|
一昨日の東北を中心に起こった地震は各地で多大な被害をもたらしていますが、被災地の皆様には心よりお見舞い申し上げます
さて、大災害といえば、阪神淡路の震災が記憶には新しいですが、
戦前の歴史に残る大災害として有名なのが関東大震災です。
大正十二年(1923年)9月1日午前11時58分、
神奈川県相模湾北西沖を震源として発生した
マグニチュード7.9、海溝型の大地震です。
昼食の支度の時間帯でもあったため、各地で火災が発生し、
首都東京は壊滅的な打撃を受けました
(炎上する警視庁)
死者・行方不明者10万5千余り、家屋の全壊10万9千、焼失21万2千という
未曾有の大災害となりました
平成七年(1995年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災の時は、
時の村山内閣の初期対応のまずさや危機管理能力欠如が指摘されましたが、
この関東大震災ときは、状況的にはそれ以上に大変だったのです。
なぜなら「総理大臣不在」だったのです。
前首相の加藤友三郎が病死、
次期総理には海軍大将の山本権兵衛と決まっていたのですが、
天皇の認証がまだ終わっておらず、組閣途中の出来事でした。
しかし、阪神・淡路の時とは違い、初期対応は迅速でした。
軍隊がすぐに出動し、救助や復旧にあたります
大正天皇(実務は摂政であった昭和天皇)からの臨時拠出金、
そして、町内会や青年団、宗教団体といった民間の団体が、
被災地に駆けつけ、人命救助や炊き出しなどを行いました。
関東近隣の医者や看護婦はもちろん、看護学校生も医療活動に参加し、
はるばる関西から駆けつけた看護学生もいたという
当時の新聞記事も残っています。
今でいう「ボランティア」が当時の日本ではすでに行われていたのです。
一方、政府は内務大臣就任が決まっていた後藤新平によって復興計画が立てられました
後藤新平は、台湾総督府民政長官として台湾の近代化に功績があり
(現在も台湾では「台湾近代化の父」として尊敬を集めています)
また、南満州鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁になった人です
この後藤が「帝都復興院」総裁も兼務し、帝都復興計画の策定を行いました
この計画の中で後藤新平は「やがて自動車の時代がやってくる」と予想し、
都内の道路幅を大幅に拡張することを主張しましたが、
予算の関係で、一部の道路しか実現しませんでした。
しかしながら、東京は予想以上の早さで復興し、
昭和の初期には世界有数の近代都市となっていきます
(校舎が倒壊した小学校でもすぐに授業が再開されました)
つづく
|
全体表示
[ リスト ]





