イランで暮らしたことがある・・

過去を変えることはできない、だけど未来はまだ自分次第・・

古代史とか中世史

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高校の世界史の授業では中世史とばされてしまって知らなかったんですが、面白いんですよ。ってわくわくするのは私だけ?
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日本古代史

日本古代史は謎だらけですね。正史とされる「日本書紀」には矛盾が沢山あって、どうも古来からの万世一系の天皇家というのは偽装されていると考えるのが自然なようです。

古代史のスターである天智天皇は、朝鮮半島百済国からの亡命王子ではないかという推測があります。状況証拠的に、白村江への出兵や亡命百済人を重職に登用していることなどからして、百済亡命者たちが「大化改新」で蘇我氏政権を打倒したのではないかと思います。

もうひとりのスター、天武天皇は天智以上に正体が不明です。前半生の記録がなく、二十代に子どもをつくった記録がないことから前半生は新羅か高句麗にいたのではないかと言われています。壬申の乱に勝利したあとは、新羅と関係強化しています。だとすると、壬申の乱というのは皇位をめぐる「骨肉の争い」ではなく、百済亡命者による政権 vs 新羅+倭国在来豪族の戦いだったのかもしれません。

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1000年の歴史を有するアラムート城砦、世界遺産に登録へ
2007年07月07日付 Iran紙

【ガズヴィーン=イラン紙特派員】世界遺産への登録へ向け、ガズヴィーンの歴史遺産アラムート城砦〔訳注1〕に関する報告書が、国連教育科学文化機関(UNESCO)に送られ、間もなく世界遺産に登録された遺跡群に追加される見通しだ。

 ガズヴィーン・アラムート城砦調査局長は、IRNA(イラン国営通信)にこのように述べた上で、さらに「UNESCO代表者はこの砦を視察した際、これを世界遺産に登録することが望ましいとの意見を述べていた。その際、この場所を世界遺産に登録するための条件としてUNESCO側が提示したのは、同地域の歴史遺産と自然の複合的な景観を、そのままの状態で保存することであった」と語った。

 同局長は、「アラムートという場所は、文化遺産と豊かな自然の魅力により、毎年世界中から観光客を惹きつけており、整備が進めば、この場所は我が国の観光と史跡の中心に変わるであろう」と付け加えた。
 
 (中略)

 同局長は更に、「この場所が世界遺産に登録されることで、ここの真の価値が世界中の人々に紹介されるであろう。また、〔遺産保護や歴史研究などの分野における〕国際的な機関による学術的・専門的な協力も利用できるようになるであろう」とも付け加えた。

 チューバック局長はまた、鉱物工学の方法を利用して、この遺跡の中でサファヴィー朝期に属する部分の調査と保護を行っていることを明かした上で、「アラムート(ハサン・サッバーフ〔訳注2〕)の城砦は、ただ1つの遺跡からなっているのではなく、歴史的遺産と精神的遺産という2つ部分からなる1つの〔総合的な〕文化的景観を形成しているのだ」と語った。




〔訳注1・2〕西暦12世紀頃の暗殺教団として知られるイスマーイール・ニザール派教団の指導者、ハサン・サッバーフの城砦。


暗殺教団の砦・・になぜかワクワクする私ですが、場所がよくわかっていないのです。
 マザンダランの山中らしいですが・・

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ササン朝ペルシア最後の王、ヤズデギルド三世は651年イラン東方で殺されてササン朝は滅亡した。王の一族が当時の中国王朝である唐に亡命したという話は以前に読んでいた。ところがペーローズという王子が中国経由で日本まで来ていたという説がありました。(小林惠子著「白虎と青龍」文芸春秋刊)王子はその後中国に戻って生涯を終えたそうですが、妻子は日本に残っていたとか・・ 本当かどうかはわかりませんが、ちょっと面白いですね。

日本の正史である「日本書紀」は天武天皇が自分の正当性を主張するために書かせたので、本当のことは隠されているそうです。なので大化の改新や聖徳太子、壬申の乱のあたりはいくら想像力を働かせてもいいようです。奈良時代は国際的、というよりまだ「日本」というものがはっきりしない時代だったのかもしれません。法隆寺や唐招提寺が「日本人」だけで造られたと信じるのは無理があるように思います。

 ※画像のガラス碗はどなたがお持ちになったんでしょうね。
イスラム教シーア派の異端であるイスマイリ派のさらに異端とされるニザリ派(ニザリ教団)が11世紀〜13世紀にかけて現在のイランで活動していたとされています。ニザリ派は他派との思想の相違から迫害を受け対立します。これに対してニザリ教団の指導者は奇襲・暗殺といった少数での対抗手段を用いたのです。舞台となった「暗殺者の谷」はカスピ海沿岸のエルブルズ山脈奥深くにあった「アラムート(鷲の意)の砦」だと言われています。

砦の主は山の老人と呼ばれ暗殺者のボスの通称で、暗殺教団を創設したサッバーハ以降代々の教団長が「山の老人」と呼ばれたらしい。 山の老人とよばれたわけは、暗殺教団のアジトが峻厳な山奥にあり難攻不落の要塞であったためとか。暗殺教団ではこうした山奥の人気ないアジトに青年と美女を隔離し、青年を一時的に眠らせて美女のオアシスへ連れ込み麻薬と美女の接待をして手なずけていたとのこと。接待が終わると青年をもう一度眠らせて外へ連れ出し、青年が目覚めてから「はて、あれは夢だったのだろうか、おとぎの国だろうか」と天国の様なひと時を振り返っていると 山の老人がやってきて「またあそこに行きたかったらこいつを暗殺して来い」と命じ、青年達は言うがままに暗殺へと向かったそうです。

ハッシシの多福・幻覚等の作用と人工楽園・コーランの教えを利用し、「暗殺者になってもアッラーの教えに背いたことにはならない。むしろ邪教を排斥するのだから良い事だ」と洗脳したようです。

史実としては暗殺集団がどこまで本当か不明ですが、イスラム教の分裂による内乱やニザリ派がこの地に教団を築いたことは確認されているようです。この「アラムートの砦」はマルコ・ポーロの『東方見聞録』にも取り上げられています。また暗殺者という意味の「アサシン」は「ハッシシ」が語源と言われており、暗殺集団がいかに広域で恐れられていたかを知る事ができます。

これは中世の物語ですが、911のテロリストだってこの方法で洗脳されていたかもしれません。
=あくまでもノウハウですからね、これを使った人たちがイスラム教徒だったという証拠ではありませんよ。=
イスラム国育ちの貧しい青年達を洗脳する現代版「山の老人」とその背景にあるのは・・・???

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アケメネス朝ペルシャ時代には大帝国ペルシャとの接点がなかったわが日本ですが、次のササン朝ペルシャとは中国を介して交流してたんですね。古墳時代、奈良時代です。遣隋使、遣唐使が運んできたと思われるペルシャ製のガラス碗がいくつか日本に存在します。正倉院御物や古墳からの出土品です。

若かりし頃に正倉院展かなんかで、ガラス碗を見て心を奪われました。千数百年前にイランから日本まで運ばれてきたんですよ。イランから中国まではラクダや馬、それから船、日本では荷車や人の背中に負われて来たんでしょうね。

イラン人家庭には実用品から装飾品まで様々なガラス器がおいてありますが、陶器はあまり使わないようです。伝統へのこだわりなんでしょうか・・・しかし実用的なガラス食器はフランス製、装飾用のガラス器は日本製でした。

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