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ブログでお会いした皆様
長い間いろいろ有難うございました。私がヤフーブログを始めたのが
2009年10月3日でしたからもう10年になろうとしています。10年
一昔といいますが、いつの間にか年月が経ち齢を重ねてきました。
心身ともに大分衰えたように思います。
しかしこの10年間ブログでお付き合いくださった皆様のおかげで本当に
張り合いのある生活を送ることが出来ました。日常の小さな出来事や
感じたことを とめどなく書き並べましたが、そんな記事にコメントをおくって
くださったことを感謝しています。
今回私はブログの引越しはせずに引退します。これまで親しくお話させて
いただいて有難うございました。お目にかかったことはなくても、皆様は
親しいお友達だと勝手に思っています。
どうぞご健康で楽しい日々を送ってくださいますように 心からお祈りして
います。 さようなら!!
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無題
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新山下町から「見晴らしトンネル」を抜けたところで思わず立ち止まってしまい
ました。何と一面の焼け野原だったのです。ところどころビルが焼け残っていま
したが、あとは平らでいつもは見えない海まで見渡せたのでびっくりしました。
足元はまだ火がくすぶっています。熱気が押し寄せてきます。瓦礫のなかを
足場を見つけながら先を急ぎました。
三渓園の手前の角を曲がって少し行くと、正面に大きなコンクリート製のゴミ
箱が焼け残っていましたが、それに寄りかかって男の方が焼死しておられまし
た。その傍に2人の方が倒れておられ、3人とももうご遺体でした。ああいうとき
人間の神経はおかしくなってしまうのですね。その傍らを平気で通り過ぎて
行きました。友達の家は勿論焼けて跡形もなく、ご家族もいらっしゃいません。
きっと避難してご無事に違いないと思い、友達を我が家に連れ帰りました。
途中の家々はみんな焼けていましたが、私の家はポツンと焼け残っていま
した。焼夷弾が落ちたそうですが幸い不発だったので焼けなかったそうです。
後で見たら軒先が2箇所ほど焦げていました。そして焼け出された方たちで
家は満杯でした。皆さん焼け残ったところに避難してこられたのです。家は
焼けたけれど命が助かってよかった、と口々に話しておられました。
母がどう工面したのか不思議でしたが、おにぎりを皆さんに食べていただい
て、その晩は雑魚寝しました。翌朝になると「田舎の親戚を訪ねていってみま
す。お世話になりました」とご家族ごとに出て行かれました。お昼ごろには
半分以上の方が去っていかれました。その日の午後にお友達のお母さんが
来てくださって、ご家族も無事で菊名の親戚の家にいらっしゃるということで
喜び合いました。友達はそれから一週間ほど我が家で暮らしました。
貯木場の事務所には二日後に行って見ました。すると三々五々みんな集ま
ってきて全員無事に顔をそろえました。それから今までどおり仕事をしていま
したが8月15日いわゆる「終戦の詔勅」も事務所においてみんなでお聴き
しました。その後事務所は閉鎖になり、私たちは別れを告げました。
『元気でね。また会おうね』とお別れしたまま殆どの方とはお会いできない
ままです。
近頃日本もそうですが世界の情勢も平和とは反対のほうに向いて進んで
行くような気がします。あんな悲惨な戦争は世界の何処の国であっても決して
起こってはならないと思いつつ、何も出来ないことが残念です。私自身は
機銃掃射も受けず焼夷弾の火に逃げ惑うこともなく無事でしたが、戦争の
悲惨さを知ったものとして、これからの世界が平和であって欲しいと切に
願い祈っています。
ブログも近いうちに終わりますので、これまで仲良くして頂いた方々にわたし
に戦争体験をお話してみたくなりました。長々とまとまりのない文で申し訳
ありませんでした。お読みくださって有難うございました。
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今まで見たこともない光景・・・黒い煙が本牧方面からどんどん流れてきて
夕方のような薄暗い空間でした。驚いて下のほうを見ると、すごい人の群れ
が続々と元町のほうに急ぎ足で歩いていきました。皆疲れきった様子でもう
走る元気もないようにみえました。
ぼろぼろの衣服をまとった方たちが大勢いました。リヤカーにわずかな道具を
積んでいく人、しっかりとお釜を抱えていく人、子どもさん一人を抱っこ ひとり
を負んぶ、少し大きい子の手を引いて歩いているお母さん。次つぎと人の波が
続いていきました。
私たちはただ呆然としてその群れを眺めていました。すると下のほうから大き
な声で『横浜中全滅だよ〜』と叫ぶ声がしました。そこで私たちは初めて大変
な事が起こっていることを知りました。私たちは無傷で新山下町も無傷です。
でも山手の山にさえぎられて こちら側からは見えないけれど、山の向こうの
市街地は大変なことになっているのだ と分かりました。
急に自分の家のことや家族のことが心配になり『どうしよう。。。』と話し始め
ましたが、その頃の私たちは一種の覚悟みたいなものが出来ていたのです。
毎日の空襲の中でいつどんなことが起きても不思議はない、なるようにしか
ならない、と開き直っていました。どんなことがあっても受け止めるしかない
と言う気持ちでした。
そのうち空襲警報が解除になり事務所に戻りました。主任さんから皆一緒に
帰るように、一人にならないように、との注意を頂いて帰る事になりました。
その時私の父が自転車に乗って様子を見に来てくれて、家が焼け残ったこと
を知らせてくれました。そこで私は仲の良い友達の家が三渓園の傍にあるの
で、様子を見に一緒に行くことにしました。
もう一度中断します。申し訳ありません。
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今日は8月15日「終戦記念日」です。新聞の見出しも小さくなりました。若い
方たちにとっては昔の出来事になってしまったのでしょう。しかし未だに生き
残っている私にとっては、ただの思い出ではなく忘れられない出来事でした。
1945年3月に旧制の女学校を卒業してまもなく学校からの紹介で、新山下町
にある陸軍の貯木場の事務所に行って欲しいという話がありました。ちょうど
勤労動員の続きのような感じで 卒業生5名が行くことになりました。
元町の通りを抜けて広い道路(桜木町から本牧埠頭方面行き)を渡り、今は
もうなくなっている川沿いの一本道を辿っていくと新山下町に着きます。貯木場
には大きな太い木材が整然と並んで海に浮かんでいました。事務所に行くと
私たちのほかにも他校の卒業生5名が来ていて、総勢10名の若い女の子たち
が集まりました。
事務所には主任さんとおじいさんがおられました。私たちの仕事はそろばん
を使って伝票の整理をすることでした。東北地方から切り出された木材を
貨車に積んで貯木場に運びます。何月何日どこから貨車に載せて(貨車番号
も)いつ貯木場に着いたかを記載した伝票が山のようにあって、それを集計
整理していました。
皆仲良く仕事をしていましたがもう戦争の末期だったので毎日空襲警報が
鳴りました。防空頭巾をかぶり救急袋を肩からかけて防空壕に急ぎました。
防空壕は山手の崖の岩盤に横穴がいくつか掘ってあり、新山下町の人々が
其処を使っていました。私たちも其処に入れていただきました。
5月29日も午前中何時もより早く空襲警報が出ました。私たちは身支度を
整えて防空壕に急ぎました。随分時間が過ぎてから急に日本軍の高射砲が
ドンドン鳴りだし、飛行機の低い重々しい爆音が響いてきました。「今日は
凄いわね。近いのかしら」と話し合っていました。1時間ほど経つとピッタリと
高射砲の音が止みました。
あたりはシーンとしました。しばらくしても空襲警報が解除になりません。わたし
たちは待ちくたびれてぞろぞろと防空壕を出てみました。すると其処には今まで
見たこともない光景が広がっていました。
長くなりましたので一旦ここで終わります。
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10連休が終わって今日から何時もの日が始まりました。病院も医院もお休み
で困った方もいらっしゃるのではないでしょうか。私も整形に行きたいのですが
今日は凄く混むのではないかと思い、やめました。
今日は待ちかねていた方が一斉に押しかけるのではないかと言いますと、娘が
『案外今日は空いているかもよ』と言うのです。皆さんがそう思って今日は行くの
を遠慮しておられるのではないか、と言う考えです。実際に行って見なければ
分かりませんね。
陽気が良くなると庭の花が咲き出しますが、同時に雑草も勢い良く出てきます。
いまは脚が痛くてしゃがめないので草むしりがあまり出来ないのです。不自然
な姿勢でむしるので直ぐ疲れてしまいます。今年は無理しないことにします。
初めて咲いたサボテンの花
失敗
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