|
黒川創「ねこぢるって誰?」
初出▶青林堂『ガロ』1995年10月号
先日、スーパーの文房具売り場をうろついていたら、「カブトムシのセット」が売られていた。直方体のプラスチックケースに、おがくずが敷かれ、なかにカブトムシが雌雄1匹ずつ入っている。たしかに「セット」には違いないが、シャープペンシルやノートと同じ棚に、カブトムシが“文具”として売られているというのはなんか変なかんじだ。
ねこぢるの「ねこ」も、このカブトムシに似ている。作者は、生身の「ねこ」なんかぜんぜん可愛がっていないし、たぶん、ペットショップとさえ、ほとんど縁がないだろう。むしろ、ねこぢるの「ねこ」には、西友かダイエーの文房具売り場あたりが、お似合いのではないだろうか。
スーパーで760円プラス消費税3%でカブトムシを買ってきて、夏休みのあいだ何かエサをやって最後にぶちぶちと六本節足をちぎっていく。そういう感触が、ねこぢるのマンガにもある。つまり、この人は、学校のウサギ小屋のウサギたちを血まみれになるまでたたきつけたり、プールに投げ入れてしまう少年・少女たちの白昼夢のような心情を、いまも共有しているのだろう。
ところで、私は、この作者・ねこぢると、何度か会ったことがあるのだが、あれが「ねこぢる」の正体であったかどうか、実はいまもってはっきりしない。何度か会ったとき、「ねこぢる」は20歳代なかばの小柄な可愛らしい女の子の皮をかぶっており、バーボンを好み、酔っぱらって、私はそのダンナと称する人物と、”彼女“を左右からぶらぶらとぶら下げて駅まで左右からぶらぶら運んだこともあるのだが、それがホンモノの「ねこぢる」であったかどうか、どうも明瞭ではないのである。
作品についてはすでに『ねこぢるうどん』第1巻の「解説」に書いたので、このことについて記しておく。
私に、ねこぢるとのご縁が生じたのは、たしか四年ほど前のことだ。ある業界紙にコラムを連載する機会があり、そこに毎回つけるイラストの描き手を探そうということになって、私は『ガロ』に「ねこぢるうどん」なるものを掲載していた未知のマンガ家を、担当編集者に推薦したのである。
担当編集者は、そのマンガを見て「わかりました」と私に言った。でも、彼は本心では、あまり「わかり」たくはなかったらしい。なぜなら、そのあと、担当編集者はすぐにねこぢるに電話を入れ仕事の件を依頼して、加えて「あなた、ねこしか描けないわけじゃないんでしょうね?」とかイヤミなことを言ったらしいのだ。
私には、担当編集者の不安がわかる。なぜなら、コラムの掲載は週二回、さまざまな雑多な話題を取りあげてのものであるにもかかわらず、かんじんのイラストレーターの作品は「ねこぢるうどん」しか見られていない。
そこでいきなり「ねこしか描けないわけじゃないんでしょうね?」発言となるわけだが、そんなことおまえに言われる筋合いはねえよ、と思うのが、描き手の当然の気持ちだろう。元はと言えば、私が悪いのだ。
そんなわけで、担当者との打ち合わせの時間、所定の場所に、ねこぢるは現われなかったらしい。ただし、やや遅れて男の「ねこぢる」を名乗る人物がやってきた。それが山野一で、彼はこれまでのイラスト作品をささっと要領よく見せて、「じゃ、そういうことで」と、この連載の仕事を決めてしまった。──というような経過をたどって、私はそれから1年、山野一のイラストと組んで、無事その連載の仕事を終えることができたのだった。
ということは、このとき、山野一は、サギまがいの仕事の交渉をしたのだろうか?そんなことはないわけで、実はこの山野一、例の「ねこぢる」らしき女の子の夫で、その仕事のストーリー作り補助、ペン入れ下働き、スクリーントーン貼りつけ係、および渉外担当のような受け持ちをしてきたらしい。つまり、「ねこぢる」というのは個人名というより一種の屋号で、その「ねこぢる」の成分には10%か20%、“山野一“が配合されているのだと考えられなくもない。それはそれでいいでも、だとすれば、あの「ねこぢる」の主成分らしき女の子、あの女性だけを呼ぶときには何と呼べばいいのかという、最初の問題に戻ってきてしまうわけである。
私は、あの女性と何度か食事をしたし、お酒も飲んだ。私は、そんなとき、彼女のことを「ねこぢる」もしくは「ねこさん」と呼ぶ。でも、どうもその「ねこぢる」という言葉には、20%ぐらい山野一が含まれているようで、落ち着かない。いったい、目の前の彼女、この本体が、それ自身だけの名前をもっているのかどうか、私は彼女だけを呼ぶことができるのかどうか、不安になってくるのだ。
私は、ひどいときには酔っぱらって、彼女の家に泊めてもらったこともある(もちろん、そのときには、20%の”山野一”成分付き)。そんな夜には、20%の山野一成分は、80%の主成分に向かって、なにか別の名前で呼びかけて良たのだが、どうも、その呼称がいつまでたっても私には覚えられないのだ。
というわけで、いまも彼女は私にとって「ねこぢる」である。
それでいいのだ。でも、私が彼女のことを「ねこぢる」と呼ぶたび、自分の頭のうしろのほうでは(......ただし、20%の山野一成分抜きの)と、落ち着きのないささやきが聞こえる。 ちょっとイライラする。いったい、彼女は誰なのだろう。
『月刊漫画ガロ』1995年10月号所収
|
全体表示
-
詳細
コメント(0)
|
黒川創「夢の不穏」
初出▶青林堂『ガロ』1992年6月号
収録▶青林堂版『ねこぢるうどん』第1巻
小さい頃、熱を出すと、必ず決まった夢を見た。それは家のすみっこから、クロンボ の人形のようなものが、ぴょこぴょこと現われてくるようなもので、それが夢か現実 なのかさえ、はっきりしない。
だが私は、彼と出会うことによって、自分がすでに熱を出していることを、感じるのだ。幼い頃の夢は、不穏な力を持っている。高い鉄橋のような場所から、落下しつづける夢も、よく見た。
近所のある寿司屋の前からタクシーに乗ると、運転手がピノキオだったという三歳の時の夢も、覚えている(私はピノキオとかピエロとかが恐かった)。
そして、昼間でも、家のすみっこの暗がりからクロンボの”彼” やピノキオが現われるのではないかというおびえは、小学校に入り、その家から引っ越すまで続いた。
ねこぢるの作品の不穏さは、そんな夢の感触に似ているように私は思う。まあ、そうした感触は、いまも多少、私の中に残ってはいる。
本を読みながら、ごく短い眠りに落ちていることがある。そんな時、眠りの中で、ストーリーは条理の枠組みから抜け落ちて奇妙きてれつな形にふくれあがる。
原稿を書きながら(というか、うまく書きすすめられないで筆が止まっているあいだに)、眠りに落ちることもある。すると、夢の中で、思考は舵を失ったように勝手気ままな増殖をはじめ、やがて正気(?)を取り戻した私は、その夢の続きを原稿に記録するような具合いになるのだ。
オーストラリアの先住民アボリジニは、夢と現実とのあいだに特に区別を立てないのだという。ヴィム ・ヴェンダースの映画作品「夢の涯てまでも」も、そうしたアボリジニの感覚を、下敷としている。そこでは、夢を乱開発し、喰いつぶしていく者は、やがてその夢のほうから、逆に喰いつぶされることになる。
”夢”と”現実”とは、ひとつの世界として地続きで、人はいつのまにか”現実”から”夢”の中へと踏み出していってしまうのだ。
ヴェンダースはハイヴィジョンなどのテクノロジーを動員して、その”夢”のディテールを細緻に描きだすことをめざした(ただし、その試みは必ずしも成功していない)。
それと反対に、ねこぢるの場合は、極端に幼稚なポーズを通して、同様の世界に手を差しだしているように見えるのが私には面白い。だが、いっけんラフに感じるねこぢるの絵も、けっして、いわゆる”へたうま”ではない。
大胆で視覚的な構図、書き文字の図像化、そして、スクリーントーンの凝った使い方なども含めて1コマ1コマにたっぷりとニュアンスを持たせようとする点は、彼女独自の持ち味だろう(方法論としては根本敬の正反対だ)。まあ、アヴァンギャルドに通じる道は、いろいろとあるわけである。
夢の中では、ニンゲンの底に眠る”加虐性”とか”悪意”とか、もろもろのものが渦巻いている。だから、われわれは自分の夢のおぞましさにうんざりもするし、しばしば、それにそっと蓋をする。
それは、それでいい。しかし、時おり、ねこぢるみたいな臆面のない漫画家が現れて、ぬけぬけと、その夢の蓋をあばいていってしまうわけである。まあそういう場合に限ってニンゲンにとっての快楽のツボも、一緒に眠っていることは事実なのだ。
『ねこぢるうどん』の背景に描き込まれている風景は、見たところ、一九六○年代か、せいぜい七○年代初頭という感じである。その点、いっけん『ちびまる子ちゃん』とか『となりのトトロ』といった“懐かしモノ”に通じるところが、ないわけではない。だが、『ねこぢるうどん』には、それら、“懐かしモノ“に共有される何かが、決定的に欠けている。
欠けているもの──それは、たぶん、いったん大人に成長した者が過去を振り返るという、秩序立った視線だろう。安定したノスタルジックな視線──そうした視線の中では誰も、小猫のキンタマをえぐり出したり、ボケ老人をいたぶったりはしない。だが、幼い頃からの夢の形を引きずってしまっている者たちは実は、いまもどこかで、そうした無体な殺生を繰り返しているものなのだ。
ちょっと耳にはさんだところでは、ねこぢるの正体は、二四歳ぐらいの女性らしい。だとすれば、『ねこぢるうどん』の街の風景は、実体験にもとづくものというより、いわば、彼女の既視感の中に浮かんでいる風景なのかもしれない。いずれにせよ、このような風景を、平然と脳髄の中に浮かべている不穏さに、私は好感を抱いている。
初出『月刊漫画ガロ』1992年6月号
再録『ねこぢるうどん⑴』青林堂版 |
|
山野一ロングインタビュー後編
貧乏人の悲惨な生活を描かせたら右に出る者なし! 山野一の描く漫画の世界は、実に悲惨だ。その世界では人々は例外なく強欲でどうしようもなく愚かである。時として好感の持てる人物が登場することもあるが、そういった人には情け容赦なく怒濤の不幸が押し寄せる。ああ、なんて夢も希望もないんだ ! でもこの世界、なんかどこかに似ていやしないか。
「世の中バカが多くて疲れません?」
放映中止になったあのCMに共感を覚えた人に絶対オススメの漫画家だ。
福崗で生まれた山野一は、二歳から中学二年の途中までを三重県の四日市市で、中二〜高校卒業までを千葉で過ごした。大学で上京してからは、東京に在住している。喘息の街からヤンキーの世界へ、そしてセントポール・キャンパスという生活環境のどこで、あのニヒルでユーモラスで奥深い感性が育まれたのだろう。
東京駅で神の啓示を受ける
──立教大学に入学して東京に出てきたわけですけど、初めて体験する人間の世界(笑)には期待値は高かったですか。
山野 いくら千葉がヤンキーまみれの田舎っていったって、総武線一本で出てこれますからね。過大な期待なんていうものはありませんでしたけど、解放感はありました。なんでもできるんだっていう。でも、いざ出てくるとやることがありませんでしたね。やってたことっていったら麻雀とパチンコぐらいですか。
──都会幻想はなかったわけですね。でも大学四年間っていうのは、何もしなくていい期間ともいえるわけで、楽しいんじゃないですか。
山野 そうなんですよ。僕にとっていちばんいい状態っていうのは要するに、労働とかから解放されてる状態のことでしたから。だから、大学に入ってモラトリアムを手に入れたら、もう永久に自由になったような感じがしました。就職とかっていう現実感はまったく無かった。
──三年とかになって周囲が就職のことを話しだしたりしても影響されませんでしたか。
山野 それは影響されない。自分が働いている姿なんて想像できなかったですから。もちろんアルバイトはやりましたけど。
──親とかも何もいわないんですか。
山野 親は散々いいましたけどね。でも、帰省も全然してなかったし、電話も引いてなかったし……大学生活も後半になると明らかにまずい状態になってるのに、不安感が全然ないんです。
──労働したくないっていうのは結構当たり前の感覚だと思いますけどね。でも、漫画を描くことだって、それで生活するようになればレッキとした労働ですよね。漫画とその他の労働では、どこが違うんですか。
山野 人と会わなくてすむってことですね。とにかくこう、人間関係がすごいプレッシャーになるんですよ。対人恐怖症とまではいかなくてもこれから八時間なら八時間、この人と一緒にこの部屋にいなくちゃいけないと思うと、すごいプレッシャーになるんですよ。
──じゃあ、もうあたまっからサラリーマンはないと思ってたんですね。
山野 ええ。大学二年か三年の時に神の啓示を受けたんです。それから安心感が出たんですね。
──それは部屋で?
山野 部屋じゃなくて、東京駅の八重洲口だったんですけど。
──それは、「サラリーマンにならなくてもいいんだよ」っていう。
山野 ならなくていいという啓示だったんです。
──どこの神様だったんですか。
山野 いや、わからない。なんだかわからないから神様といってますけど、頭の上から声がして、その途端に漠然と持っていた不安のようなものが消えたんです。アシッドはやってませんよ(笑)
──もやもやしてたものがはっきりしたんでしょうね。
山野 はっきりした。その時は漫画家とまではわからなかったんですけど、部屋にずっと籠もって、何かを書く仕事になるっていうビジョンまで見えたんです。
感性の孤独
──絵っていつ頃から描きはじめたんですか、漫画形式で。
山野 大学三から四年にかけてぐらいですね。美術クラブに入っていて、そこで作っていた漫画誌に描きはじめて。
──独学ですか。
山野 デッサンの勉強をしたり、先輩に指導されたりっていうのはなかったですから、そういうのを独学っていえばそうですね。
──漫画っていうのはコマ割りとか構成とか考えなくちゃいけないし感性だけで描きなぐるのは難しいと思うんですけど、誰かに影響されたっていうのはありますか。
山野 自分では自覚がないですね。蛭子(能収)さんの漫画は高校の時に読んで非常にショックを受けましたけど、特に明確に影響を受けたっていうのはわからないですね。
──蛭子さんのぶっ飛んでいた頃の作品ですね。最近の漫画家で好きな人とかいますか。
山野 最近の人では花くまゆうさくさんですね。
──彼は東京の下町のほうの土着の感性がすごくよく出ていていいですよね。
山野 初めて見た時から団地の匂いがぷんぷんと感じられて。絵も好きですし。
──それにしても、山野さんの漫画を読んでてよく感じるのは、なんでこんなこと思いつくのかなってことなんです。たとえば、劣悪な居住空間にイラついてる貧乏な一家が穴掘ってって広々とした下水道に住む話とか。例を挙げていったらキリがないですけど、どうしていつもリアリティがあるくせに突飛なアイデアを思いつくんでしょう。
山野 それはわかんないですね。
──思いつこうと努力しているんですか。
山野 それはないですね。ただ、とことん抑圧されている人たちの姿を想像すれば……。
──でも、山野さんはそこまで抑圧されていないですよね。先程からの話の中でも特に抑圧された環境に育ってきてるという感じではなかったですし、貧乏でもないし。
山野 どうしてなんでしょうね。
──あと、飛んでるアイデアにプラスして生活臭のある、ブルーカラーに対する愛情ある描き込み。情けない主人公が定食屋でラーメンを頼むと、必ず醜悪なウェイトレスが出てきて、しかもどんぶりに指突っ込んでますからね。手抜きがないですよね。
山野 それは、その主人公が食いに行く店が汚いラーメン屋でなくてはならないからなんですよ。こぎれいな兄ちゃんが白い帽子かぶって作るラーメンではどうしてもだめなんです。
──勝手に描いてるようでいて緻密ですしね。気分だけで描いてる漫画っていうのは、どんなに発想が素晴らしくても読んでてちょっと疲れますけど、山野さんの作品は飛んでるくせに妙にリアリティがあって、すんなり物語の世界に入っていけるんですよね。そういう点では統一性がとれてますよね。
山野 僕にとって漫画を描くってことは、鼻をかんだりクソしたりせんずりこくのと一緒なんですよ。なんかを出してる、出さないと心のバランスが保てない。だからもし統一性がとれているとすれば、そういうものを吐き出していないと平常でいられないってことなんでしょうね。たぶん自分の中に同化できないようなものを出しちゃってるんだと思います。それが不満というものなんでしょうね。以前根本(敬)さんも同じようなことを言ってましたけど。
──なるほど、ということは、山野さんと同じ種類の不満を持っている人が読者になるという傾向はあるんでしょうね。やっぱり、普通の人が読むには少々ヘビィですからね。例えば僕の場合、子供の頃に誰にも理解されないっていう心理に陥ったことがあって。クラスメートも教師も、誰もが自分の言葉を理解してくれなくて、終いには周囲のみんながバカに見えて孤独だったんです。今から思えば自我に溺れた傲慢な心理だったんでしょうけど、それでノイローゼになりましたからね。
山野 その気持ちはすご〜くよくわかります。僕もそんなふうに考えたこと、ありました。小学校の頃、歩いて通学する道すがら、世界っていうのは自分の夢なんだと、ずっとそんなことばかり考えていたんですよ。それで、周囲の人と話しても、誰も僕の言葉を全く理解してくれなくて、みんなバカでこいつらとコミニュケーションしてもしょうがないと思いましたよ。自分の親にもそう思いましたね。
──あ、それは同じですね。でも、そこでよくヒステリーにならなかったですね。
山野 何を言っても通じない人間には話しかけても無駄だし、世の中の人すべてがそうなら、もう内側に籠もるしかないじゃないですか。
──それは大人の考え方ですね。僕はそこで、精神の孤独に耐えられずにヒステリーを起こしたんですよ。「わかってくれよ!」って。
山野 僕も何度かそういう気持ちを訴えたことはありましたけど、結局誤解が誤解を生むだけでますます状況が悪くなるだけですからね。例えば親と話してても、向こうの言うことは良くわかるんだけど、こっちの言うことは全然通じないんですよ。こっちの不満はほんの少しも理解してくれない。だからもう、拒絶するしかないんですよ。
──でも山野さんの作品は、全く世の中を拒絶しているわけではありませんよね。確かにマイノリティの感性は顕在してますが、それでもどこか生への愛着が感じられる。ニヒルではあるけど破滅的ではない。だから、飛んでるんだけど、決して理解不能なところまでぶっ飛んではいない。
山野 やっぱり、これで食ってるわけですから、普通の人のことを考えるんですよ。それで、普通の人が読んでわかる日本語で書いて、普通の人が見てわかる絵で描こうというのは最低考えますね。そうやってなんとか、社会の末端のほうで生きさせてもらってるんです。
(聞き手・構成/吉永嘉明)
文責●東京公司
『危ない1号』第2巻(1996年)所収
山野 一(やまのはじめ)
●1961年福岡県生まれ。立教大学卒。身長183cm、体重62kg。愛読書は『シャコタン・ブギ』。好きな音楽はテクノ。大学四年時に持ち込みを経て『ガロ』でデビュー。以後各種エロ本等に漫画を執筆。
「あの作風で食べていけるの?」という疑問を持つ人も多いみたいだが、完全に漫画だけで生計を立てているプロフェッショナル。最近は本来の作風を連載してくれる雑誌がないにも関わらず妙に忙しいという。(1996年当時) |
|
山野一ロングインタビュー前編
貧乏人の悲惨な生活を描かせたら右に出る者なし! 山野一の描く漫画の世界は、実に悲惨だ。その世界では人々は例外なく強欲でどうしようもなく愚かである。時として好感の持てる人物が登場することもあるが、そういった人には情け容赦なく怒濤の不幸が押し寄せる。ああ、なんて夢も希望もないんだ ! でもこの世界、なんかどこかに似ていやしないか。
「世の中バカが多くて疲れません?」
放映中止になったあのCMに共感を覚えた人に絶対オススメの漫画家だ。
福崗で生まれた山野一は、二歳から中学二年の途中までを三重県の四日市市で、中二〜高校卒業までを千葉で過ごした。大学で上京してからは、東京に在住している。喘息の街からヤンキーの世界へ、そしてセントポール・キャンパスという生活環境のどこで、あのニヒルでユーモラスで奥深い感性が育まれたのだろう。
──四日市市と言えば、工場の街というか、排煙が原因の喘息が問題になった街ですよね。本当に喘息の人が多かったんですか。
山野 えーと、うちの母も喘息でした。
──それは、そこに引っ越ししてからなったんですか。
山野 すぐになりましたね。 ──じゃあ、本当にそこに住むと喘息になるような環境だったんですね。
山野 ええ。喘息になる街なんです。
──でも、山野さんは喘息ではないですよね。
山野 僕は喘息ではなかったですけど、気管支炎でした。咳が止まらなかったみたいな。 ──学校中の子供がみんなそうなんですか。
山野 (喘息が)出ない子もいましたけど、出てる子が多かったですね。特に僕が最初に住んでいたところは非常に工場に近かったので、学校の窓ガラスも二重になっていて空気清浄機がついてました。幼稚園に行く頃に郊外、要するに東京の近郊にあるような山を切り開いて造成したような団地に移ってからは若干マシになりましたけど。それでも夏場は目が痛かったですね。
──四日市市というのは、愛知県の豊田市のような企業城下町なんですか。
山野 企業といえばほとんど◆◆◆とその下請けです。石油からプラスティックの原料を作るコンビナートの街ですね。
──じゃあ 、 工場に近ければ近いほど、もうわかりやすいように喘息になる確率が高くなる。
山野 そうですね。煙突が巨大だから真下はいくらか良かったかもしれないですね。
──なんかそれって、もうその街に住んだら喉悪くするわけじゃないですか、ほとんど。それでも住むんですか、みんな。
山野 ウチはまあ、その公害の原因をつくっている会社に勤めてましたんで加害者兼被害者でしたから。
──でも、その会社に何の関係もない土着の人達がたくさんいるわけですよね。単なる被害者の人達。
山野 だから、引っ越したくて引っ越せる人はいいんだろうけど、そうもいかないですから。それに元々何も産業のない田舎の宿場町だったところで、国家的にコンビナートをつくろう、っていう計画が出てきたことによって労働力が集まってきて、街興しになったという経緯がありましたから......公害に関しても、恐らくはしりのほうだから、当初はそんな深刻に考えてなかったんじゃないでしょうかねぇ。
──お父さんがその企業に勤めていたということですが、土着の人と企業の人、つまり公害問題で対立関係にある両者の間に挟まれて子供同士で妙な感情的わだかまりみたいなのはなかったんですか。
山野 そういうのはあまり感じなかったですね。僕が通っていた小学校の担任とかもひどい喘息持ちで、先頭をきって反対運動に加わっていましたけど、企業の子供を差別っていうのは無かったと思います。少なくとも露骨には。
まあ、嫌な気分ではいたんでしょうけどね。特にウチの親父なんか環境課っていうところにいて、反対運動の人たちが交渉に来たときに適当なことを言う、にこにこしながらお茶を濁す役目でしたから。
──窓口というか、矢面に立たされていたわけですね。そういう大人たちのややこしい関係は、子供心に影響を与えなかったんでしょうか。
山野 子供の頃はバカだから、大人はみんな工場に行って働いて、工場っていうのは◆◆◆で……そんな印象しかなかったですね。ほんとガキの頃は、海っていうのはタールが浮かんでいるもので、海岸っていうのは工場があるもんで、山ってのはつぶして団地になるもんでって、そういうもんだと思っていました、世界中が。
──やっぱり、うちっていうと団地っていう印象も。
山野 そう。うちっていうと団地。社宅に住んでたんですけど、それが団地だったんですよ。で、馬鹿馬鹿しい話なんですけど、非常ベルがあるんです。工場で何か大事があると団地に非常ベルが鳴り響くんです。まるで炭鉱の街。
──大手企業だし社宅だと周りが全員同じ会社の人でしょうから、貧乏感はないわけですよね。
山野 ええ。ありません。
──四日市市自体も特に貧しい地方というわけじゃないですよね。
山野 ええ。だから、特徴といえばコンビナートだけの地方都市という感じじゃないですか。文化も何もないですよ。寄せ集めの労働者の街ですから。
今はきっと立派になってるだろうから怒られちゃうかもしれないですけどこんなこというと。中学以来一度も行ってないんですよ。
──どうも四日市のイメージからは作品の世界が彷彿としてきませんね。確かにビジュアル的には、工場の煙突と団地っていうのがかなり目立ちますけど……。当時はどんなことに夢中になってましたか。
山野 普通の公立学校に通って、特に目立たず、何もしてなかったですね。
──ハマったものがなかったとしても、何か娯楽はなかったんですか。繁華街でブイブイいわすとか。
山野 それがないんですよ。不良でもないし、インテリでもないし、読書家でもないし、スポーツもしない、本当に特徴のない子でしたね。
──そうはいっても、何か印象に残っていることがありませんか。今から思い起こして郷愁を感じる部分とか。
山野 だからあの、言ってみれば四日市ってのは無機的な荒廃なんですよ。その荒廃の中で、何もせずぼうっと暮らしていたんです。あえて無理に言えば、何もないっていうのが当時の印象ですね。だから、育ったところに対して郷愁なんて何もないですよ。
──でも、さっきから伺っている四日市のイメージは東京しか知らない僕にはかなりシュールな印象なんですけど。
山野 東京と比較すると確かにシュールな世界です。小学校に通うようになって日本のこととか色々教わるようになるまでは、工場とタールの浮かんでいる海と、毎日毎日色の変わる川と団地だけ、そんな風景が何キロメートルおきにずうっと続いている……それが世界だと思ってましたからねぇ。僕は気管支炎だったんで、工場がやっている診療所に通っていたんですけど、それが巨大な煙突の真下にあったんですよ。その巨大な煙突で雲を製造してるんだと思ってました。
──なかなかファンタジックな話ですね。
山野 美しい話でしょ。巨大な煙突の上に飛行機がぶつからないように赤いランプが点滅していたのが印象に残ってますね。あと、工場の音。『イレイザーヘッド』のあれどこでしたっけ。工場街みたいなとこ出てるじゃないですか。暗い夜道を主人公が歩いてて、足がちょっと水たまりにはまったりして、あそこでコンビナートの音が流れているんですよバックに。あのシーンを見ると四日市にいた時の感覚が戻りますね。近くに巨大な鉄の建造物があるっていう感覚が。
──ああ、なるほど。僕なんかはああいうシーンを見るとシュールで奇妙な世界にハマっていくわけなんですが、山野さんの場合、非常に現実感のあるシーンなわけですね。
山野 そう。だから今思えば、シュールなんて自覚しないままにああいう世界の中で生きてきたんだと思うんです。ああいう荒廃したような感じのね。それが中学二年の時に千葉に移って、いきなりバカの真っ只中の世界に来てショックを受けたっていう。
──荒廃からバカへ(笑)
ヤンキー文化にまみれて
山野 そう。荒廃からバカへ。どちらも荒廃してるんですけど、荒廃の質が違うんですよ。不良の世界ですよね、アレ(=千葉)は。
──千葉はヤンキーが多いみたいですね。
山野 ヤンキーの世界ですよね。
──ヤンキーってやっぱりバカですか。
山野 ええ。バカですね。呆れましたね。ボンタン・長ランを初めて見た時には強いショックを受けました。風にたなびかせてるじゃないですか、旗のように。何をやっているんだろうこの人たちは、と思いましたね。
──ああ、自分自身の中にそういうセンスがないとそうでしょうね。
山野 四日市にはボンタン・長ラン文化は無かったもので。それで、バカな世界があるんだなぁって思って。ほとんど不良なんですよ、若者は。
──荒廃の世界では何もせず過ごしてたということでしたが不良の世界には馴染めましたか。
山野 馴染んだという感じじゃなかったですけど、いじめられるというようなことはなかったですね。中学の時ですけど不良が夜中に遊びに来るんですよ、車で。二階の窓に石投げて何かなと思って外を見るとセドリックが止まってて友達が乗ってるんですよ。それで、ドライブいこうぜって。
──免許もないくせに(笑)
山野 ドライブいって、ダッシュボードとか開けてみるじゃないですか。そうするとなんか写真がいっぱいあって、全然知らない人が写ってるんです。それで「ひょっとしてこれ ?」って聞くと盗難車なんです。ガソリンがなくなるまで乗って捨てちゃうんですよ。そういうバカな世界でびっくりしました。
──でもちょっとだけ楽しそうじゃないですか。
山野 そうですね。僕も車とかバイクとかは好きでしたからね。
──作品の中でも車やバイクは中々丁寧に描き込んでありますもんね。じゃあ、そういうバカな世界が嫌いなばかりでもないですね。一応洗礼は受けている。
山野 そうなんです。さすがにボンタン履くほどにはなりきれなかったですけど、 毎日毎日、頭がこんなにあるような(※リーゼントのこと)やつと話してりゃやっぱり影響を受けますよ。受けないでいるほうが無理ですから、あのバカな世界では。だから影響は受けているんです。いまだにね、『シャコタン · ブギ』とか好きですしね。バカの名残がきちんと残ってます。
──慣れてしまえば結構楽なんじゃないですか、ヤンキー・カルチャーっていうのは。みんなちょっとバカかもしれないけど、まっすぐな人たちっていうか、素直じゃないですか。
山野 だから、あれは浪花節の世界ですよ。友情とか親とか大事にしますし。シンナーで目が血走ってるようなやつでも親父が倒れたらそっこうで病院に駆けつけますからね。
──軽犯罪は平気で犯しても、人には優しいっていうか。
山野 そうなんですよ。バイクで事故って死んだ友達の一周忌とかにみんなで集まったりとかね。義理堅いんです。
──そういうバカの世界で、適当に距離を置いて友達付き合いをしていたわけですね。でも、高校はたぶんバカじゃないですよね。
山野 高校はその地区ではいちばんの進学校でした。だからヤンキーはいませんでした。でも、高校に入っても、本当に合う人というのは一人もいませんでしたね。
──バカもダメ、秀才もダメ?
山野 なんていうんですかね。
大学になって初めて人間の世界に出てきたっていう印象でしたね。だから、もっといい家庭に生まれてね、もっといい友達と一緒にいればもうちょっとお利口な人間になったんじゃないかと思いますけどね。 (聞き手・構成/吉永嘉明)
文責●東京公司
『危ない1号』第2巻(1996年)所収
山野 一(やまのはじめ)
●1961年福岡県生まれ。立教大学卒。身長183cm、体重62kg。愛読書は『シャコタン・ブギ』。好きな音楽はテクノ。大学四年時に持ち込みを経て『ガロ』でデビュー。以後各種エロ本等に漫画を執筆。
「あの作風で食べていけるの?」という疑問を持つ人も多いみたいだが、完全に漫画だけで生計を立てているプロフェッショナル。最近は本来の作風を連載してくれる雑誌がないにも関わらず妙に忙しいという。(1996年当時) |


