日記

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認識不足

 最近の落語界はどうなっているのだろう。 若手が伸びていると、ヘビメタ雑誌「バーン!」編集長の広瀬和生などは言っているようなのだが、その広瀬一押しの桃月庵白酒が、『替り目』という古典落語で、べろべろに酔っぱらって帰ってきた亭主が女房になんとか酒の支度をさせようとするところで、 亭主「もう一本飲みたいなな〜」 女房「もう飲めないでしょ」 亭主「飲める」 女房「飲めませんったら、飲めません」 亭主「オメエはオレか?」 亭主はこの後「お前は北風と太陽のたとえ話を知らないのか」と女房の懐柔にかかるが女房は「論理的な酔っぱらいは嫌われるわよ」と返す「くすぐり」があって、広瀬氏は、これらを白酒の独創で、『替り目』を得意にしていた志ん生にはこんなやりとりはなかった、と断言しているのだが、う〜ん、私は聞いたことがあるような記憶があるのだが……。 もちろん、寄席ではなく(「寄席」って行ったことがないのだ)、テレビだけれど、「認識不足」という当時インテリの間で使われていた言葉を大家と八っつあんのやりとりに混ぜ、大家が、「それは八っつあんの認識不足だ」と八っつあんをたしなめると、八っつあんが「ふん、おだてるない」と応えて、客がどっと沸いたという話を京須という人が書いていた。 私はこれも何となく覚えているが、面白かったのは、八っつあんが聞き慣れぬ言葉にトンチンカンな返事をするところよりも何よりも、落語家、それも全く縁のなさそうな志ん生の口から「認識不足」というインテリ言葉が出るところが面白かった。 実は、京須によると「認識不足」という言葉は作家の宇野信夫が若手の売れない落語家を家に招いて酒をやったりなんかしていて、志ん生もその一人だったのだそうだが、その宇野が、ある落語家が「認識不足」という言葉を使って「そこそこ受けていた」ことを志ん生に話し、志ん生が志ん生なりに工夫して使ってみたら、すっかり受けた。 これが受けて志ん生は人気者になったと、宇野は言っているそうだ。 この「認識不足」は、後に談志の持ち台詞のようになって、それを好む人、嫌う人にわかれ、広瀬和生は談志擁護派の筆頭として、桃月庵白酒の「論理的やりとり」を白酒の「独創」として賞賛するわけだが、でもそれも元はと言えば志ん生の持ちネタ、それも彼を人気者に仕立てた持ちネタだったのだ。 広瀬氏は、落語評論の原則のようなものを掲げていて、その第一に「落語は文学ではない。話芸である」をあげていて、私はもちろん賛成なのだが、しかし「認識不足」というインテリ言葉を落語に送り込んだ、というかそのきっかけをつくったのが文学者の宇野信夫だったというところが含蓄深いというか、おもしろいというか……。 もちろん、志ん生の言う「認識不足」と、談志の言うそれとは、まるでちがうが、でも談志の晩年から死後にかけて、それまで嫌っていた談志の「認識不足」を受け入れる人が増えてきた(私もその一人なのだが)のは、談志の「認識不足」も結局志ん生のそれを受け入れるように、受け入れられるようになってきたのだと思う。

う〜ん

 プロ野球の統一球問題だけれど、あれはきわめて大事な事件だと思うのだが、プロ野球解説者は一言もそれに触れない。

 ちょうど交流戦が終わったばかりだが、3連戦だったら、トータルしてどちらが勝ったか目に見えてわかるのだが、2連戦ではそれがわからズ、見ていてははなはだしく欲求不満が残る。

 そんなのはファンはみんな思っていると思うのだが、全然改まらない。

 そもそも2連戦になったのは、「3連戦では長過ぎて、選手が大変」と事務局の方で判断して、2連戦になったのだと記憶しているが、実際には2連戦だと間隔があきすぎて、調整に困るとか選手は言っていた。

 しかし改められる気配は全然ない。

 私に言わせれば、この辺のファン、選手に対する無神経さが「統一球問題」として露呈したと思うのだが、この「統一球問題」で、野球解説者は何も言わない。

 日程問題も、何も言わない。

 なんでだろうと思っていたのだが、古館のニュースステーションの野球解説の工藤が、肩を狭めて「私には全然わからない問題なので」とボソリとつぶやいていた。

 なるほど、そうか、プロ野球解説者、とりわけ元プロ野球選手の解説者(昔、小西得郎という例外的存在が板が、今はほとんどすべてが「元プロ」ばかりだろう)は、統一球問題が孕む問題など、一度も考えたことがないのだ。

 それはしょうがないとしても、では、プロ野球解説者とは何をする人なのかというと、ひたすら細かい「技術解説」に明け暮れるわけだ。

 そして、それを聞き手も好んでいるから、マスコミも「技術解説」ばかりになる。

 でも「批評」とは決して技術解説ではない。

 「統一球問題」なら、それが孕んでいる「見えない問題」、「日程問題」なら、それが孕んでいる「見えない問題」をちゃんと見て、それを見えるように表現するのが解説者というか、批評家で、戦後日本というか、近代日本にもっとも欠けているのが、この種の「目を持った批評家」なのだ。

 というのも、ひと月程前、土取利行という、元フリージャズのドラマーで、坂本龍一などと音楽活動をしていた人に話しを聞いたのだが、彼が「音楽は技術ではない」と発言した。

 私は、他の芸術ジャンルはともかく、音楽、とりわけ器楽演奏は、自分ができないからということもあるが、「一から十まで技術の問題」と考えていたので、びっくりした。

 でも、考えてみればそうなのだ。

 美術では、子どもの美術が最高で、ピカソもマチスもみな「子どものように描く」事を目指していたのは周知の事実で、それは音楽においても、実は同じなのだ。

 それが、芸術ジャンルにおいても、その評価が「技術評価」一点張りになったのは、近代日本の発達が「いびつ」だったからというのが土取氏の意見だったが、まったく私も同感であった。

 でも、この問題はとても難しいので、なかなか上手く説明できないが、ともかく、プロ野球解説を聞いていて、すべてが細かな「技術解説」で占められていることに改めて気づき、「う〜ん」とうなってしまったのだった。

 朝日新聞の整理をしていたら、今年の都立高校の入試問題の「問題と解答」が載っていて、それの国語の問題に稲葉真弓さんのエッセイが使われていた。

 稲葉真弓さんと言えば、月光で何回か下川コウシさんがらみで登場していただいたので、「出世したなあ」と感慨深く思いながら、その「問題と解答」を読むと、その「問2」が何とも納得が行かなかったので、それを再録する。

 稲葉さんのエッセイは、中学三年生のときに祖母のもとを訪れたときの思い出なのだが、おばあさんが、「みいちゃん=稲葉真弓」にこう言う。


 「みいちゃんはまだうちの桜餅、食べたことないだろ? 恋の餅だよ」
 「恋の餅?」
 「うん、おじいさんが私の作る桜餅に惚れてね、そいで結婚したのさ、あたしら」
 おばあさんはうれしそうな顔をした。そうか、おじいさんは甘党だったんだ。私は見えないものが少し見えた気がして、おばあさんのしわくちゃな顔を感心して眺めていた。

 というのだが、問2は、「私は見えないものが少し見えた気がして、おばあさんのしわくちゃな顔を関して眺めていた。とあるが、「私」が「見えないものが少し見えた気がし」た湧けとしてもっとも適切なものは、次のうちでどれか、というのだ。

 ア 桜の花や葉の塩漬けを食べるために待つ時間が大切だというおばあさんの言葉によって、待つことに対する考えが変わったから。
 イ うれしそうな面持ちで話すおじいさんとの思い出から、おばあさんの別の一面を知ることができ、おばあさんの別の一面を知ることができてより親しみを感じたから。
 ウ 不思議で仕方なかった瓶や壺の中身の使い方を知ることができて、おばあさんに対する謎が少しとけたと思ったから。
 エ おじいさんと結婚したきっかけが桜漬けを一緒に作ったことだと聞き、おばあさんにとって桜漬けが思い出の味だとわかったから。

 私は、答えは「エ」だと思った。

 よく読むと、桜餅を一緒に食べたことは事実でも、「桜漬けを一緒に作った」かどうか、エッセイには全然ないのだけれど、桜餅を喜んで一緒に食べたことで、おじいさんが甘党だったことがわかったとか、何より記述が具体的でいい。

 「おじいさんが私の作る桜餅に惚れてね、そいで結婚したのさ」というおばあさんの台詞が、このエッセイで稲葉さんがもっとも言いたかったことに違いない。

 「イ」も間違いではないが、ずいぶんあいまいな言い方だし、ここは語られている話の具体性を優先して、「エ」だ。

 と思ったところが、正解表を見たら、正解は「イ」だった。

 なんで「エ」が間違いなのか?

 エッセイにない、「桜漬けを一緒につくった」というのが間違いなのか?

 だとしたら、極めて悪質な「ひっかけ」だ。

 そう思って、前年の試験問題を見てみたら、「車を運転していたら、海が見えてきたが、そのとき私は、ううう……っと声にならない声を挙げた」とかそんな記述があって、この「ううう……っ」といううめき声が「海(うみ)」という自己表出語になったという、吉本隆明のもっともいい加減な言語論を「正当な言語論」と認めた問題だった。

 こりゃー、私はとても都立高校には入れない。

 安倍首相問責決議案が可決になったとばっちりで、電力改革、生活保護法改正案がそれぞれ廃案になったそうで、どうせ電力改革にきわめて懐疑的、後ろ向きな電力改革法、自力更生を主眼にする生活保護法案が廃止になったことは、「いいことだ」と思ったら、朝日新聞は「せめてこれくらいはやるべきだったのに、残念」といったニュアンスだった。

 「電力改革」「生活保護制度改革」にちゃんとしたビジョンがあれば、「せめてこれくらい」という曖昧な態度とは決別できるはず。

 この曖昧な態度は、都立高校の入試問題で言えば「うれしそうな面持ちで話すおじいさんとの思い出から、おばあさんの別の一面を知ることができ、おばあさんの別の一面を知ることができてより親しみを感じた」という八方美人的解答を「正解」にするのと共通する「事なかれ主義」だと思ったのだった。

 宮崎学が、橋下徹、「太陽の党との合併を解消し、中央官僚支配打破、地方分権改革の波を、大坂から全国へ」のキャッチフレーズ勇ましい『橋本維新の挑戦とアンシャンレジーム』という著書の宣伝が目に入った。

 賛成である。

 消費税を地方税にする提案は財務省がもっとも嫌う政策で、だったらもっとも「正しい政策」だ。

 もちろん、各地方の貧富は拡大するが、貧しい地方には貧しい地方なりの生き方があるし、其れを特徴にして「貧しいが、○○地方が住むにはいい」となるかもしれない。
 少し前に亡くなった人だけれど、大津栄一郎という翻訳家の『英語の感覚』(岩波新書、上下)という本に、英語は「見えないものを見えるものとして表現する言語」で、日本語は「見えないものは省略する言語」だと書いている。

 例えば英語では「スプリング・ハズ・カム」などが典型だが、「春」という見えないものを見えるものとして扱う。

 もちろん、「春が来た」と日本語でも言うけれど、これは明治以降の近代日本語で、「春が来た」風の象徴的な表現は、近代以前の日本語にはまったく見られないという。

 その証拠に、日本の詩に「春が来た」風の擬人的、象徴的な表現は万葉集以来、まったくなく、ただ「新古今和歌集」に数句現れたものの、以後、再度姿を消したという。

 なるほど、三島が「新古今」にこだわったのもそういうわけだったのか、新古今の成立の時代背景など、興味深い問題だな…とか思ったのだが、それはさて、「見えないものは省略される」という原則は、現実には「見えるものだけを見る」ということになる。

 「見えないものは省略される」場合、「見えないもの」は「存在しない」わけではないのだが、なにが省略されたかはっきりしないから、現実には、見えるものだけが存在しているように考えられる傾向が強くなる、というわけだ。

 詳しくは本を読んでもらうとして、日本人の「見えないものは省略する」態度は近年ますます強まっているように思う。

 例えば尖閣諸島問題なんか典型で、安倍は「尖閣諸島は日本固有の領土」一点で凝り固まり、マスコミも同調している。(その点は、野田も菅も同断で、ただ「日本は日本人だけのものではない」と言った鳩山由紀夫だけ、ちょっとちがっている風があるが、まあそれはそれとして…)

 しかし地球全体、太平洋全体から見たらまさに芥子粒以下の極小の地域を「領土問題」として扱うのは、尖閣諸島が抱える「見えない問題」、すなわち「地域の安全保障問題」を省略して、「領土問題」だけを見るべく「クローズアップ」しているのだ。

 アメリカの「領土問題に我々は介入しない」という言葉を不安に思ったりするのも、尖閣諸島が抱える「見えない問題=安全保障問題」を省略して、見える問題として領土問題に限定しているからだ。

 しかし尖閣諸島問題に限らず、領土問題はすべて「見えないもの」を本質として抱えているので、それを省略したら、問題はすべて「オール・オア・ナッシング」になって、問題解決は「武力」によるしかなくなる。

 それをアメリカは警戒しているわけで、武力衝突になるにしても、領土問題ではなく、安保問題で衝突してもらわないと、アメリカは何もできませんよ、と釘を刺しているはずだ。

 もちろん、想像だが、そもそも十年くらい前、尖閣諸島を日米安保の対象外とモンデール駐日大使が発言して大問題になり、大使は直ちに本国召還され、解任されたことからも、尖閣諸島問題が「安保問題」であることは明らかで、マスコミもそれは知っているはずだが、それを「見えない問題」として省略し、もっぱら領土問題として報道しているのは、全く度し難い習癖としか言えない。

 それでも「わかっている人はわかっている」ならいいのだが、安倍はそれが極めて不確か、というか、「バカ」なので大変に困ったことになる。

 田中均元外務官がツイッターかなにかで安倍が諸外国から右寄りと見られていることを懸念したことに安倍が猛反発して「私が北朝鮮に拉致されていた五人を北朝鮮に戻さなかったことに田中は猛反対したが、どちらが正しかったか、今となっては明らかである」と書き込んだらしいが、彼らはいったん帰国させ、日本との連絡員にするという方法もあったはず。

 北朝鮮がそんなことを黙認するはずがない、と言う人がいるかもしれないが、そうなればなったで、交渉材料の一つになるわけで、いくらでも方法はある。

 「五人を帰国させない」という判断は正しかったと安倍は言うが、彼らが、今、日本にいるという事実が、北朝鮮拉致問題の解決にどれほど益しているというのか。

 五人が、今、日本で生きているという「目に見える事実」、それだけではないのか。

 大津氏は、日本語が「見えないものは省略する」言葉である結果、「日本人に他者はいない」と言う。 日本人に他者感覚が乏しいことは、以前から多くの知識人が指摘していることで、特に森有三が有名だが、その多くは社会学的観察によるもので、実際はそれは、日本語の構造に由来するのだ。 森有三の祖父の森有礼が、日本の使用言語を英語にしろと言ったのも、二葉亭四迷等による言文一致文体の創出以前の話で、今の日本語では近代感覚を身につけることは到底できないと思ったからだろう。

 しかし言文一致体は二葉亭以外にも、坪内逍遥だの、誰某だの、多くの試行錯誤を経て後、森鴎外をもってほぼ完成したものの、それはそれで問題を抱えている、というか、解決しきれないでいる問題を残している。 それは、近代の抱える問題そのものでもあるのだろうが、いずれにせよ、その問題の解決が、未来ではなく、過去を向いてしまっているのが問題なのだ。

 と思う。
 衆院の定数削減問題で、以前からずっと思ってきたことだが、「不公平」を是正するなら、定数を増やすという方法があるはず。

 なんで、それを誰もいわないのだろうと思っていたのだが、「定数増加」を主張する運動体というか、市民グループが存在するそうで、前回、紹介した国連の拷問禁止委員会の傍聴記事をブログに書いていた小池振一郎弁護士が、その一員で「賛同者」の名前をブログにアップしていた。

 あまり著名人はいないみたいだが、数は相当多く、マスコミが無視していい数ではなかった。

 世論の「空気」を読んで、「定数増加」運動が存在することを無視しているのだろうが、だとしたら、まさにマスコミの自殺行為。

 最高裁も、世論の空気を読んで、「違憲状態」の判決を下したのだろうが、違憲状態を正すのは、「定数削減が唯一の方法ではない」くらいチラリと言ってみたらどうか。

 金がかかるといったって、微々たるもの。

 国家財政が、国会議員の報酬も払えないくらいに切迫しているわけではないだろう。

 どうしても、というのなら、議員歳費を削減すればいいだろう。

 議員としてみれば、定数増加で当選の確率が上がるんだし。

 ともかく、みんなが定数削減を言う中で定数増加を言うことは、決して「ちゃぶ台返し」ではない。

 そもそも定数削減して、なおかつ公平性も確保するとしたら、鳥取、島根辺りの地方選出議員は、ゼロになってしまうのではないか?

 工学部の学生なら誰でも知っている電気の法則にオームの法則というのがある。両極の電位差は、電流の大きさと、電気抵抗の大きさに比例するという公式だが、実際に電は、純粋な比例関係にはならない。

 昔、大学の授業で、このオームの法則を取り上げ、何故、現実には単純な比例関係にならないのか、わかるかと教授が生徒に質問した。

 すると、教室内静まり返る中で、一人、手を挙げ、「抵抗線(例えばニクロム線等)に電気を流すと、抵抗線の温度が上がるから」と答え、教授が「その通り!」と拍手したのだけれど、言われてみると「なーんだ」だが、結構、気づかない。

 定数削減ばかり見ている連中は、「ニクロム線の温度が上がること(実は、それが実用の目的なのだけれど)」に優秀な連中が気づかなかったように、それがもたらす矛盾に気づいていない可能性がある。

 かもしれない。

 と、当時全然気づかなかったボンクラの一言でした。

 

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