BBCの番組、生まれてから七年ごとにインタビューして、人生の変遷を探るという興味深い番組の「日本編」が先週の金曜日、9月20日に放映された。
田舎の農家の息子と、どこかのサラリーマンの娘と、あともう一人いたような気がするが、農家の息子は、親の手伝いなどを子供の頃からやっていたが、農家を継ぐことはせず、地元にできた建材工場に契約社員、要するにアルバイトで入社し、現在28歳、正社員になったものの、親の家から工場に通っている。
なぜ、農家を継がなかったのかという質問には黙っていたが、多分曰く言い難い不満があるのだろう。
農家の息子については、これくらいで、次の「サラリーマンの娘」は、子供の頃から結構美人だが、志望の大学への入試に失敗し、女子短大に入った。
短大卒業の頃には、子供の頃から「美人」ぽかったが、期待以上の大人っぽい美人になり(私見)、日本航空のスチュワーデスになった。
入試に失敗したからと単純息めつけることはできないが、正直言って、容姿で選ばれたといっていいのではないかと想像できるわけだが、彼女はすっかり有頂天で喜んだ。
ところが数年後、彼女は運動中に転ぶかなにかして、大怪我を負い、数ヶ月間、休職することになった。
ちょうど同じ頃、日本航空が破綻した。
「どうなるのだろう」と心配したが、政府の支援のおかげで彼女は失業を免れた。
しかし、父親は、娘を激しく叱責した。
「怪我をしたということは、理由はなんであれ、社会人としての自覚がなかったからで、そんな社員を雇っている会社だから、経営も破綻するのだ」と言って、父親はその後数ヶ月、口もきいてくれなかった。
「でも、今、考えると、父親の言う通りで、私は、会社と一緒に生まれ変わった気持ちでがんばっています」 というのが、彼女の「28歳の現在」の感想である。
なんて嫌みな父親なのだろうと思ったが、番組のロールエンドを見ると、プロデューサーは外国人(英国人?)で、その一人以外、スタッフは全員日本人だった。
そうだろうなと思った。
日本人は昔から、外国人には本当のことを言うが、日本人同士では決して本当のことを言わないことで知られている。
バーガミニの「天皇の陰謀」の後書きには、天皇の子供時代の「学友」が裕仁天皇のことを「好戦的なガキだったよ」と自分に言っていたことをひき、「日本人は外国人には本当のことを言う」のだと、書いている。
少年が「好戦的」なことは古今東西、すべての文化がそうなので、裕仁天皇がとりわけ「好戦的」で、スイスのバーデンバーで当時の陸軍中枢と「世界支配」の陰謀を企んだというバーガミニのストーリーは歴史学として受け入れられなかったが、「日本人は外国人には本当のことを言う」というバーガミニの言葉はまさにその通りで(バーガミニは聖路加病院を設計した外国人建築家の息子で、日本育ち)、だとしたら「28歳の私」(件の番組はそんなタイトルだった)の製作者、インタビュアーは外国人でなければならなかった。
外国人だったら、スチュワーデスも「本当のこと」、つまり「不満」をしゃべっただろう。
日本人がインタビュアーでも、例えば「あなたの好きなマンガはなんですか」と聞いて彼女が「アラベスク」と言ったら、「あなたは耐える女の子だったのか」とか、話を展開できる。
まあ、それはもし私だったらということで、本題に戻ると、「本当のことは言わない」は「嘘をつく」に等しいが、「本当のことを言っていない」ことをお互いに承知している日本人同士は「嘘をついている」自覚がなく、むしろ、「偽善的」な態度として現れる。
その典型が「お父さんに感謝している」という言葉だ。
北朝鮮の拉致問題なんかもその典型の一つで、事件発覚当時、故中島梓が言った通り、強制拉致が犯罪行為であることは事実に違いないにしても、拉致されてから20年、30年、あるいは40年を経ている以上、北朝鮮人とみなすのが「世界の常識」なのだが、「めぐみちゃんは今も、お母さんに会いたいと言って、今日も泣いているんです」という訴えが、みんな本心では「はてな?」と思っても、「どうせ本心で言っているのではない」で、欺瞞的な合意が成立してしまう。
いや、母親が16歳で行方不明になってしまった娘のことを「今も泣きながら家に帰りたいと思っているにちがいない」と思うのは、仕方ないか知れないが、今現在の諸般の情勢を鑑みれば「娘さんは娘さんの人生を歩んでいます」と言って諭すのが周囲のあるべき姿ではないか。
「あきらめろ」と言っているのではない。
問題を解決したいのなら、めぐみちゃんの(生きているとして)あり得る可能性を想定し、極端には、毎日日本のお母さんのことを思って泣いている可能性、冷徹に考えれば(死んでいる可能性が高いと思うけれど)、すっかり北朝鮮の社会にとけ込んでいる可能性を考慮し、その上で、日本に残された家族の「満足」させるにはどうしたらよいかを考えるべきだろう。
日本人同士の間の暗黙の了解で成立している事柄を外に向かっていくら喧伝しても、問題が解決するはずがないのだ。
ニュースで、16歳の少女の白骨死体が発見され、母親が虐待して死なせた可能性が高いという。
今回は、死なせた娘を溺愛していたという証言もあって、ちょっと普通と異なるような印象もあるが、家庭相談所(なんというのか知らないのだ)の係員が家を訪ねると玄関から追い返され云々と、玄関を挟んだ「家と社会」の対立の構図は相変わらずで、今のままでは「拉致問題」と同じで、問題は解決しない。
いったいここ20年、いや30年近く、問題はすべて解決されないままなのだが、「家の外に出るとみんな敵」という、封建制度以来の日本の「家」のあり方を根本的に変えるしかないだろう。
今、NHKに園子温が出ていて、「園監督の敵は何ですか?」と聞かれて一瞬戸惑っていたが、「日本の曖昧模糊とした霧みたいなもの」と答えていた。
まあ、そういうことだけれど、その「霧」の正体は、私が思うに、「お互いに本当のことを言わないことをお互いに知っていること」、そのことではないかと思う。
そしてそれが必要だったのは、和辻哲郎が言う「へだてなさ」において互いをへだてる日本の家の構造に起因する。曰く、
『襖障子が「へだて」として役立つのは、それが閉ざされているということによって表示されている「へだて」の意志が、他の人によって常に尊重されているいう相互の信頼に基づくのである。…鍵をもって護るというような意味の個人は「家」の中では解消する。かかる「へだてなさ」を内に包みつつ、外の世界に対しては鍵のあらゆる変形をもって対抗するのが日本の「家」である。』
16歳の娘を殺しながら、社会を絶対に「家の中」に入らせなかった母親は、自分の行為の「犯罪性」を曖昧模糊とした霧の中で見失ってしまったのだ。
話がすっかりそれてしまったけれど、Eテレの日本版「28歳になりました」が全く内実を伴わなかったのは、日航のスチュワーデスの言葉に内実がなかったからではなく、彼女自身が「曖昧模糊とした霧」の中にいることを暴けなかった制作者の問題なのだ。
言い換えれば、彼女が「曖昧模糊とした霧」の中にいて、満足しているようだが、実は満足なんかしていないことを暴くことが大切なのだ。
それはソクラテスがしたことで、それでソクラテスは為政者に殺されてしまったわけだが、為政者が殺さざるを得なかったくらい、大切で本質的なことなのだ。
長く書くつもりはなかったのに、また長くなってしまった。