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ガラケー考、その他

 福島原発の汚染水問題で、凍土壁をつくるとか、汚染除去装置を最新型に改めるとか言われていて、今までやったことのない技術で、本当にできるのか?と疑問が出ているが、あれは、吉岡斉という、科学技術史の専門家で、日本の原子力規制の委員も長くやっていた人の本を読むと、国の予算は原子力技術に限らず、「科学技術の発展に寄与する試みに対して出資する」と法律で決まっているのだそうだ。

 ただ分厚い本で、どこにそう書いてあったか、探しているのだが、見つからないので、見つかったらまた書きたいが、「なるほど、そうだったのか」と思うことはいくつもある。

 例のガラケーと揶揄されている、国内だけで通用する日本の携帯電話の高度機能は、この法律のバックアップがあったからなのかなと思った。

 新幹線も同じだ。 新幹線は、在来線の他に専用の線路を敷いて、高価な料金で営業しているわけだが、同じ方式の新幹線、というか高速鉄道は台湾だけだそうだ。

 新幹線なんか、結局、日本人の「せっかち」に合わせただけの無意味な仕組みではないかと思っているのだが、今また、リニア新幹線で東京大阪間を1時間で結ぶらしい。

 電気を原稿の新幹線の3倍近く使うというのに(とちょっと前に報道で読んだ)、マスコミはそんなことには一切触れず、「期待」ばかりを煽っている。

 それはそれとして別に触れるとして、国鉄が新幹線、リニア等を開発し得たのは、結局、例の法律のバックアップで、潤沢な研究費を使えたから無用な開発を開発してしまったのかもしれない。

 話は全然違うが、最高裁で、婚外子差別は違憲となったそうで、ずいぶん遅いと思うが、それは「家族関係が壊れる」とする根強い抵抗があったからだという。

 まあ、実際そうなのだろうと思うが、これは別の見方もできる。

 大体、中国、インド、ロシア、中東といった大陸諸国の「大家族制度」というのは、家族の人数が多いというのではなく、親戚一同が集まって暮らすという制度だが、法律で決まっているわけではなく、習慣である。

 しかし日本にはそういう「習慣」に根ざした家族制度は、実は、ない。

 英米を中心に見られる「小家族制度」とも、多分、ちがう。

 じゃあ、日本の家族は何かと言うと、いつも顔を合わせている人たちが、顔の見える範囲の人々を、お互いに「家族」と見なして暮らしているのだと思う。

 実は、そこらあたりのことはよくわからないのだが、保守政治家たちが、「法律で決まっている婚外子差別を廃止すると、家族制度が崩れる」と主張しているのは、法律で縛らないと日本の家族制度はぐずぐずになって、なくなってしまうから、法律で縛るべきという認識が、多分根底にあるのだと思う。

 じゃあ、私はいったいどう考えているかと言うと、前から言っていることだけれど「階級」をつくるべきだと思う。

 階級と言うと、不公平な社会組織と思われるかもしれないが、全然そうではない。

 同じ階級に所属していることがわかれば、顔が見えなくたって、全くの初対面の人とだって、連帯できるのだ。

 中国で名字が同じなら、それだけで「仲間」になれるように。(少なくとも心理的には。)

 インドのカーストは、中根千枝が言っていたが、上級階級に対して「劣等感はない」。

 ものすごい大金持ちの便所の掃除人は、あくまでも掃除人として自立しているので、大金持ちに劣等感はない。

 何か不当なことがあった場合は、横の連帯がしっかりしているので、掃除人一同で抗議することができる。

 日本には「横の連帯」が社会にないから、個人は全員孤立していて、ブラック企業にこき使われても、「使用人」だから仕方ないと思って、抗議をしない。

 もちろん、インドのカースト制度にも問題は多いし、インド自体、それを廃止しようとしているのだと思うけれど、カーストがなくても、「横の連帯」を可能にする「自立した個人」がいれば、多分、問題はない。

 少なくとも、社会は続くから。

 そういう意味で、日本の家族制度、社会制度はいったん崩れるべきだと思うし、そうでないと、顔見知りの「社会」の中で、日本人はつぶれてしまう。

 最高裁の判事も、「世間の流れがそうだから」みたいな無責任な言い方ではなく、ちゃんと社会の目指すべきあり方を明示すべきだと思うが、それを誰もしないから問題なんだな。

 「にごりえ」を読んで、感激というか、一葉の技量に感服、ぜひ書かねば、と思ったが、スペースと時間がなくなった。

 ので、「にごりえ」については、また後で。
 イギリスに、5歳くらいの少年少女を7年ごとに50年間、記録し続けたテレビ番組があるそうで、その少年少女たちが青春を迎え、就職し、結婚し、子供を持ち、そして孫ができ、という一つの「人生の姿」にまとめた番組が2012年に放送されたそうで、それをEテレで放送していた。

 前後二回構成で、来週後編なのだそうだが、前編だけでも十分におもしろかった。

 「おもしろい」というと語弊があるが、「重い」というか。

 外見上は「順調」に見える、孫が数人いるおばあさんも、実情は決して順調ではない。

 それは何より、本人がそう認めている。

 「孫」の人生はまさにこれからなのだから、孫の人生は除外しても、息子、娘たちはすでにして「順調」ではなく、いばらの人生を歩んでいることを、子供たち自身が一人一人、告白する。

 本人の人生の「中」に入って見れば、外から見たものとはまるでちがうわけだ。

 私が番組を見始めたときは、60近いみすぼらしい老人が自分の失敗した人生を語っていた。

 恋愛もしたけれど、ことごとく女性の方から去っていった云々。

 それに幼い男の子が将来の希望を語っている場面が挿入され、次に、かなり悲観的になっている少年、そして「結婚をしても幸せになるとは思えない」と語る青年……。

 「あれ? これはどんな番組なんだろう? 何を言いたいのだろう?」と思っていたら、それは7年ごとのインタビューの映像だった……そういう番組だった。

 そしてその後に出てきた女の子が、おばあさんになって、孫も数人いて、という女性で、前の男性に比べるとずいぶん順調に見えるが、「実は…」という流れになるのだった。

 要するに、人の人生において、完全に幸福だと言える人は「いない」という番組なのだが、これはまさに真の小説、あるいは真の芸術の根拠となるものであって……と、何を言いたいかというと、要するに樋口一葉の小説の読後感が、この番組の感想に近似していると思ったのだ。

 例えば「わかれみち」の「傘屋の吉」は、自分は捨て子で、親の顔も知らないし、出世の道は閉ざされていると、お京に愚痴り、お京は「捨て鉢にならずに、頑張って出世しておくれ」と言いながら、近所のじじいの妾になり、ショックを受けた「傘屋の吉」はまったく捨て鉢になって「十三夜」では、ぐうたらな車夫になる。

 「たけくらべ」の美登利はそんな人生の暗黒をまだ知らない、イギリスの番組で言えば将来の姿を知らずに溌剌と輝いていた幼年時代の少年少女みたいなもので、美登利がもし仮に売れっ子の花魁になったとしても、人気女優になったとしても、今ならAKBの一員になったとしても、その人気の影には、必ず暗い、重いものを抱えていないわけはないのだということ、要するに「十三夜」の「ぐうたらな車夫」の人生も、華やかに見える成功者の人生も、いずれも同等の人生なのだという、「人生の真実」を想像させるのだ。

 このイギリスの番組は、思うに、産業革命を経た、ケインズが経済学の前提として、学生に当時の労働者の悲惨な実情をつぶさに見させたという、イギリスならではの伝統を思わせる番組だったが、その制作者だったらきっと、没落士族の娘、樋口一葉の世界も理解できるのではないかと思ったのだった。
 小熊英二の「民主と愛国」を読んだら、というか長いので今読んでいるところだが、結構おもしろい。

 特に笑ったのは、1960年前後の頃、当時の日本共産党が戦後間もないころの「武装路線」を放棄して、今見るような、なんだかよくわからないが、彼らにしてみれば「愛国路線」を敷き始めた頃、それに強く反発した当時の全学連の指導者で、後に転向して右翼になった香山建一が、次のように批判したのだそうだ。

 「日本共産党は日本人同士でいじめ合うのはよくないというが、階級闘争を忘れたのか!」

 いやあ、まったく笑っちゃうほど、正論!

 当時の共産党は、日本に階級闘争を持ち込むのは無理と判断したのだろうが、それを言うと自分のアイデンティティがなくなるので、「日本人同士でいじめ合うのはやめよう」と言ったのだろう。

 香山がウルトラ右翼に転向した理由はわからないが、「階級闘争とは日本人同士でいじめ合うことだ」という基本認識は変わらなかったのではないか。

 「いじめ問題」について美輪様曰く「いじめられたら、やり返せばいいのよ。それだけ」と言っていたが、階級闘争もまったく同じなのだ。

 日本社会に階級意識が根づかなかったのは、子供よりそれを生んだ親の方がエラい、新入社員より古参社員の方がエラい、そして労働者より資本家の方がエラいという意識が抜けなかったからだ。

 労働者も資本家も人間として対等だという意識がないと「階級意識」は形成されない。

 私が日本は階級社会にならなければならないと以前から言っているのは、社会は対等な個人の組織でなければならないと言っているのだ。

 しかし小熊英二には、この香山建一の言葉を「階級意識の要」として理解する視点はなさそうだった。

 たとえば、これは「民主と愛国」ではなく、別の本だったけれど、小熊がかつてのベ平蓮の事務局長、吉川勇だったかと対談をしていて、そこで吉川が、京都の公園にあった「きけわだつみの声」を顕彰した「わだつみの像」を全共闘が破壊した事件があり、それについて、「あれで私は全共闘に疑問を持った」と吉川が言い、小熊も「確かにこの件について、全共闘は思慮不足だった」と同調していた。

 しかし戦没学徒兵の遺書を集めた「きけわだつみの声」こそ戦後民主主義の欺瞞の象徴みたいなもので、私はあの事件をニュースで聞いたとき、新左翼の行動にはことごとく違和感を持ち始めていたにもかかわらず、「わだつみの像」破壊には、大いに同感したのだった。

 吉川氏の言うところでは、ベ平蓮の論理とは、市民たちが普通に生活をしていることが、まわりまわってベトナム人民に対する抑圧につながるという意識を持つことがベトナム反戦につながるということらしいが、私にとっては新左翼というか全共闘運動というのは、つまるところ、知識人の欺瞞を暴くことだと思っていたので、市民との連帯とか、労働者との連帯とか、ましてベトナム人民との連帯なんか、私にはまったく興味の外だった。

 資本主義のもとで普通に生活をしていることが、実はベトナム人民を抑圧していることにつながると言われてもねえ……。

  その意味で、「わだつみの像」破壊事件は全く正しいと思ったのだが、吉川氏は、その犯人の一人が女子学生で、彼女は「あれがわだつみの像だとは私は知らなかった」と発言したそうで、吉川氏は、「あの不勉強はまったく話にならない」と言い、小熊氏も「うんうん」と応えていたが、もしその女子学生の言っている通りだとしたら、彼女は「わだつみの像」にまさに「直感的」に、曰く言い難い嫌悪を感じていたのであり、それは真っ当な意識だと思う。

 「直観」こそ信じなければならない唯一のものだけれど、それは「真実」だから信じなければならないのでは、ない。

 「直観」だから信ずべきなのだ。

 日本文学の研究者のサイデンステッカーが「きけわだつみの声」について、「鼻持ちならない、欺瞞的な本」と評していたのをどこかで読んだことがあるのだが、まあ、サイデンステッカーの権威にすがるわけではないが、その通りだと思う。

 こういう「直観」に根ざす、真っ当な批判精神が、ここ数年ですっかり失われたようだ。

 「いじめ事件」で言えば、その最初である中野の富士見高校だったかでいじめ自殺が起きたとき、安易に報道をすると、自殺を是認、称揚する文化を有する日本では、自殺を助長しかねない、「自殺はいじめの反撃にもっとも有効である」という誤ったメッセージを子供たちに伝えかねない云々という意見がかなり出て、その後、センセーションに報道することを控えるようになったのだが、そんな冷静、まっとうな意見は今は影もかたちもない。

 「いじめ」はやり返せばいいだけだ。

 でも、それでは「いじめ」はなくならないと言う人がいるかもしれないが、そもそも「いじめ」は撲滅すべきもの何かではなく、やり返せばいいだけのもの…う〜ん、ループしてしまった。

 キリスト教では「自殺は神に対する罪」という基本観念があるが、キリストがそう言ったわけではなく、キリスト教に対する弾圧が激しかった頃に、信仰の証しとして「殉教」志願者が続出し、これを抑制するためにカトリック教会が、「自殺は命を与えてくれた神の業を否定するもの」という理屈を考えだしたのだが、これは自殺を称揚しかねない日本人にとって多いに役に立つ考え方だと思う。

 あ、例の「わだつみの像」の制作者は本郷新という彫刻家だそうで、なんだ、うちの近所に住んでいた本郷のおじさんじゃん。 結構有名な彫刻家という話は聞いてはいたが。

樋口一葉に驚嘆

 最近、樋口一葉に凝っている。

 読む前は、「たけくらべ」だけの一発屋なのかなとか、失礼なことを考えていたのだけれど、読んでみて、とてつもないプロだとわかった。

 読んだのは「たけくらべ」以下、「大つごもり」「十三夜」「うつせみ」「わかれみち」くらいでしかないのだけれど(「にごりえ」は買った数冊の文庫本に入っていなかったので、いずれ探して読もう)「たけくらべ」は中編といっていいくらいの長さだけれど、ほとんどは短編ばかり。

 しかし、何故か「短編」という感じがしない。

 短編小説と言うと、O・ヘンリーの「落ち葉」とか、芥川の「ハンカチ」とか、ちょっとしたエピソードに「万感を込める」みたいな作品が多いが、樋口一葉は短くても、人生そのものがずっしり籠っているという読後感。

 それでも「大つごもり」は、ちょっとそんな気の利いた小話風ではあるけれど、でも「落ち葉」や「ハンカチ」とは比べ物にならないくらい、スリリングでおもしろい。

 「たけくらべ」は、近所の遊び人の男性に「三年後が楽しみだ」と言われるような13歳の美登利が存分に青春を楽しむ話だけれど、でも結局は、お姉さんのように花魁になるか、どこかの金持ちの囲われものになるか、というはかない今後を予感させる終わり方で終わる。

 なんでそう思うのかと言うと、他のはみんな「わかれ」を明確に予感させて終わっているからだ。 一番驚いたのは「わかれみち」。

 「お京さんいますかと窓の戸の外に来て、ことことと羽目をたたく音のするに、誰だえ、もう寝てしまったから明日来ておくれと嘘を言えば、寝たっていいやね、起きて明けておくんなさい、傘屋の吉だよ、己だよと少し高く言えば、いやな子だねこんな遅くに何を言いにきたか、またお餅のおねだりか、と笑って、今あけるよしばらく辛抱おしと言いながら、仕立てかけの縫い物に針どめして立つは年頃二十歳あまりの意気な女」という出だし。

 傘屋の小僧の吉三は、年は16だけれど、11、2くらいにしか見えない「肩幅狭く、顔小さく、目鼻立ちはきりりと利口らしけれど、いかにも背の低ければ人あざけりて一寸法師とあだ名される」男の子で、道端に捨てられていたのを傘屋のおばあさんが拾って育てたという境遇。

 人の縫い物をして暮らしているお京もまた吉と似たような境遇で、近所の金持ちのじじいが妾にしようと執心しているという噂を聞いた吉が、様子を探りに訪ねてきたのだった。

 もちろん、お京は噂を否定するが、結局は心を決め、「妾に行くのをやめにしてくださるか」という吉を後ろから羽交い締めにして(何しろちびだから)「私はどうしても決心しているのだから」と言うと、吉は、涙目で「お京さん、後生だからこの肩の手を放しておくんなさい」。

 で、終わってしまう。

 最初は、これで終わりとは信じられず、ページを繰ったり、他の本で確かめたりしたのだが、一葉の小説はみんなこんな感じなのだ。

 誰だったか、「どうしても書きたいと思ったことをばっさり削って終われ」というアドバイスをしている小説家がいたけれど、一葉はこれを見事に実行しているのだ。

 ところで「十三夜」は、お関という女が金持ちの家に嫁に行ったが、夫の不人情に愛想を尽かし、家に戻るが、父親に泣く泣く説得され、家に戻るために人力車に乗ると、そのチビの車夫がかつての幼馴染みの録さんで、「あんたが嫁に行ってからすっかり落魄し、かつてはタバコ屋の息子だったが、それもつぶれ、今は安宿の二階に寝転がって、気の向いたときに車を引いている」という。

 つまりは「わかれみち」の後日談のようなものだが、この再会で運命が変わるわけでもなく、お関は元のいやみな旦那の元に、車夫の録さんも空車を引いて宿に戻るという終わり方。

  日本リアリズムの傑作と言われる徳田秋声の「あらくれ」を読んだときは、最初の出だしはむちゃくちゃかっこいいと思ったが、3ページも読まずに退屈になって放り出してしまったが、樋口一葉の場合は、現実がこうだからこう書いたというリアリズムとは全然ちがう、魯迅の「野草」をも思わせる力強さはなんなのだろう。

 いや、魯迅は続けて読んだので例に出したようなものだけれど、読むに値しない作品は、多分一つもない抜群の才能(ただ文章がうまいだけでなく、「お話」をつくれるというところがすごい)がたった25で死んでしまうとは、宇野千代みたいに100近くまで生きたらどんなすごいことになっていたかと――と一葉風に終えてみた。

哲学者イチロー

 イチローが4000本安打を打って、チームや観客の喝采を浴びたことについて、イチロー自身が、「4000本という数字自体に価値があるのではなく、価値があるとしたらそれを喜んでくれた人たちがつくってくれた」と言って、いやはや、これは深いことを言うなーと思った。

 まるで西田幾多郎である。西田は「善の研究」で、次のように言っている。

 『(普通の人は)科学的に見た世界が最も客観的であって、この中には少しも我々の情意の要素を含んでおらぬように考えている。しかし学問と言ってももとは我々生存競争実施の要求より起こったもので、決して情意の要求を離れたものではない。科学的見方の根本義である外界に種々の作用をなす力があるという考えは、自分の意志より類推したものであると看做さねばならぬ。それ故に太古の万象を説明するのはすべて擬人的であった。今日の科学的説明もこれより発達したものである。……個人なるものがあって喜怒哀楽の情意を起こすと思う故に、情意が純粋に個人的だという考えが起きるが、しかし人が情意を有するのではなく、情意が人をつくるのである。万象の擬人的説明ということは太古の人間の説明法であって、また今日でも純白無邪気なる小児の説明法である。いわゆる科学者は凡てこれを一笑に附し去るであろう。もちろんこの説明法は用地ではあるが、一方より見れば実在の真実なる説明法である。』

 「4000本という数字自体に価値がある」という考えは、いわば西田のいう「科学者」の「外界に種々の作用をなす力がある」という考えに等しく、イチローはそれを否定して、「4000本という数字に価値があるとしたら、それはそれをすごいと思う人の情意がつくったのだ」と言っているのだ。

 なかなかうまく説明できないが、要するに、南伸坊の「笑って楽しかったという記憶があるから、笑いは楽しいものと思うが、実際は恐ろしい危機を免れたときに笑うのだ」とどこかで共通しているかもしれない。

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