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軍隊と軍事基地のない命輝く人々と自然の循環の島々だった琉球諸島を取り戻すために、非武装琉球ネシア連邦への独立を目指す仲間たちのネ

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大会から3週間

大会を終えて三週間がたった。この間、若い書記長との引継ぎ、大会前から決まっていた労供労組協の4役会議の沖縄オルグと会議、その他色々の活動が続いた。昨日は、朝から大阪で労供労連執行委員会。午後1時から新運転中央執行委員会。2時から第三回目となる中央本部研修会。研修会には、東京から10名の組合員、埼玉、関西、滋賀地本からも非専従組合員が参加し、役員も入れて総勢28名で、みっちりと二時間の研修。テーマは、労働組合の戦後レジームからの脱却・ニッチな労働組合からリッチな労働組合へという連合に出した論文をベースに、「労組法・職安法・派遣法と新運転」について約30分、マイナンバー制度の虚実について約20分話した。
その後、各地本の若手からそれぞれの現状と今後の課題についての報告と質疑で約一時間。4時に終わって関西地本の事務所のある京橋のイタリアンレストランで、夕食交流会。美味しい料理とビールにワインの飲み放題で何と一人3000円!東京だと5千円近くする質と量だった。嬉しい酔い心地で新幹線でもハイボールと缶ビールを飲みながら無事自宅に辿り着いたのが夜中12時を回っていた。
この間、僕のことよりがっくり来ているのが、今回の大会で仕組まれた動議で「人材育成センター」の廃止が決まり、そこの職員として一年以上働いてもらっていた優秀な若手組合員が雇い止めという理不尽な切られ方をしたことだ。本人も継続就労を求めていただけに、僕としては何とか有期雇用契約の更新が出来るはずだと思っていたし、他の役員にも公言していた。しかし、彼自身が労基署や社民党系弁護士に相談したが、結論は裁判で争っても組合大会での決定が優先され勝ち目がないという結論になったということで、この前2人で納得いかない残念飲み会をした。
若い書記長も彼がいなくなって困っていると言ってくるし、書記次長も同じ苦労をしている。一番上に立つ委員長が、組織のことを考えないで自分の感情だけで人事やその他のことを独断専行するような組織に東京地本がなっていることが正直悔しいし、職員たちにも申し訳ないと思っている。
とありながら、僕自身は与えられた条件を主体的に克服してきた琉球人のDNAのままに個人的には前にも書き込んだように感謝、感謝、スマイル、スマイルの母親方式でいる。まさにお陰様でという気持ちだ。
早速、1月は67歳の誕生日の翌12日から1週間、辺野古の座り込みを中心に沖縄で活動してくるためにジェットスターを往復13000円で予約した。その中には、介護タクシーを含めて労供事業への取り組みも入るし、宮古島にも帰りたいと思っている。また、80歳の叔母と84歳の叔父が持っている古いホテルと居酒屋などを整形外科医師で、しかも膝関節医療を専門にしている一人息子が主体となって、治療院とデイサービスセンターに改組するという計画の手助けも進められるかもしれない。
そして、組合の方は、中央本部の書記長と労供労連の事務局長職があるので、東京の事務所にも出てくる。実は、二年前に同じ年令で同じ支部の役員から、彼が委員長になって僕は書記長役を半分、沖縄を半分ということでの約束があった。ところが彼がその後、癌で急逝してしまったのだ。
その意味では、今回の大会も含めて彼があの世から見守っていて喜んでくれているかもしれないと思う。
5日の夜、関西にたつ前には、東京琉球館で小学校時代からの親友2人の偲ぶ会をした。いつも一緒だったということでは、昨年の12月12日に亡くなった伊藤君から6月に高出、9月に朝比奈君、カッパちゃんのニックネームを最後まで貫き通して留守電に保存したままでいるけど、そうした辛さ、寂しさを引きずりながら彼らのことを想い、一緒にいる気持ちで明日に向かって走っていく。
この12日から15日まで沖縄に帰る。今回は、組合の仕事がらみではないので、無給となるけど、もう一度自由労働者として沖縄、労供事業に関わっていく。





新運転第60回定期大会

今日、新運転東京の第60回定期大会が開かれた。
この14年間、お陰様で書記長役を勤めてきたが、今日の委員長の役員選挙で見事に敗北して現場に戻ることになった。投票数は、33対45で現職の委員長が勝利。ある意味、当たり前のことで現職委員長と支部長の連携に代議員となる現場組合員との関係が全くない私が勝つのは、余程のことだった。
ということで、新規の書記長との引継ぎ期間が年内一杯。来年からは、晴れて日々就労のフリーターに戻ることになる。
思えば35年前に、現業公務員を首になったお陰で、新運転という自由で労働条件のいい組合員となり、20年間現場で色々な経験と活動をさせてもらった。沖縄ツアーや命どう宝平和世コンサートもそうした自由な就労時に始めたものだった。
その当時は、まだ子供たちが就学時期だったので、教育費などの経済的負担が大きく仕事をしなければならかったが、今は、全くないという恵まれた状況でフリーターに戻れたということを本心で感謝している。
というのは、本部書記長という役職のプラス面と組合費から給料を貰っているという束縛に活動を誓約する局面が多々あったことは事実だ。組合員というより同じ役員からの批判もあったということだ。
それが今回の結果だと受け止めている。その意味では、良くぞ14年間も勝手にやらせて頂いたという歴代の委員長や本部書記の皆さん、そして組合員への感謝の気持ちが一杯だというのが、正直な気持ち。思わぬ人たちが、私の書き込みを読んでいるということを知った上で、今日の偽らざる心境を書いているので、宜しく。
ということで今後は、組合事務所で書き込んでいたこのブログを自宅にあるパソコンでやれるかどうか、今までも忙しさにかまけて書き込みをしてこなかったが、暫くは自宅パソコンの機能開拓まではお休み状態になると思う。
今後は元の組合支部に戻り、特対部活動とか窓口就労などで自由な活動に戻ることになる。そして、沖縄での座り込みも、本部に戻る関係で3泊ぐらいだったのが、今後は1週間ほどの滞在も可能になるということで、楽しみにしている。




以下は、何故か上手く書き込めなかったもので、11月9日に残っていたものをそのまま決定として残す。
そして、改めて今日の大会結果について書き込むこととする。







既に全国紙でも報道されているが、翁長知事は10月13日午前、仲井真前知事が出した名護市辺野古沖の埋め立て承認を取り消した。力強い翁長節に感動した沖縄人たち。この発表を合図に、カヌー隊と船団は一斉にフロートを超え大浦湾を自由に走った。海保は併走するだけ。キャンプシュワブゲート前で座り込む御万人は大喝采、カチャーシイで踊った。翌朝6時には500人が結集し、建設阻止を再確認したという。

 私は、17日、18日と早朝行動に参加したが、山城博治氏も復帰したり、島ぐるみ会議が訪米団を編成したりと翁長知事の英断を受けて、安倍政権の法治主義を覆す「不服審査請求」「取り消し効力の執行停止」に対する闘う機運の盛り上がりを感じて戻ってきた。
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最も注目されていた翁長知事の国連行動の一方で、沖縄でも余り大きく報道されなかったが、これまた素晴らしい国際活動が米国政治、経済のど真ん中、ニューヨークで行われた。2年前の5月15日「復帰」記念日に設立された琉球民族独立総合研究学会が9月27日、米ニューヨーク大学で「琉球独立」をテーマにフォーラムを開いたのだ。共同代表の松島泰勝龍谷大教授、平恒次イリノイ大学名誉教授、国吉信義北米沖縄県人会会長、友知正樹沖国大教授、アンマリア・シマブク・カリフォルニア大学リバーサイド校准教授の5人が登壇し、多角的に問題提起し、辺野古新基地建設の人権侵害、民主主義破壊を告発、琉球・沖縄人の自己決定権の確立を訴えた。
その米国を中心に世界の有識者や文化人らが発表した翁長知事に辺野古新基地建設による埋め立て承認を取り消すよう求める共同声明の賛同者が増えている中で、署名した一人の「平和学の父」として世界的に知られるヨハン・ガルトゥング氏は、この8月、19年ぶりに訪沖し、辺野古の現場を激励、浦添で講演して「世界の趨勢は軍事基地を無くす新しい平和秩序に向かっている」「北東アジアの平和の傘構想を沖縄から積極的に提起していくべきだ」と強調した。また、東京都内の講演会では、東アジアの平和構築に向け、EUのような共同体の創設を提唱し、「本部は東京や北京でない方がいい。特別の使命を与えられた場所として沖縄に本部を置きたい」と述べたという。 



























































































あきらかになっている宮古島市への陸上自衛隊の配備計画は、宮古島市福山大福牧場周辺と同市千代田カントリーゴルフ場周辺に、駐屯地の他、実弾射撃訓練場、弾薬庫、宿舎、グランドなどが建設され、駐屯地には、地対艦ミサイル部隊、地対空ミサイル部隊、司令部を含め700人から800人規模の部隊になる事が計画されている。
しかも、司令部は覆土式の地下に建設され、建設予定地は30㌶に及び、文字どおり宮古島を軍事要塞につくりかえる計画となっている。大福牧場周辺は、豊かな自然が広がり、貴重な動植物が生息し、市民の命の水の水源地帯となっている。自衛隊配備は、こうした自然と環境と水源地を破壊することになる。さらに、ミサイル配備によって、一触即発の軍事的緊張関係を高めることは明らかである。 私の生まれた宮古島では、陸上自衛隊のミサイル部隊などの配備に反対する「この島・命の水・自衛隊基地配備について考える会」が大型スーパー前で集会を開催し、約200人が参加。岸本代表は「平和を次の時代に引き継がないといけない。今が声を上げる時だ」と訴えた。みやこ九条の会の長濱共同代表は「米国と一緒になって闘えば、日本も標的になる。戦争法案廃案に向けて共に頑張ろう」と呼び掛けた。先日、自衛隊配備に関する講演会に参加した下地さんは「安保法制と宮古島への自衛隊配備が表裏一体であることがよく分かり、ショックを受けた」と危機感を強調したという。
 
去る7月10日、前原元外相率いる「新世紀の安全保障を確立する議員の会」一行が、宮古伊良部にある下地島空港を視察した。一行は民主、自民、公明所属の8名の議員たちだ。まるで大連立の予行演習だ。宮古島市の下地市長とも会談した。市長は自衛隊協力会の会長でもある。
しかし、民間パイロット訓練施設である下地島空港へ防衛関係者が頻繁に来るのは何故か?沖縄県は今後の同空港活用の一例として、アジアの物流センター、国際的災害救援センターの設置をあげている。宮古島市もそれに同意している。防衛省はそこにつけ込んだ。

防衛省は、同空港を「災害救援拠点」として利用し、自衛隊の実戦部隊を常駐させる、とヌケヌケと言っている。災害救援を名目に、「動的防衛力」の具体化を進めようとする腹だ。宮古・八重山の先島地域での軍事行動展開には(防衛省は公表していないが)、致命的弱点が見える。

部隊の移動や駐屯がむずかしい。場所がない、港はせまい、空港は過密で余裕がない、等々。
物資の補給がむずかしい。つまり、平站基地がない。
 
第2次大戦時、宮古は要塞化した。もちろん、日本本土防衛の捨て石だ。住民の多数が台湾に疎開させられ、戦った住民は、飢餓とマラリアなどの疾病と米軍の艦砲射撃に苦しめられた。3万余の日本兵が駐屯し、朝鮮から若い女性たちが拉致されてきて慰安所に押し込められ、住民は軍用飛行場造りにも狩り出された。

当時も、日本軍は宮古の住民を守るために来たのではない。南西諸島地域への自衛隊配備、米軍との共同軍事行動は、私たちを守るためではない。宮古島には、当時3万3千人の人口しかない島に、3万人を軍隊が押し寄せた。約5000人の兵隊と軍人が、亡くなっているがその多くはマラリアと餓死である。宮古島の野原のアリランの碑のとなりに、「補充兵我も飢えつつ餓死兵の骸焼きし宮古(しま)よ 八月は地獄」と当時の兵士が詠んだ歌碑がある。
 安倍政権が強引にすすめようとしている戦争法。この島に自衛隊のミサイル部隊を配備して、戦場にしてはならない。 


先週の16日から19日、沖縄に帰ってきた。辺野古に二日間、早朝行動に参加し、久しぶりに山城博治さんの激烈なアピールと素晴らしい歌を聞いた。皆元気で、翁長知事の埋め立て承認取り消し以降の戦う態勢を整えていた。下の写真は、フェイスブックに掲載された取消し直後のテントの様子。イメージ 1

前回から一月

先月の書き込みから何と一月が経っていた。
アルチューハイマーになると時間の流れが速くなるというのは実感している。ふっと気がつくと一週間どころか一月だもんね。参ったなーという落ち込んだ感情には、別の大きな要因がある。
6月11日に、高出一男君が突然死、一昨日の夜、朝比奈勝美君(カッパちゃんでーすの電話が懐かしい)が肺がんで死んでしまった。昨年12月には、伊藤洋君が手術後に死んだ。
ショックが重なると人間自己防衛本能が働き、忘却の彼方へ意識を飛ばすらしい。ドンドン日常の小事は忘却の彼方へ。
だって、この二月末に一緒に湯河原の温泉と真鶴半島の三つ石に遊びに行ったばかりなのに。
イメージ 1

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この2人の親友が今は居ないなんて信じられない。
前の書き込みから一月の間に、思い出せないくらいの色々とあった中で、
沖縄の辺野古、高江に行った時のことと国会前での感動的な行動、組合活動、三月会での「ヌチマース」の高安社長の素晴らしい話し。その他、色々とあった。
取りあえず、沖縄の写真は、昔僕が住んでいた地域、墓には遺骨がそのままあったし、オバーの家の前の商店は、そのままの看板で営業していた。その入り口にあったダンスホールは、バイク置き場になっていたし、前の丘にあったすべり台から落ちて唇を切って今もあとが残る公園は、フラットになっていたけど新しいスロープになっていた。イメージ 4
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イメージ 6そして、辺野古の行った帰りにキャンプシュワブの演習場から出てきた軍用車両の後を高速道路で走っていたら、当然米軍車両だと思ったものが、実は自衛隊の車両が三台いて、最先頭に米海兵隊の車両がいたのだ。
これこそ米日軍事一体化の実例だ。
イメージ 5





イメージ 7イメージ 8イメージ 9この二台は自衛隊、下の小さく写っているのが、米海兵隊車両だった。











そして、毎月の沖縄の風原稿は、

PW無情」

PWとはPrisoner ofWar、戦争捕虜のこと。戦後、屋嘉の捕虜収容所で生まれた琉歌「屋嘉節」に普久原朝喜が作曲した「無情の唄」のメロディーに乗せて歌われる。PW節とも言われ、敗戦前の年、軍隊のなかった沖縄に大本営が第32軍を送って戦場となった不条理、生き残った人々の悲しさ、苦しさ、空しさを歌っている。「恨みしゃ 沖縄 戦場にさらち 世間御万人 袖ゆぬらちPW無情なむん」(恨めしや沖縄 戦場にさらされ全ての人々の袖を濡らすPW無情なものだ)と書いた。


明日は、カッパちゃんのお通夜。そして23日は朝の8時半から告別式。昨日は、一日マイクロバスの運転を最悪の体調を隠して終えた後自宅で、2人の間に僕がいる写真を横に日本酒を飲み続けて3合ビンを開けた。それも木曽福島で買った純米酒。一人ツヤ酒になるとは思いもしなかった。呑みながら見たテレビが、自然死の勧めみたいに終末医療をしないで見取るというNHKスペシャルの番組だった。カッパちゃんも自宅で息を引き取ったといので、一緒にいてやりたかった。
今日は、組合事務所で大会議案書作りの後、やはり一人ツヤ酒を飲みながら一月ぶりの書き込みとなっている。









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