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しばらく前に南伸坊氏にインタビューをしたのだが、大変に頭の明晰な方だった。
たとえば、「笑い」について、大概の人は「笑って楽しかった」という記憶があるから、「笑いとは楽しい経験だ」と信じているが、実際は、「笑い」にいたるまでは実はとても苦しい、恐ろしいような経験で、それから「免れた!」とわかったときに笑うことができる、そのときは、恐ろしいことから免れたのだからとても幸福で嬉しい気分なわけで、それで「笑って楽しかった」という経験だけが記憶に残り、「笑い」とはいいものだ、「楽しいものだ」とみんな思う――というのだ。 実はこれは哲学者の大森荘蔵の「過去は存在しない」と同じことを言っている。 「過去」は事実として「一つだけ」存在すると、皆、信じているけれど、あらゆる「過去」は、今、「過去」としてイメージされているだけだというのだ。 要するに存在するのは、現在の「解釈」に過ぎない、というわけだ。 問題はこの解釈をどう解釈するかで、「解釈」に過ぎないのだったらそんなものを信用するわけにはいかない、と考える立場で、これは一つしかないはずの「事実」を追求する立場に舞い戻る。 もう一つの立場は、すべての認識が事実の解釈に過ぎないのだとしたら、すべての認識が誤謬だということになるが、この「誤謬」を信じなければ生体として生き延びることができないとしたら、それを真理として信じることは必要だと考える。 例えば、「遠くのものが小さく見える」のは、ハトも同じらしいのだが、これは認識としては誤謬なのだが、これを信じなかったらハトは生きていけない。 もちろん人間も生きていけない。
と言ったのはニーチェで、このニーチェの「誤謬としての真理」の発見がポストモダンのはじまりとなって、今、世界はこの真理を真理として認めている。 もちろん、ニーチェの本を読んで「なるほど、ニーチェの言っていることは正しい」と思ってニーチェの態度を採用したわけではなく、時代の変化に敏感な人が採用した考え方が、気がついたらポストモダンのそれだった、ということなのだけれど、問題は、そのように問題を設定している人が日本は少なく、大半はモダニズム=近代を信じているということだ。 例えば、アジアで一番早く近代化を達成したことを、今でもほとんどの日本人は、誇りにしている。 だから、国連で「日本の司法制度は中世なみ」とアフリカ人から指摘された日本の担当大使が、「シャラップ」と怒鳴りつけ、韓国人には「おまえたちを近代化させたのは日本だ。ありがたく思え」と言ったりする。 困ったことに、その典型が安倍首相だということで、いわゆる歴史認識問題にしても、「おまえたちを近代化させたのは日本だ」という思考が根底にあるものだから、そんなことは言えないとわかった分、「歴史認識」を支える事実は「一つ」だけだと信じたい気持ちが強くなり、しかり伺候して、自分が真摯にこの問題に向き合えば、いつかわかってもらえると信じている。 その点、小泉は不真面目な分、かえってよかった。
2005年の2月、インドネシアのバンドンで第2回バンドン会議が開かれ、西側先進国の中で日本だけが出席し、その冒頭、日本の植民地支配と侵略をわびる「村山談話」をそのまま踏襲する演説をした。
その少し前まで、靖国を参拝して中韓両国、特に中国を刺激する言動を繰り返していたので、ちょっとびっくりしたのだが、当時のブログ等を調べると、例えば櫻井良子などの「保守派」は、「せっかく歴史認識を正しくしようとしていたのに、裏切りだ!」と村山談話の踏襲を非難し、左の共産党は、栄えあるバンドン会議の名を汚すものと、これも激しく非難していた。
「栄えある」というのは、第一回のバンドン会議には中国の周恩来とかインドのネール、エジプトのナセルらが出席し、まさに栄えある「非同盟主義」のはじまりだったのだけれど、そのバンドン会議にアメリカと同盟している日本がどのつら下げて参加するのだというのだ。
天木直人のような反米の元外交官も同様の趣旨で非難していたが、右からも左からも非難されるということは、「正しい」ということだろう。
まあ、バンドン会議が「非同盟主義」の原点であったことは確かで、それに「日米安保を守っていれば日本は大丈夫」と公言していた小泉が参加するということは、不思議と言えば不思議なのだけれど、小泉純一郎なりの「政治カン」でそうしたのだろうし、この方針で行けばいいのだと私は思ったのだが、実際には左右の反発を招いてしまった。
いや、別に「反発」を招いても、議論をすること自体はいいことなのだけれど、何故か日本では、そうはならない。
林房雄が「大東亜戦争肯定論」で、大東亜戦争を進めたのは実際には民間右翼だったと書いていて、その仔細がよく飲み込めなかったのだが、小泉以降の「民間右翼」の跋扈を見て、「ああ、戦前もこういうことだったのだろうな」と思ったのだった。
それはともかく、ニーチェが「あるのは解釈だけ」と言ったのは、「事実は一つだが、解釈が無数にある」というのではなく、文字通り「存在するのは解釈だけ」で、だからこそ、「誤謬としての真理」を信じることが必要だという話になる。
「事実は一つだが、解釈が無数にある」VS「存在するのは解釈だけ」。 この両者の懸隔は極めて大きいのだ…な。
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