会った二人の男女は、本来なら身分が違うから出会うことはなかったろうし、かつ出会ったとしてもあの船の上という特別な環境がなければ、交流することもなかったろう。 他とは切り離された関係を可能にしていたのがあの船というモチーフであり、大地から大地へと移動する海の上という一種の不安定な状況であったわけだ。 したがって、タイタニック号で出会った二人はこの特別な環境に感謝しつつ、深く船という対象にコミットしつつ、関係を深めていく。この船が二人をつなぐ絆になった、ということ。 ここで何事もなく、船が次の陸地に着き、いつもの通常の価値観が戻ってくれば、二人の関係は続かない。二人の関係を成立させているのは、この船というオブジェクトなわけだ。 しかしながら、不幸にして船は事故に合い、沈んでしまう。これはこの物質がもう使用不可能な状況になったことを意味する。その結果二人の関係を支えていた船という対象に対する思い入れも、宙に浮いた状態になる。 順を追ってみてみよう。 船に対する深いコミットメントは、船と自分をある程度同一化することをもたらす。タイタニックの場合、この同一化によって二人の恋愛が可能になっている。船にいる自分は普段とは違って特別で、その理由はやはり二人が船の上にいるからだ。 しかし、事故による破壊によって、自分が同化していた対象は認識不可能な「なんでもないモノ」へと解消される。 その結果、私が深く船にコミットメントしていればしているほど、私の存在が破壊されたような感覚を味わい、「私という意識」と「私以外の外部」との境目が曖昧になることを経験する。「私の喪失を観察する私」というのは矛盾一杯の眩暈がするような体験だろう。 この「何者でもなくなった私」という感覚の共有によって、本来違うはずの人々の間の交流が可能になり、その結果そこには強力な共同性の感情が生まれる。 タイニックの文脈で言えば、この船という対象の喪失によって、この喪失を共有し、共同体験することによって、そうでなかったならば生じなかったような愛情が芽生えるわけだ。 加えて言えば、この喪失の感覚はタイタニック号上での魅力にあふれた毎日を前半で見せられた観客も共有している。観客は前半でまさに私もその船の上にいるかのよう映画を見、またその船に対して幾分か自分を同一化する。 したがって、船が破壊されるカタストロフィによる喪失の共有はレベルの違いこそあれ、観客も体験するのであり、それが作り物で私たちは現実の世界にいるという区別をこえて(このような区別を超えた共同性を可能にするのが供儀だ)、私たちを物語の人物たちとの共同性の中へ誘う。 ちなみにこのような供儀によって生じる共同性は、日常的な規範からの逸脱、分かりやすく言うと狂気的なお祭り騒ぎを伴いやすい。沈んでいくタイタニックで描かれた日常ならおかしいと思われる行動の数々はこのような供儀によって生じた特殊なお祭りの空気によるものとして理解できる。 ジャックとローズの恋愛は、このような燃え上がる感情によって悲しい結末をを迎えるが、もしそうならなかったならば、どうなったであろうか。 確実に言えるのは、二人の愛が完成する形はこれしかなかった、ということだ。 祭りの間に愛が幕引きされなければならなかった。 そして、そのことによって、二人の愛は残った。 悲劇であれ、祭りであれ、一瞬の心からの愛を感じることができたことは、二人にとって幸せだったのだろうか。 |
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