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「グラフィケーション」のBN、川崎そう(侠のニンベンをサンズイ)氏の『「あいまい」さをめぐる自己批判』という原稿に着目。
要するに日本人のあいまいさを「自己批判的に批判」しているわけだが、なかなかいい。
書かれたのは1973年だから、40年前で、学生運動の記憶も新しかった頃で、原稿もそのことからはじまっている。
曰く「体制に反抗してきた学生の運動は合理に対する反合理の側からの闘争として評価されてきた。大学を含むところの現在の体制は合理主義の資本主義的な産物であり、人間の機能的効用だけを搾取し、内なる人間の声を消去する。民衆のもっとも敏感な部分としての学生はこれに反抗して反合理の立場から情念の世界に腰を据えた。」と考えられているが、川崎氏は「私は事実を全く逆に考えている」と言う。
曰く「今の体制が民衆や青年の人間的な要求を吸い上げる合理的な手段を持たぬためにこそ、学生は合理、つまり物事の筋道を立てることを要求して立ち上がったのだ。」
川崎氏の原稿は、その後、日本文化一般の「あいまいさ」に及びつつ、「しかし、私たちが巻き込まれているあいまいさが私たちの特質のすべてであると考えるのは、もちろん誤解だろう。この国でも優れた内容を有するものはすべてあいまいではなかった。」
川崎氏はその一つとして、「どうせ理屈のわからない世間だから」と我慢していた鎌倉時代の禅僧、明恵上人が、が、もうこれ以上は我慢できぬ、「もの狂わしく思わん人」こそ本当の友人だとして、以前修行したことのある小島に手紙を出した。しかし宛先が書いてないので、弟子が誰に渡すのですかと聞いたら「島のどこかに置いておけばいい」と上人が答えたという、その話をあげている。
川崎氏の解説によると、その島(の自然)こそ「もの狂わしく思わん人」なのである。
正直言って、よくわからないところもあるが、「実に深いです」と言っていい話だと思う。
でもそれよりも、やっぱり舌鋒鋭い日本人批判の方がよりわかりやすいのは確かだ。
日本人の自己表現や対人関係があいまいなのは、意識の未成熟のために自他の区別、ひいては自分自身への真の認識ができていないからだ。つまり我の自覚史上の近代化の立ち遅れのせいと言ってよい。これは常識だが、常識が自分に対して不利に適用されそうになると、この適用を拒むという田舎者のナルチシズムが日本人にはある。
川崎氏は鎌倉あたりに在住していた結構お金持ちの家のおぼっちゃんだったそうで、「田舎者のナルチシズム」って…わかるなあ。
しかし、この川崎氏の原稿に注目したのは、もう一つ理由があって、それは内田樹のブログに最近の「学校教育の終わり」と題された、奇妙な記述があって、それは、今の日本はグローバリゼーションの結果、すっかり合理的判断が先行する社会になってしまっているというのだ。
教育の受益者が共同体から個人に移り、学校教育の目的は、自己の付加価値を高め、自己利益を増大するための手段になってしまったから、もう学校教育はすっかり終わってしまったという「警世論文」のようなのだが、これは、川崎氏の「大学を含むところの現在の体制は合理主義の資本主義的な産物であり、人間の機能的効用だけを搾取し、内なる人間の声を消去する。民衆のもっとも敏感な部分としての学生はこれに反抗して反合理の立場から情念の世界に腰を据えた」という、40年前の学生運動に対する世間一般の「誤解」と同じではないか?
それで「奇妙な記述」と書いたのだが、実際、内田氏は「せめての救いは世界中がグローバリゼーションの津波で学校教育を崩壊させていることだ」と、どこが「救い」なのか、わけのわからない結論で終わっている。
内田ブログは、数年前からコメント不可になってしまっているが、以前だったら猛烈な批判の嵐だと思うし、そういう批判を受けてこそ、議論も深まるというものだが、今は「内田樹」と言えば日本の知識人のナンバーワンみたいになっていて、マスコミもそれを前提に「ご意見拝聴」的記事ばかりだ。
しかし、川崎氏の記述をもう一度借用すれば「今の体制が民衆の人間的な要求を吸い上げる合理的な手段を持たぬためにこそ、人は合理、つまり物事の筋道を立てることを要求」すべきであることは、日本においては、今も毫も変わっていない。
――というか、今ほどそれが求められているときはないと思う。 |

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