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黒川創「ねこぢるって誰?」
初出▶青林堂『ガロ』1995年10月号

先日、スーパーの文房具売り場をうろついていたら、「カブトムシのセット」が売られていた。直方体のプラスチックケースに、おがくずが敷かれ、なかにカブトムシが雌雄1匹ずつ入っている。たしかに「セット」には違いないが、シャープペンシルやノートと同じ棚に、カブトムシが文具として売られているというのはなんか変なかんじだ。

ねこぢるの「ねこ」も、このカブトムシに似ている。作者は、生身の「ねこ」なんかぜんぜん可愛がっていないし、たぶん、ペットショップとさえ、ほとんど縁がないだろう。むしろ、ねこぢるの「ねこ」には、西友かダイエーの文房具売り場あたりが、お似合いのではないだろうか。

スーパーで760円プラス消費税3%でカブトムシを買ってきて、夏休みのあいだ何かエサをやって最後にぶちぶちと六本節足をちぎっていく。そういう感触が、ねこぢるのマンガにもある。つまり、この人は、学校のウサギ小屋のウサギたちを血まみれになるまでたたきつけたり、プールに投げ入れてしまう少年・少女たちの白昼夢のような心情を、いまも共有しているのだろう。

ところで、私は、この作者・ねこぢると、何度か会ったことがあるのだが、あれが「ねこぢる」の正体であったかどうか、実はいまもってはっきりしない。何度か会ったとき、「ねこぢる」は20歳代なかばの小柄な可愛らしい女の子の皮をかぶっており、バーボンを好み、酔っぱらって、私はそのダンナと称する人物と、”彼女“を左右からぶらぶらとぶら下げて駅まで左右からぶらぶら運んだこともあるのだが、それがホンモノの「ねこぢる」であったかどうか、どうも明瞭ではないのである。

作品についてはすでに『ねこぢるうどん』第1巻の「解説」に書いたので、このことについて記しておく。

私に、ねこぢるとのご縁が生じたのは、たしか四年ほど前のことだ。ある業界紙にコラムを連載する機会があり、そこに毎回つけるイラストの描き手を探そうということになって、私は『ガロ』に「ねこぢるうどん」なるものを掲載していた未知のマンガ家を、担当編集者に推薦したのである。

担当編集者は、そのマンガを見て「わかりました」と私に言った。でも、彼は本心では、あまり「わかり」たくはなかったらしい。なぜなら、そのあと、担当編集者はすぐにねこぢるに電話を入れ仕事の件を依頼して、加えて「あなた、ねこしか描けないわけじゃないんでしょうね?」とかイヤミなことを言ったらしいのだ。

私には、担当編集者の不安がわかる。なぜなら、コラムの掲載は週二回、さまざまな雑多な話題を取りあげてのものであるにもかかわらず、かんじんのイラストレーターの作品は「ねこぢるうどん」しか見られていない。

そこでいきなり「ねこしか描けないわけじゃないんでしょうね?」発言となるわけだが、そんなことおまえに言われる筋合いはねえよ、と思うのが、描き手の当然の気持ちだろう。元はと言えば、私が悪いのだ。

そんなわけで、担当者との打ち合わせの時間、所定の場所に、ねこぢるは現われなかったらしい。ただし、やや遅れて男の「ねこぢる」を名乗る人物がやってきた。それが山野一で、彼はこれまでのイラスト作品をささっと要領よく見せて、「じゃ、そういうことで」と、この連載の仕事を決めてしまった。──というような経過をたどって、私はそれから1年、山野一のイラストと組んで、無事その連載の仕事を終えることができたのだった。

ということは、このとき、山野一は、サギまがいの仕事の交渉をしたのだろうか?そんなことはないわけで、実はこの山野一、例の「ねこぢる」らしき女の子の夫で、その仕事のストーリー作り補助、ペン入れ下働き、スクリーントーン貼りつけ係、および渉外担当のような受け持ちをしてきたらしい。つまり、「ねこぢる」というのは個人名というより一種の屋号で、その「ねこぢる」の成分には10%か20%、“山野一“が配合されているのだと考えられなくもない。それはそれでいいでも、だとすれば、あの「ねこぢる」の主成分らしき女の子、あの女性だけを呼ぶときには何と呼べばいいのかという、最初の問題に戻ってきてしまうわけである。

私は、あの女性と何度か食事をしたし、お酒も飲んだ。私は、そんなとき、彼女のことを「ねこぢる」もしくは「ねこさん」と呼ぶ。でも、どうもその「ねこぢる」という言葉には、20%ぐらい山野一が含まれているようで、落ち着かない。いったい、目の前の彼女、この本体が、それ自身だけの名前をもっているのかどうか、私は彼女だけを呼ぶことができるのかどうか、不安になってくるのだ。

私は、ひどいときには酔っぱらって、彼女の家に泊めてもらったこともある(もちろん、そのときには、20%の”山野一”成分付き)。そんな夜には、20%の山野一成分は、80%の主成分に向かって、なにか別の名前で呼びかけて良たのだが、どうも、その呼称がいつまでたっても私には覚えられないのだ。

というわけで、いまも彼女は私にとって「ねこぢる」である。
それでいいのだ。でも、私が彼女のことを「ねこぢる」と呼ぶたび、自分の頭のうしろのほうでは(......ただし、20%の山野一成分抜きの)と、落ち着きのないささやきが聞こえる。 ちょっとイライラする。いったい、彼女は誰なのだろう

『月刊漫画ガロ』1995年10月号所収
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黒川創「夢の不穏」
初出▶青林堂『ガロ』1992年6月号
収録▶青林堂版『ねこぢるうどん』第1巻

小さい頃、熱を出すと、必ず決まった夢を見た。それは家のすみっこから、クロンボ の人形のようなものが、ぴょこぴょこと現われてくるようなもので、それが夢か現実 なのかさえ、はっきりしない。

だが私は、彼と出会うことによって、自分がすでに熱を出していることを、感じるのだ。幼い頃の夢は、不穏な力を持っている。高い鉄橋のような場所から、落下しつづける夢も、よく見た。

近所のある寿司屋の前からタクシーに乗ると、運転手がピノキオだったという三歳の時の夢も、覚えている(私はピノキオとかピエロとかが恐かった)。
そして、昼間でも、家のすみっこの暗がりからクロンボの”彼” やピノキオが現われるのではないかというおびえは、小学校に入り、その家から引っ越すまで続いた。

ねこぢるの作品の不穏さは、そんな夢の感触に似ているように私は思う。まあ、そうした感触は、いまも多少、私の中に残ってはいる。

本を読みながら、ごく短い眠りに落ちていることがある。そんな時、眠りの中で、ストーリーは条理の枠組みから抜け落ちて奇妙きてれつな形にふくれあがる。

原稿を書きながら(というか、うまく書きすすめられないで筆が止まっているあいだに)、眠りに落ちることもある。すると、夢の中で、思考は舵を失ったように勝手気ままな増殖をはじめ、やがて正気(?)を取り戻した私は、その夢の続きを原稿に記録するような具合いになるのだ。

オーストラリアの先住民アボリジニは、夢と現実とのあいだに特に区別を立てないのだという。ヴィム ・ヴェンダースの映画作品「夢の涯てまでも」も、そうしたアボリジニの感覚を、下敷としている。そこでは、夢を乱開発し、喰いつぶしていく者は、やがてその夢のほうから、逆に喰いつぶされることになる。

”夢”と”現実”とは、ひとつの世界として地続きで、人はいつのまにか”現実”から”夢”の中へと踏み出していってしまうのだ。
ヴェンダースはハイヴィジョンなどのテクノロジーを動員して、その”夢”のディテールを細緻に描きだすことをめざした(ただし、その試みは必ずしも成功していない)。

それと反対に、ねこぢるの場合は、極端に幼稚なポーズを通して、同様の世界に手を差しだしているように見えるのが私には面白い。だが、いっけんラフに感じるねこぢるの絵も、けっして、いわゆる”へたうま”ではない。

大胆で視覚的な構図、書き文字の図像化、そして、スクリーントーンの凝った使い方なども含めて1コマ1コマにたっぷりとニュアンスを持たせようとする点は、彼女独自の持ち味だろう(方法論としては根本敬の正反対だ)。まあ、アヴァンギャルドに通じる道は、いろいろとあるわけである。

夢の中では、ニンゲンの底に眠る”加虐性”とか”悪意”とか、もろもろのものが渦巻いている。だから、われわれは自分の夢のおぞましさにうんざりもするし、しばしば、それにそっと蓋をする。
それは、それでいい。しかし、時おり、ねこぢるみたいな臆面のない漫画家が現れて、ぬけぬけと、その夢の蓋をあばいていってしまうわけである。まあそういう場合に限ってニンゲンにとっての快楽のツボも、一緒に眠っていることは事実なのだ。

『ねこぢるうどん』の背景に描き込まれている風景は、見たところ、一九六○年代か、せいぜい七○年代初頭という感じである。その点、いっけん『ちびまる子ちゃん』とか『となりのトトロ』といった“懐かしモノ”に通じるところが、ないわけではない。だが、『ねこぢるうどん』には、それら、懐かしモノに共有される何かが、決定的に欠けている。

欠けているもの──それは、たぶん、いったん大人に成長した者が過去を振り返るという、秩序立った視線だろう。安定したノスタルジックな視線──そうした視線の中では誰も、小猫のキンタマをえぐり出したり、ボケ老人をいたぶったりはしない。だが、幼い頃からの夢の形を引きずってしまっている者たちは実は、いまもどこかで、そうした無体な殺生を繰り返しているものなのだ。

ちょっと耳にはさんだところでは、ねこぢるの正体は、二四歳ぐらいの女性らしい。だとすれば、『ねこぢるうどん』の街の風景は、実体験にもとづくものというより、いわば、彼女の既視感の中に浮かんでいる風景なのかもしれない。いずれにせよ、このような風景を、平然と脳髄の中に浮かべている不穏さに、私は好感を抱いている。

初出『月刊漫画ガロ』1992年6月号
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再録『ねこぢるうどん⑴』青林堂版
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