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先ほど、一通り書き終えましたので、途中までしか読んでおられない方は、できればもう1度、お読みください。ご案内まで・・・
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こんにちは、ゲストさん
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大学生活後半・未来の妻と知り合う
大学生活も3年目に入ると、僕たちは、卒業論文のテーマを探し、指導教官を誰にするかを考え始めなければならなかった。(就職活動は、まだ過熱化していなかったし、僕は、どの道、大学院に進もうと決めていた。)講義も、次第に専門的なものが多くなり、幾らか面白くなってきた。また、週に2コマだけであったが、フランス語の講義が開始された。フランス語の先生は、これまた若い女性だったけれど、第二外国語とあってか、ごく普通に、淡々と教えてくれただけだった。
この3年時に、僕は、自分の将来を左右する、2つの重要な出来事に遭遇することとなる。そして、その2つは、同時に起こったのである。
3年時になると、「古楽器演習」という授業が始まった。ルネサンス時代やバロック時代の古い楽器を習得し、合奏することを目的とした演習である。「雅楽演習」を選ぶこともできたが、僕は、古楽器の方を選んだ。この授業には、他の専攻の学生も参加することができた。僕の未来の妻はピアノ科に所属していたのだが、物好きにも、この授業を選択し、僕と一緒の教室で学ぶこととなった。
最初の授業の時、集まった学生の数に見合うだけの椅子がなかった。そこで僕は、他の教室に椅子を取りに行ったのだが、ある女子学生が、僕と一緒について来てくれた。何だか嬉しそうな、照れたような様子をしていたことを覚えている。そこで言葉を交わしたのが、彼女と交際するきっかけとなった。彼女は、1学年先輩であった。
「古楽器演習」の授業で度々、顔を合わせるうちに、次第に親しくなり、大学の傍の喫茶店で、よく話をした。女性と話したことが、ほとんどなかった僕も、彼女が僕に好意を持ってくれていることが分かっていたので、余裕を持って話すことができた。やがて、デートもするようになった。要するに僕は、今言うところの「草食系男子」の草分け的存在だったのである。
僕は、まだ恋愛というものを知らなかった。彼女に対する好意と喜ばしい気持ちで、心がほくほくしていたに過ぎない。当然、あちこちに出かけ、共に楽しい時を過ごすだけで満足だった。彼女は、背が低く(153センチしかなかった)、特に美人と言うわけではなかったけれど、話していて、頭の良さは、直ぐに理解できた。はきはきした、しっかりした人だという印象を受けた。当時は、やや色白の、若々しい肌をしていた。
だが、学業の方に話しを戻そう。3年次になると、2年次で始まった音楽史の講義は、バロック時代に入った。バロック音楽というと、シュッツやバッハに代表されるドイツのバロック音楽と、コレッリやヴィヴァルディ等、多くの国際的音楽家を擁するイタリアのバロック音楽が有名だが、僕は、その講義で紹介された、フランスのバロック音楽(フランス人自身は、「フランス古典音楽」と呼ぶのを好んだ)に強く惹かれた。
当時、フランスのバロック音楽は、ごく一部の人にしか愛好されておらず、普通の学生は、リュリ、ラモー、クープランの名と、少数の実作品を聴いたことがあるに過ぎなかった。重々しいドイツのバロック音楽や、輝かしく、生き生きとした、しかし、やや大味のイタリア・バロック音楽と較べると、フランスの音楽は、まったく趣を異にしていた。
カトリック教会で演奏された宗教音楽、ルイ14世が君臨するヴェルサイユ宮殿を中心にして展開された宮廷音楽、貴族たちの館で演奏されていた器楽作品、室内声楽作品であるカンタータ(カンタート)、クラヴサン(チェンバロ)曲など。僕は、その華麗さ、繊細さ、優しさ、品位、独特の節回しやリズムに、すっかり陶然としてしまったのである。田舎者が、宮廷や貴族の優美な音楽に魅了されるというのは、分かりやすい図式であるかもしれない。
音楽史のその部分を担当していたのは、N教授であった。彼は、フランス音楽の熱心な愛好者だったが、残念なことに、研究者としては二流で、教育についても手抜きが多かった。それでも、僕は、何人かの学生と共に、土浦にあったN先生の家を、2度、訪問したことがある。趣味人的な先生は、饒舌にフランス音楽について語ってくれ、いろいろな音楽を聴かせたり、楽器を見せてくれたりした。
いよいよ3年次の末、指導教官を選ばねばならなくなった時、僕は、いわば仕方なく、N先生を選んだ。しかし、それは、やはり失敗であった。4年時の卒論指導の時間に、彼は、ほとんど教室に来なかった。そのため、僕は、必然的に、論文の書き方から、研究対象、研究方法まで、すべて自分で模索しながら書くしかなかったのである。不安であったが、やるしかなかった。
その結果、僕は、「ラモーの『和声の生成』の研究-翻訳と注解」という大部の、しかし、中身はスカスカの論文らしきものを、1年間かけて、どうにかでっち上げたのだった。彼女(Yさん)は、その清書をしてくれた。
フランス音楽を研究するには、当然、フランス語ができなくてはならない。僕は、大学時代に、かなりのドイツ語力を身に付けていた。だが、フランス語は始めたばかり。そこで、飯田橋の日仏学院に通って学ぶことにした。論文を書いている頃には、フランス語は、まだ初級が終わった程度の力しかなかった。まことに無謀なことをしたものである。
論文作成と同時に、大学院の受験準備をもせねばならなかったのだが、こちらの方は、疎かにならざるを得なかった。N教授も、適切なアドヴァイスをくれなかった。だが、大学院の受験については、また、未来の妻との交際の進展についても、稿を改めて述べることにしよう。
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大学生活の始まり・第二の恩師を得る
僕の大学選定は、消極的な理由で、結局はM音楽大学に落ち着いた。K音楽大学という選択肢もあり、S先生も、K音大の先生を紹介してやろうと言って下さったのだが、既についていたピアノの先生も、英語の先生も、M音大の教員であったので、僕は、そのままM音大を受験することになった。音楽学の勉強に関しては、K音大の方が優れた教授陣を擁しているということは、かねてより知ってはいたのだが、いわば手遅れといった形でM音大を選んだのである。
受験でもっとも心配だったのは、やはりピアノの試験だった。僕は、先生と相談して、無理にベートーヴェンのソナタを弾くよりも、モーツァルトのソナタを完璧に弾くことにした。受験を終えて、家に帰った僕は、高校受験の時と同様、またしても「落ちたに違いない」と、ただ呆然としていた。例の悲観主義に捉われてしまったのである。合格発表を見に行くのは止めよう、とさえ思ったほどだった。
しかし、発表を見に行かないわけには行かない。「ダメで元々」と自らを慰めながら、大学まで重い脚を引きずって行った。だが、幸いにも、僕は合格していた。ピアノと英語の先生についていたのだから、受験の時の成績は、「筒抜け状態」で、僕に知らされた。ピアノ(副科ピアノ)は、中の上程度の成績だったが、英語の方は、何と前受験生中トップだったという。所詮は、音大の英語の試験に過ぎなかったのだが・・・・・
当時の音楽大学の入学金や授業料は、決して安くはなかった。それに加えて、大学賛助金という「曲者」があった。これは、必ずしも義務ではなく、卒業時に返還されるという建て前であったが、現実には、ほとんど戻って来ないという噂だった。この賛助金は、入学式(親の同伴が求められていた)の時に、親が支払うよう仕組まれていたのだが、僕の両親は、混雑に紛れて、その徴収場所を突破し、払うことなく済ませてしまった。
入学式から、オリエンテーション、そして、講義の開始。音大だけあって、一般教養の講義は、おざなりだったし、倫理学を除いては、まったく面白くなかった。専門の講義も、少なくとも1、2年次は、期待を裏切るようなものでしかなかった。やはり、一般大学の歴史学科か哲学科(美学美術史専攻)に入った方が良かったかもしれないと、後悔したほどである。
「音楽学学科」の同級生は、計7名。男子4名と女子3名だった。こんな少人数であるから、直ぐに親しくなった。男子のうちの1人は、秋田出身の自由気儘なタイプで、講義には必要最小限しか出席せず、卒業できればよいといった風だった。もう1人は、あまり自己主張せず、目立たない学生だった。僕は、大阪出身のK君と、特に親しくしていた。彼もまた、風来坊的なところがあったが、勉強もし、実直な性格が好ましく思われた。
大学全体が音楽に包まれている感じで、とりわけピアノ科の女子学生には、如何にも両家の子女らしき美人が多かった。いきなり大勢の女子学生の中に放り込まれた僕は、ただドギマギし、何となく疎外感を覚えながら、それでも真面目に大学に通った。他学科の学生とは、ほとんど付き合わず、7人は、まとまって行動していた。
専門の先生方とは、特に親密に交流したことはない。ただ、ドイツから帰国したばかりの、まだ若いドイツ語の先生(女性)は、学生とフランクに話し合い、何よりも熱心に授業をしてくれた。音楽学の発祥の地はドイツであったから、その頃は、僕たちにとって、ドイツ語は非常に重要であったのだ。
英語は、既に学生は皆、できるものとして、講義にはなく、英語の原書購読に入った。いわば、第1外国語はドイツ語だったのである。ドイツ語だけは、特別に1コマ50分授業で、週8コマあった。僕は、熱心に教えて下さる先生に応えるつもりで、一生懸命にドイツ語を学んだ。
学生たちと親しくなると、その先生は、一緒に昼食を食べたり、更には、3、4名の学生を自宅に呼んで下さったりして、僕は、楽しい時間を過ごした。後には、このM先生の紹介で、僕を含む、この3、4人の学生は、あるドイツ人から、ドイツ語を学ぶようになった。M先生は、とりわけ僕を評価して下さり、期待をかけて下さった。僕にとって、M先生は、第二の恩師と言うべき存在だった。
大学の1、2年次、僕は、東京の北の外れに位置するK市の、あるお宅の2階に下宿していた。その2階には、3つの部屋があって、3人の音大生が暮らしていた。隣には声楽科の学生、一番向こうには、作曲科の学生が住んでいた。部屋は6畳一間。台所やトイレは共用で、風呂は、風呂屋さんに通わなくてはならない。ごくごく質素な下宿生活だったが、仕送りを受ける身としては、当然であろう。
その家の周囲は新興住宅地だったが、すぐ向こうには、「武蔵野」の面影を偲ばせる雑木林があった。また、少し行くと、畑が広がっていた。独りきりで詫び暮らしをしていた僕は、悶々とすると、散歩に出て、畑と住宅の入り混じった「東京の田舎」を彷徨ったものである。しみじみと孤独であった。どっぷりと感傷に浸っていた。
時々は、K君と一緒に都内に出て、映画を見たり、あちこちに行ったりしたが、東京という街は、まだよく分からなかった。華やかな大学、地味な勉強、そして下宿での孤独。これが、大学時代前半の、僕の生活だった。多くの知的な刺激は、主としてM先生から来るものだった。
大学にも2つの音楽ホールがあったが、演奏会は、主として新宿の厚生年金会館ホールか、上野の東京文化会館のホールに通っていた。東京にも、まだそう沢山の大ホールはなかった時代のことである。
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高校時代・幾つかのエピソード
単調な高校生活の中にあって、東京に行き、これまでとは程度の違う先生たちに教えを乞うというのは、確かに新鮮な体験だった。僕は、それまで、家族と共に東京へ旅行することはあったけれど、1人で東京に行ったことはなかったからだ。
特急電車で北千住駅まで行くのは簡単だが、それから当時の「国鉄」に乗り換え、更に京王線、中央線、西武池袋線に乗車して、各先生のお宅まで行くのは、最初は大変だった。殊にS先生のお宅は、荻窪駅からバスに乗らねばならなかった。
僕は、東京の地理と地名を、よく知らなかった。地元のO駅で、東京までの切符を初めて買おうとした時、「日暮里」という駅名が読めなくて焦った経験を、未だに覚えている。「ひぐれざと」???
東京通いにも慣れた、ある夏の日の朝(多分、夏休み中だった)、僕は、何となく怠さを感じながらも、強気で家を出て、東京へと向かった。しかし、体調は悪くなる一方である。ピアノの先生のレッスンを、どうにか終え、薬を飲ませて頂いて、今度は西武池袋線に乗って、英語の先生のお宅へ伺った。そこでも何とか我慢してレッスンを終え、帰路に就いた。
高校に入る頃には、僕は、かなり丈夫になってはいたのだが、時々、無理をして、寝込むことがあった。まだ、身体の状態は、完全ではなかったのだ。
その日の下り電車は、混んでいた。特急ではなく、準急(普通電車)に乗った。吊革につかまっていたのだが、明らかに熱が出てきたことを自覚した。頭が痛く、だんだんと朦朧としてきた。O駅までの、ほぼ中間地点であるK駅の手前で、僕は、終に立っていられなくなり、へたり込んでしまった。
誰かが、駅員さんに通報してくれたのだろう。K駅で、僕は降ろされ、駅の傍の医院に運ばれて、手当を受けた。苦しいばかりで、その前後のことは、ほとんど覚えていない。僕が持っていた学生証か何かで、我が家の電話番号を知った誰かが家に通報してくれ、その晩に、両親が小型車で、遥々、迎えに来てくれた。
狭い車内で毛布に包まった僕は、発熱と頭痛と吐き気で、非常に苦しい思いをしながら、ようやく家に着いた。(それも、定かには覚えていない。)その後、3日間ほど、僕は床の中で苦しみ続けた。熱射病(今で言う熱中症)だったのだ。
話は変わる。高校何年の時だったろうか・・・?一家は、古い藁屋根の家を取り壊し、安普請の「普通の2階屋」に建て替えをした。工事が終わるまで、確か、一家は物置きか納屋で暮らし、風呂は、近所の叔母さんの家にもらいに行っていた。だが、その時のことは、記憶から消え去ってしまった。
新しい家は、ごく平凡な作りで、僕は気に入らなかった。しかし、2階から見る景色は物珍しかった。当時、家の東側には、何軒かの家を隔てて、まだ田圃が広がっていた。叔母さんの家も、遠く、市内北の金山も、見晴るかすことができた。
暫くして、その母屋の東に、6畳の和室と6畳の洋室からなる張り出し部分が、更に付け加えられた。この和室は客間として、洋室は僕のピアノ部屋として建てられたものだった。こちらは少し手の込んだ、田舎なりに洒落た建物であった。僕は、優遇されていた。
高校時代には、近所のH君の家に遊びに行った他は、ほとんど孤独に過ごした。小学校時代、あれほど仲が良かった造り酒屋の次男坊とは、同じ高校に進みながら、行き来することはなくなった。(既に中学時代に、彼とは次第に疎遠になってしまっていた。)多分、彼と僕との性格や物事の考え方の違いが、ハッキリしてきたからだろう。
夏休みには、ただ独り、高校の社会科の宿題であった、大きな歴史地図を何枚も描いたり、かなり複雑な天体(星座)早見表を作ったりしていた。この表(道具)は、各日にち、時間に見える星座や月の満ち欠けを表すことのできる、なかなかの優れ物であった。シーンとした夏景色の中、新しい畳の上に大の字になって寝そべる心地よさ。そして、一抹の寂しさ。
高校の勉強は、社会科、国語、英語等、文化系の科目を除けば、興味が持てなくなった。理科系の科目で好きなのは、地学だけだった。その他の科目は、単位を落とさないよう、できればほどほどの成績を取りたいと思い、勉強したに過ぎない。それでも僕は、どうしたわけか、全校生の上位三分の一の中には残っていた。化学など、まったくちんぷんかんぷんだったのだが・・・・・
同級生とは必要な会話しかしなかった。比較的親しい、何人かの者はいたけれど。修学旅行?その行き先は、京都・奈良だった。僕は、できれは行きたくなかったのだが、仕方なく参加した。男ばかりの旅行は、楽しくないばかりか、猥雑な雰囲気さえ漂っていた。不健全な雰囲気が・・・・・
僕は、旅行へ行っても、お土産というものを買ったことがない。修学旅行では、各自、5000円の小遣いを持って行くことが許されていた。僕は、一銭も使わないつもりだったのだが、ふと入った京人形の店で見た、童女の人形が気に入った。それは、5200円くらいの値段だったと思う。僕は、級友にお金を借り、その人形1つを買って帰った。それは、まだ我が家にある。
3年間、女性とは完全に没交渉で過ごした。しかし、とうとう僕は、真面目にガールフレンドが欲しいと願うようになった。素敵な女生徒と一緒に歩いたり、話をしたりすれば、どんなに楽しいだろうかと・・・・・僕は、時折、両親に愚痴を言った。どうなるものでもないと思いつつ。
しかし、両親は、そのことについて、真面目に考えてくれていた。そのおかげで、僕は、多分、3年生の時、思わぬ「お見合い」をすることとなったのである。
ある時、父が僕に、父のかつての同僚であるH先生の家に遊びに行ってはどうかと提案した。僕は、H先生と話したくもあったし、他に何人かの生徒が来ているような話であったから、喜んでH先生宅に伺った。だが、そこにいたのは、1人の女生徒だけだった。
H先生は、お茶やお菓子を出してくれ、その女生徒と話をしてみるよう促した。彼女は、素敵な女性だった。すらりと背が高く、手足も長い。整った、理知的な顔をしていた。「才色兼備」?いや、それ以上だった。彼女は陸上部に入っていたから、健康な身体も持っていたはずだ。
彼女と話をしているうちに、さすが鈍感な僕も、「これは、一種のお見合いだ」と気づいた。清潔な感じの人で、色気といったものは感じなかった。僕は、彼女に惹かれる前に、「自分は負けた」と思った。「草食系男子」どころではない。これでは「敗北主義者」である。
H先生の家を辞して、帰宅すると、両親に、「彼女が気に行ったかどうか?」と尋ねられた。やはり、彼女の両親も承知の上での、公認の交際のための「お見合い」だったのだ。その時、僕が取った態度は、敗北主義的で、情けない、卑怯でさえあるものだった。
僕は、「断られる前に、断ろう」と思った。「断られる」と確信していたから。そこで、両親に、「お断りしてくれ」と頼んだ。ところが、後日、彼女の方からは、「OK]の返事が来たのである。しかし、今更、前言を翻す訳には行かない。僕は、涙を飲んだ。
今にして思えば、それで良かったのかもしれない。彼女のような人と交際して、もしも結婚でもすることになれば、僕は、一流会社に入り、必死に働き、良き家庭を作らなければならなかったであろうから。それは、僕には不可能なことなのだ。
しかし、こう考えるのは、負け惜しみだろう。イソッブ童話の狐の話。手の届かない、高いところになっているブドウを見て、「どうせ、あれは酸っぱいだろう」と言う狐と同断である。
退屈極まる高校時代の生活にも、幾つかの彩がなかったわけではない。だが、僕は、まだまだ幼く、愚かであった。
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本格的な音楽の勉強の開始・東京との結びつき
高校での勉強は、何よりも大学受験を意識し、目標とするものだった。生徒たちの意識も、受験に集中していた。学校行事も、あれこれあったはずであるが、まったく記憶に残っていない。僕にとっては、責め苦でしかなかった、年に1度の全校生の10キロ走を除けば。
一般の生徒たちにとって、受験勉強と高校での授業とは、まったく目的を同じくしていたわけではないにせよ、ほぼ一体のものとして結びついていた。だが、僕の場合、その2つは別種のものだった。僕は、何とか授業について行く他に、音楽系の大学に入学するための勉強をせねばならなかったのだから。いわば、「二足の草鞋」を履いていたのである。
そのため、学年が進むにつれ、同級生たちとは意識のずれが生じてきた。「いよいよ本腰を入れて、音楽の勉強をしなければ!」そして、その勉強のためには、東京で、専門的な指導をして下さる先生を探さなくてはならない。
しかし、それについて述べる前に、もう1つ、田舎での音楽学習の難しさを物語るエピソードを語っておこう。音楽の勉強のためには、まず「ソルフェージュ」を学ぶことが必須である。ソルフェージュとは、文字通りには、楽譜を音名か階名(ドレミ・・・)で読む・歌うこと(視唱)だ。だが、その他に、聴いた旋律や和音を楽譜に書き取ること(聴音)や、リズム練習、簡単な旋律や伴奏を書くこと、即興することなど、音楽の総合的な基礎力を養うことを意味している。
ヨーロッパでは、伝統的に、まずこのソルフェージュを学んでから、それぞれの楽器の習得を始めるのが、正統的な音楽の学習法なのであるが、僕が、中・高校生だった頃の日本では、そうした認識が行き渡っていなかった。入試科目に「聴音」と「視唱」があるから、それを勉強しなければ・・・と言う程度にしか考えられていなかったのである。
どこからその先生のことを知ったのかは忘れたが、中学末期か高校の初期に、僕は、隣のA市の高校の音楽の先生について、ソルフェージュを学ぼうとしたことがあった。またもや、遠い遠い夜道を自転車で走り、その先生の許に通った。しかし、その先生も「外れ」だった。
その先生がしてくれたのは、市販の聴音問題集に載っている旋律を、ただピアノで弾き、集まった何人かの生徒に書き取らせ、間違いを直すだけという、もっとも安直な「聴音」の指導であった。それぞれの生徒には、それぞれの弱点がある。調性感のない者。(半)絶対音感のない者。変化音の用法が分からない者等々。「間違う原因」は様々であるのに、それを考慮せず、ただ間違いを間違いと指摘するだけなのである。
僕は、失望して、何か月かで、そこを止めてしまった。良い先生がいないからには、独習をする他ない。僕は、あれこれ考えた末に、ハンガリーのコダーイという音楽家が創案したソルフェージュのメソッドを、自分に合うように適宜、案配して、自習した。そのおかげで、楽譜は、ほぼ問題なく読み、歌うことができるようになった。聴音は、ピアノの先生に旋律を弾いてもらい、楽譜に書く練習をした。
田舎の音楽の先生方の力量・工夫・情熱の無さは、まさに嘆かわしいものだった。ただ、それは「反面教師」として、僕自身が大学で教えるようになった時、反省材料となり、大いに「役立ってくれた!?」のである。
結局は、東京に先生を求めるしかない。それに、ある音楽大学に合格するためには、その大学の先生について勉強しなければダメだというのが、音楽界の「常識」であった。僕は、まず、ピアノの先生から、彼女を教えた先生を紹介してもらい、毎週(月に2度だったかもしれない)、ピアノを習いに、東京に通うようになった。その先生は、京王線の、ある駅付近に住んでおられた。それから、そのピアノの先生の紹介で、ある英語の先生の許にも勉強に行った。
そのお二人についたのと、前後関係ははっきりとは覚えていないが、高校に入ってから、TG大のS先生にもついたことがある。S先生を紹介してくれたのは、神奈川県の大船に住む、親戚のお嬢さんだった。そして、このことを機会に、僕は、「上流階級の生活」を知ることになった。
大船の親戚の当主は、有名な会社の重役で、その家は、ある池を前にした、丘の上に建つ豪邸だった。高低差を生かした、凝った作りであった。僕は、夏休みに、この家に3泊ほどし、歓待していただいた。室内の装飾も、食事も、何もかもが、我が家とは似てもつかなかった。2人のお嬢さんは、共に美人で、優雅な生活をしていた。
そして、その長女の方と共に、僕は、杉並区にある、S先生のお宅を訪れた。S先生は、有名なバッハの研究者で、古くはあるが、立派なお宅に住んでおられた。何度か、書斎に通して頂いたこともあるが、本が堆く積まれた、如何にも学者の書斎といった雰囲気があった。
こうして僕は、初めて一流の学者と対面することになった。田舎者の高校生は、がちがちに緊張していた。S先生からは、主として英語を学ぶことになった。だが、何故、英語がそれほど重要なのか、僕には未だに分からない。多分、英語の成績によって、合否が決まることが多かったのだろう。
余談になるが、杉並区の同じエリアには、我が家のもう1軒の親戚があった。こちらも、ご主人が大会社の役員をしており、豊かな生活をしていた。奥さんも、2人のお嬢さんも、共に美しい人だった。(次女の方は、お気の毒なことに、交通事故で亡くなられた。)この家には、僕は、既に何度も伺ったことがあり、いつも歓待していただいた。(話が飛ぶが、妻との結婚式では、この「荻窪の家」のご夫婦に、仲人をお願いしたのだった。)
S先生は、受験英語を見て下さる他に、時には、僕の音楽理論の勉強の進捗状態を尋ねられた。恐らくS先生は、僕が、TG大に合格できると思われていたようだ。しかし、ある時、僕に、「ピアノを弾いてみて下さい」と言われた。僕は、超緊張して、ベートーヴェンのソナタの一部を弾いた。だが、S先生の反応は、完全に否定的だった。僕は、本当にピアノが下手だった。それに、ピアノと言う楽器が、好きではなかったのだ。この時点で、僕は、TG大への入学を断念し、S先生の許を去ったのである。
僕の可能性は、私立の音楽大学に限定されてしまった。
それにしても、ピアノといい、英語といい、東京にそれらを学びに行くには、相当の費用がかかった。交通費や、盆暮れの付け届けも、さぞかし大変だったろう。我が家には、土地はまだあったが、何しろ現金がなかったのだから。僕は、親不孝な息子であった。
ともかく、こうして、僕は、「別世界」を知った。大船や荻窪の親戚の、麗しい生活ぶり。S先生の、自ずから学識と品格を感じさせるお人柄。僕は今、ここまで落ちぶれても、それらを忘れることができない。
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