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何が起こったか、から問うのはとても理にかなっているように見えて、すごく無意味。
起こったことの全てに必然的な理由があるのならばそれも良いのかもしれないけど、現実に起こることは多数の変数の組み合わせによる偶然で起こる。
客観的なルールの存在も、神の実在も、私たちは証明できない。すでに絶対的な視点は放棄されてしまっている。
だから、本当は確率で表している段階が一番正しくて、現実に現れてしまったものはすでに歪んでいる。
とくに、その起こってしまった顕在性のみに注目する場合、その歪みは極端に大きくなる。
本当は起こらなかった潜在性を同時に考慮に入れなければ、正しい結果の測定などはできない。
しかし、起こらなかったことが起こりえた事だと誰が証明できるのか。
ここに、現在の学問の困難さがある。
もちろん、実験可能な、繰り返し観測可能な状況を再現できるのなら、問題はない。
しかし、現実社会で起こりうることという想定は、そもそもそれが実験室的な状態でないことを示している。
だから、この問題への根本的な解決策はない。
しかし、それでも、問うことはできる。
つまり、問題が生じたから、原因を探すのではなく、起こったことから犯人捜しをするのではなく、
その当時に与えられた認識の範囲、条件の中で他にどのような可能性があったか、ということを問わねばならない。
これは同時に現在問う、ということでもある。
今与えられている条件の中で、顕在化する可能性が高い未来と潜在的な未来、として取り得る選択肢が顕在化されているものの他に何があるのか。
これを問い得た時、少しはマシな問いを発せられるようになる。
少なくとも、その可能性が高いと私は信じている。
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