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橋下の従軍慰安婦発言に、国連の拷問禁止委員会が懸念を表明したことは記憶に新しいが、同じ拷問禁止委員会が同じ頃、世界各国が等しくその人権状態を審査されるという趣旨の審査会なのだそうだが、日本に対する第二回審査会が開かれ、そこでアフリカの委員から「日本の刑事司法制度は中世」だと指摘され、日本政府の人権大使が逆上のあまり、「日本は世界一の人権大国だ」と応酬し、会場の失笑を浴びたと「小池振一郎の弁護士日誌」というブログに記載されていたので、リンクしておく。
これを読むと、安倍がアフリカ各国を招待し「近代化をお手伝いをしたい」と得意満面の発言がいかに笑止千万かわかる。
もちろん、日本の司法制度を「遅れている(中世だ)」と言ったアフリカのモーリタニアの委員も、安倍に招待されてやってきたアフリカ各国の役人、政治家も、皆、知識人として、欧米流の教育を受けているのだろうけれど、だから知識人である彼らと非知識人である一般民衆が分離しているとは思わない。
何故なら、日本のように「弁護士なしに取り調べられて、それが法廷証拠になる」ことも、「自白するまで無制限に取り調べを受ける」こともないのだとしたら、それは一般民衆の利益になることは事実なのだから。
そもそも近代国家とはホッブスが言うように「リヴァイアサン=怪物」だから、国民はそれから守られねばならないのだけれど、「世界一の人権大国」を自称する日本に、それがないのは、そんなのはなくても、日本はうまくやっていけると思っているからだろう。
「テッド」で、もっとも多く聴衆の賛同を集めたというプレゼンテーションは、死刑囚の10パーセントが冤罪だという事実を訴えた弁護士のプレゼンテーションだったが、我が日本の冤罪率はそれより遥かに低く(人権大使は「日本の冤罪率は世界一低い」と言うかもしれない――いや、知らないけれど、多分そう官僚は言うだろう)、したがって「今のままでいい」、少なくとも「喫緊の課題ではない」とマスコミも考えているのだろう。
でも本当に「喫緊の課題ではない」のか?
在日米軍が特権として日本警察の取り調べを拒否できるのは、日本の警察の取り調べに弁護士立ち会いが許されていないためだと言われているが、これでも「喫緊の課題ではない」と言えるのか?
そもそも事件の被疑者の取り調べに弁護士立ち会いが条件だったり、取り調べに制限時間があるのは、被疑者にも人権があるからなのだが、日本では「犯罪者に人権はない」と考えているからではないのか?
「被疑者は犯罪者ではない」と言っても、日本人は「詭弁」に感じてしまうのは、「人権」と言うものを、漠然と、例えば「人間らしく生きる権利」と考えているからではないだろうか。
しかし、だとしたら「人権」だけでなく、犬らしく生きる「犬権」もあり得てしまう。
捕鯨問題で日本人が「欧米人は同じ哺乳類の牛や豚を殺して食べているではないか」と反論するのも、反捕鯨派が「鯨権」を主張しているように頭の中で理解して、それに反発しているのだろう。
それもこれも「人権」を「人が人として生きる権利」とわけのわからない曖昧に理解し、その結果、「人として生きる権利を放棄している犯罪者に人権はない」という理解に至ってしまうのだと思う。
いったい、「人権」とは何なのか?
私が思うに、それは「他者として生きる権利」だと思う。
私は貴方に対して「他者」だし、貴方も私に対して「他者」だ。
コーランに、アラーが預言者ムハンマドに「私が男と女をつくり、部族をつくったのはお互いに理解するためだ」と言ったのだそうだ。
これはコーランで非常によく知られた、重要な一節なのだそうだが、このアラーの言葉は、キリスト教やユダヤ教の「旧約聖書」より、時代が下っているだけに、遥かに「近代的」で、アラーは、男女、部族と言っているが、すべての「個人」に当て嵌まるようなものだ。
つまり、「個人同士がお互いに分離されていることは、お互いを知るためだ」、ということで、それは端的に、お互いを他者として認識することで、「他者として生きる権利」とは、その認識を分有することなのだ。
日本社会に「他者」がいないことは、明治維新に「国語を英語にしろ」と言った森有礼の孫の哲学者、森有三が綿密に論じたことで一部で有名だが、「喫緊の課題」とはまったく思われていない。
でも、橋下発言が人権問題に対する日本人の意識の前近代性を示すものとして受け取られていることは事実で、それはあらゆる場面で、折に触れて蒸し返されるだろう。
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