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お坊さんが答えるQ&Aサービス「hasunoha」の質問に答える
       旧姓に戻さなければいけませんか?
 
離婚しようと思っています。
姉妹ふたりとも結婚し、現在は次女である私が両親の仏様をみています。夫の両親がいずれ亡くなったら、私の両親は永代供養することになります。
離婚したら、私がずっと供養を続けることができるし、私が両親のお墓に入ることもできる、とも考えています。
まだ学生の子供がいるので、離婚後も現在の姓を使うほうが便宜上よいのですが、両親のお墓に入るなら、姓が違っても問題ありませんか?
離婚の理由は両親の供養のこととは、全く別のことです。
どうか、よろしくお願いします。
 
回答  洞林寺住職
祖先祭祀を承継していれば、お墓に入れます
 質問の意味が若干不明の部分がありますが、「両親のお墓に入れるか?」という点に回答させていただきます。
 まず、あなたの御両親が眠る墓地の「墓地管理規則」をご確認ください。私の寺の「墓地管理規則」では、墓地の承継について「 墓地使用者が死亡したときは、祖先の祭杷を主宰すべきものがその地位を承継するものとする。」と規定しております。あなたのところの「墓地管理規則」はどうなっていますか?おそらくほぼ同様の規定になっていると思います。「長子でなければ、承継できない。」とか、「祖先と同姓でなければ、承継できない。」とは規定していないと思います。

現在は次女である私が両親の仏様をみています

ということは、あなたの御実家の祖先祭祀はあなたが承継していると思われます。姓が違っても、御両親と同じお墓に入ることは可能だと思います。(親戚などが「結婚して姓が変わったら、駄目だ。」と何の根拠も無く横槍を入れるケースがよくありますが、その墓所に関して何ら責任も権限も有しない親戚の言うことは聞き流して構わないと思います。)
 
下記の文章は何かの勘違いから、書かれたのではないでしょうか?上記回答で不十分でしたら、もう一度あらためてご質問ください。

夫の両親がいずれ亡くなったら、私の両親は永代供養することになります。
離婚したら、私がずっと供養を続けることができるし、私が両親のお墓に入ることもできる、とも考えています。
 
 
質問者からの書き込み
ご回答いただき、ありがとうございます。
拙い文章で、わかりにくくて申し訳ありません。
今は私の両親の仏壇が家にあるのですが「一家にふたつの位牌があるのはよくない」との理由で、夫の両親が亡くなったら、私の両親は永代供養することになっていました。
離婚した際には、今後も私の手元に位牌を置いておけるということです。
性の変更については、墓地管理規則を確認してみます。
ありがとうございます。
 
回答者(洞林寺住職)からの追記
追記
サバライスさん、以前、私がブログに書いた記事です。一つの仏壇に両家の位牌が有っても構わないと思います。一軒お家に両家の仏壇を置かざるを得ないこともあると思います。http://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/1331247.html
 
 
 
「結婚して姓が変わったら、実家の墓には入れない。」こんな規則を明文化している墓地管理規則なんておそらく皆無だと思います。ところが、慣行としてこういう「仕来り」になっている、となっていた地域もあるかもしれません。実質的にこういう慣行になっていた時代もあったかもしれません。
 
現代においても、「こういうしきたりが有る」と思い込んで苦しんでいる方も多いんじゃないんでしょうか?真剣に悩んでおられる方も多いかと思います。
 
「家を継ぐ」「姓を名乗る」ということに必要以上に拘った結果、破談になったり離婚に至ったり、ということも多かったかもしれません。でも、こんな仕来りを厳守して居たら、あっと言う間に日本中で無縁墓地が急増しちゃうでしょうねえ。
 
 
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お坊さんが答えるQ&Aサービス
「hasunoha」の質問に答える
 
質問 仲直りする方法
 
 こんばんわ、 私の悩みを言います。 私は友人と大喧嘩してもう1カ月になります。私から二度と連絡しませんと啖呵切ってしまいました。それから2週間後ツイッタ―(私も友人もまだアカウントは消してないです)のDMが少し削除されてしまって...お互い鍵がかかってるので返信のしようがありません。相手は何を思ってDMの思い出を消したのか何か一言言ってくれたらと私は思いました。私のことが怖くて怯えてるから声をかけにくいからDMを消して反応を確かめる...私はDMを消されてから鍵は解除しました。でもそれからDMは消されてません。私は手紙を書きたいでも勇気がない...また拒絶されるに違いないと思っています。私はまってるだけでいいのでしょうか? もう待つのに疲れました...毎日夜が哀しくてさみしい他のこと話していてもどうしても友人のことを思ってしまいます..
 
 
 
回答
仲直りに秘策無し。謝るべきことは謝りましょう。
 
 人と接し交友して行く中で、程度の差こそあれ言葉や感情の行き違いが生じます。その結果として諍いや喧嘩を起こしてしまいます。その時は、怒りにまかせて、相手を罵り攻撃してしまいます。誰もがやってしまうことです。少し時間が経ち、怒りが収まって来ると、喧嘩したことを後悔します。意地を張ったまま喧嘩別れする場合もあるでしょうし、何らかの方法で仲直りできる場合もあります。
 具体的な状況が分かりませんので、飽く迄も一般論的な回答とならざるを得ないことを御容赦ください。
 
 仲直りに秘策などありません。謝るべきことを謝り、仲直りの意思表示を行うことです。「仲直りしたい」という気持ちをお持ちでしたら、素直にその気持ちを実行に移されることが一番の解決方法だと思います。
 でも、仲直りしたいと思っても、なかなかその一歩が踏み出せない場合も多いですよね。「ごめんなさい。」と言おうと思っても、なかなか口に出せない。今がそういう状態だと思います。
 

私は手紙を書きたいでも勇気がない...また拒絶されるに違いないと思っています。

本当に仲直りしたいと思うのなら、こんな言い訳して「自分を正当化しようすること」を先ず止めましょう。勇気を持って手紙を書いて「仲直りしたい」意志を伝えましょう。そして、友人と会う機会をつくり、友人に「仲直りをしたい。」意志を伝えましょう。1対1で会う状況をつくるのが難しい場合は、先輩、職場の上司、共通の友人等誰かに仲裁人をお願いできると良いんですが。
 
 「仲直りしたい」意志を友人に伝えたからといって、一旦壊れた友情を修復出来るかどうかは保証できません。「仲直りしたい」という気持ちを友人に伝えないままで終われば、伝えなかったことをずうっと後悔し続けるでしょう。友情を修復出来るか否かはあなたの行動だけで決まるものではありません。でも、あなたが修復のための行動を起こせば、あなたが仲直りの意志表示を行えば、修復の可能性が生じることは間違いありません。
 
 まず一歩を踏み出しましょう。
 
 
と、上記のよう回答いたしました。質問者の説明がちょっと漠然としているので、回答がかなり一般論のようなものになってしまっていると思います。なるべく質問者に寄り添い、その方の立場や気持ちを理解して回答するように努めておりますが、今回は難しかった。 
 
 よろしかったら、御批評御叱正賜り、より良い回答・アドバイスの仕方をご教示ください。
 
 
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「hasunoha」の質問に答える
 
質問 祖母を亡くして悲しくてたまらないです。
 今日母方の祖母を亡くしました。臨終にも立ち合いました。病気でもう長くないとは言われており、遅かれ早かれこういう時が来るとは覚悟していましたが、やはりとてつもなく悲しいです。
小さいころから可愛がってもらい、いつもにこにこしていた優しいおばあちゃんでした。あのおばあちゃんにもう会えないかと思うと悲しくて仕方ありません。今も涙が止まりません。どうすればこの悲しみを克服できるでしょうか。女々しい男で申し訳ありません。ご回答お願い致します。
 
 
回答
悲しむことも大事。
愛情に応えて生きていくことがもっと大事。
 
 小さいころから可愛がってくれたおばあちゃんを亡くされ、本当に悲しいことと思います。御愁傷様です。心より哀悼の意を表しますと共に、あばあさまのご冥福をお祈り申し上げます。
「どうすればこの悲しみを克服できるでしょうか。」というご質問ですが、「無理に克服しようと考える必要は無い。」と私は思います。何故なら、人間は感情の生き物です。悲しみを克服しようと思っても、直ちに克服できるものでは無いと思います。悲しみから立ち直るには或る程度の時間が必要であり、中陰供養等「故人を供養する」ための行が必要であると思います。
 
敢えて分析させていただきますと、
 
1、 仏教では四苦八苦と言って、「8種類の苦しみがある」と説きます。その1つに愛別離苦という苦しみを説いています。愛する者と別れる事、大切な方との別れることが辛く苦しいものであると説いています。しかし、命ある者は必ず死を迎えます。おばあさまはあなたよりかなり年長ですから、一般的にはあなたより先に死を迎えます。あなたがこの世に生を受けた時点から、ほぼ予定されていたことです。

2、 あなたは、ものごとの道理として、おばあさまが自分より先に人生を終え死んでいく事を理解していると思います。

3、 理屈の上で「死に納得」しても、感情の面で「納得できない。」だから、悲しくて「今も涙が止まりません」という状態なのだと思います。
 
 
 あばあさまは仏弟子として御仏の世界に旅立たれたと思います。おばあさまの旅路を応援し後押しするための供養として「初七日から四十九日までの中陰供養」があります。宗派や菩提寺によって流儀の違いはありますが、おばあさまの菩提寺の流儀にしたがって読経・焼香・礼拝・立塔等お勤め下さい。
 それと同時に心掛けて頂きたいことがあります。あなたは生前おばあさまから多くの愛情を頂いたと思いますが、おばさんからの愛情をあなたの現在の仕事・勉学・人間関係に活かしていくことです。要は、「現在のあなたの姿を見て、おばあさんが喜んでくれる」ような生き方を続けていく事です。
 悲しみは完全には消えません。何日経っても、何年経っても、愛する人を喪った悲しみは蘇ってきます。でも、おばあさんの愛情に応える日々を送っていれば、悲しみを蘇らせる以上に美しい思い出を蘇らせることが出来ますよ。
 
 
 
以上のような回答を載せました。回答には字数制限がありますので載せませんでしたが、以前hasunohaの別の質問「孤独感を無くすには?」への回答も参考になると思います。下記のアドレスをクリックして御参照下さい。
 
孤独感を無くすためにどうしたらよいですか」という質問に対する回答の中で
下記の部分が回答の中心となる部分です。
 愛する伴侶、愛する家族が居ても、生まれる時から死ぬまで一緒ということは不可能です。信頼しお互いに認め合っている友人が居たとしても、「常に一緒、生涯一緒」という訳には参りません。家族と言えども、期間限定。友人と言えども期間限定。そう理解すべきだと思います。
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この部分も参考になるかと思います。 
 
 
 
 
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  仏事についての疑問質問
 
         六七日はお参りしない。」と聞きましたが?
 
最近亡くなられた方のご兄弟が毎週七日目ごとに交代でお参りに見えてます。
その中のお一人から、こんな質問をいただきました。
 
質問
「方丈さん、こんど六七日になりますが、六七日はお参りに行かない方が良いとよく言われます。それでよろしいでしょうか?」
 
年に数回は必ずこういう質問を受けます。近所の方や知り合いの方からこういうことを言われた経験のある方も結構居られると思います。その一方で、今の時代ではこの質問の内容や意味がピンと来ないという方も多いかもしれません。質問の答えを書く前に、質問の前提となることについて、少々説明させていただきます。
 
 
 
六七日について
  故人の命日から数えて(命日を含んで数える)七日目を初七日(しょなのか)と言います。
  初七日の一週間後(14日目)が二七日(ふたなのか)  「にしちにち」とも言います。
        二週間後(21日目)が三七日(みなのか)   「さんしちにち」とも言います。
        三週間後(28日目)が四七日(よなのか)   「ししちにち」とも言います。
         四週間後(35日目)が五七日(いつなのか) 「ごしちにち」とも言います。
         五週間後(42日目)が六七日(むなのか)   「ろくしちにち」とも言います。
         六週間後(49日目)が四十九日
 
故人が亡くなった日から四十九日目までの状態を「中有」もしくは「中陰」と言い、四十九日に至るまでの期間もしくは四十九日目に故人のために行う法要を中陰供養と言っております。また、七本塔婆と言って、葬儀の後に遺体もしくは遺骨を墓所に埋葬し、初七日から四十九日まで一週間ごとに墓所に塔婆を立てるという供養の形態は多くの地域で行われております。
 
中陰については以前別の記事で説明したことがありますので、そちらをご参照ください。
 
四十九日間の意義
1、 死者の魂を浄化するための期間(忌中、忌明け) − 民俗的な立場
2、 来世に行く(戒名を授かり仏弟子となり、仏国土に旅立つ)ための準備期間
                                       −  仏教的立場
 
1に関しては以前「喪に服す」ということについての記事を書きましたので、
その記事をご参照ください。
             http://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/3522648.html
 
2に関して説明しますと
   戒名を授けられ仏弟子となったら、来世(仏国土)に旅立ちます。本格的な旅立ちまでの四九日はその準備期間修行期間と理解いただけばよろしいと思います。故人が修行の階段を一段一段登っていくと同時に、ご遺族ご親族もそのご修行を後押しし応援していく気持ちを込めて七日目ごとに菩提寺を参拝し塔婆を立ててお墓参りしてきました。
 
前置きが長くなりましたが、以上の説明を踏まえて、質問への回答を申し上げたいと思います。
 
 
 
回答
結論から先に申し上げますと、「六七日にはお参りしない」という考えは語呂合わせからくる迷信です。
6×7=42  42が「しに」と読めることから、「死に」を連想し、そのことを理由に誰かが「六七日はお参りしない方がいい。」と言い始めたのでしょう。人に不安を与える迷信の方が、ちゃんとした仏さまの教えよりも、広まってしまう。困ったことですが、実際こういう迷信を広めるひとが居ます。また、言われた方もその根拠を疑いながらも、「人がしない方がいいと言ったことは、やらない方がいいだろう。」と言って、そういう迷信に従ってしまうのです。
  故人に戒名をさしあげましたが、それは仏さまのお弟子さんになったということです。今は仏弟子としての階段を一段一段とお勤めしているところだと思います。そして、皆さんが七日目ごとにお参りしているのは、そのご修行の後押しであり応援だと思います。そのご修行を単なる数字の語呂合わせを理由として、止めてしまう。ご修行の応援を止めてしまう。それは、おかしなことだと思います。
 
 
以上の説明で質問された方は納得され、「わかりました。来週もお参りしてもいいんですね。また来週お参りさせていただきます。」と言って帰って行かれました。
 
 
 
 
追記
  同じような迷信から「四七日目のお参りはしない」という方もかなり居られ案す。これも、愚かな迷信だと思います。
また、「4日ボトケを嫌う」と言って、亡くなった日から4日目には葬儀をすべきではない、という方もかなり居られます。これもかなりひどい迷信です。地域によっては、この迷信が習俗化している場合もあります。数字の語呂合わせに縛られて、もっと大切なことを見失ってしまっている。それは誠に残念なことです。
 
 
    (注)この記事はあくまでも私の個人的見解であり、曹洞宗としての公的な見解ではありません。
 
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仏事に関する疑問質問  「お墓に私はいません」?
 
  ―千の風になって、と言う歌について―
                  

私のお墓の前で    泣かないでください
そこに私はいません  眠ってなんかいません


今や、日本中の誰もがこの一節を知っています。昨年の紅白歌合戦でテノール歌手秋川雅史が歌い、大ブレイクのヒット曲となりました。CD売上げ枚数は百万枚に達しようとして居るとか。
芥川賞作家の新井満さんが「a thousand winds」という詩に出会い、平成13年に日本語訳詞及び作曲をして、30枚の私家版を友人のために制作し発表しました。平成15年八月にこの詩が朝日新聞の天声人語で紹介される。同年十一月に『千の風になって』というタイトルで詩集とCD(新井満氏歌唱)が発売されました。
私がこの曲を初めて聞いたのは、平成15年12月某葬儀社の会館での通夜の時でした。後日、書店で本新井満訳詩『千の風になって』を買ってみて、詩の由来を知りました。

先日、或る知合いの方から、こんな質問を受けました。

「住職さん。千の風になって、という歌が凄く流行っていますね。お墓に私はいません、という内容の歌詞を聴くと、ちょっと不愉快になるんですよ。私なりにご先祖が大事と思って、一生懸命にお墓参りしています。何かそれを否定されているような気分になってしまうんです。」

住職
 「歌の歌詞ですから、人それぞれの受けとめ方があると思います。正直、私も最初この歌を聞いて同じように感じました。そこに私はいません、眠ってなんかいません、と言われたら心穏やかではないですよね。でも、元々は英語で書かれた詩であり、それを翻訳したものであると知り、幾分納得しました。
亡くなった方はどこに行くのか?民族や宗教の違い、また住んでいる地域の違いによって、異なってきます。この詩の言葉自体は必ずしも間違いではないと思います。キリスト教徒なら、天国に召される訳ですから、亡くなった方はお墓には居ないことになります。あなたの菩提寺は、たしか浄土宗でしたね。」

 「そうです。」

住職
  「浄土宗の檀家さんも浄土真宗の門徒さんも、西方の阿弥陀如来が居られる浄土に往生します。私の場合曹洞宗ですので、説明の仕方がちょっと違いますけど。戒名を戴いて仏弟子となった方々は仏国土に行く、と檀家さんたちに説明しています。いずれにしろ、仏教徒のご先祖様はお浄土(仏国土)に行っている訳ですから、お墓には居ない。但し、墓参りに来た家族に、そこに私はいません、眠ってなんかいません、と御先祖様が言うかどうかはわかりませんけど。」

 「そうですよ。墓参りに来て、そこに私はいません、と言われたらたまんないですよ。そこにいないのなら、お墓参りなんかする必要がない、と若い連中なんか言い出しかねないですよ。」

住職
 「お墓とは何であるかきちんと理解していないと、そういうお墓参り不要論が生じかねませんね。でも、そういう受けとめ方をされるというのは、詩を翻訳した新井満さんにとっては不本意なことでしょうね。
  仏教の立場から言えば、墓石は仏塔や位牌と同じ礼拝対象です。墓石を建立した時、点眼という儀式を行います。いわゆる御真入れです。位牌や仏像と同様に、仏様の命を移すという儀式です。だから、位牌や仏塔と同じようにお参りするのです。そして、お墓は亡き人の遺骨を埋葬する場所であり、墓石は亡き人の俗名と戒名を記録する記念碑でもあります。仏弟子となった御先祖を記念し供養するのが、お墓です。ですから、強いて言えば、そこに居なくても、眠っていなくても、構わないということになります。しかし、実際問題として亡き人のために手を合わせお参りしようとする場合、その行き先として第一に考えるのが、遺骨が埋葬されているお墓であり、第二に自宅の仏壇であり、第三に菩提寺の位牌堂となるでしょう。

  仏教の教理から、亡き人は遠くにある浄土(仏国土)に行かれたと説明され納得したとしても、日本人の民俗的な霊魂観では亡き人は身近なところに居てくれると考えます。草葉の陰、という言葉に象徴されるように、亡き人はそばに居てくれると思っている方も多いと思います。だから、亡き人の眠る場所、居てくれる場所として、お墓を考えるのは極めて自然なことです。宗教と民俗、二つの考え方は一見矛盾するようですが、両者が私たちの心の支えとなってきているのです。どちらか一方を切捨てる必要は無いと思います。
  この歌の詩は元々外国の詩ですから、日本人の霊魂観と多少ズレが生じるのは止むを得ない事だと思います。亡くなっても、光や雪や鳥となっていつでも側に居てくれる。この点が多くの方に愛唱されている理由だと思います。
  お墓とは何か?亡き人はどこへ?ということを学び考える機会を与えていただいたと考えて、歌を味わっていけば、よろしいと思います。」



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