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(前回からのつづき)
 
前回に書いたように、未曾有の大惨事であった関東大震災ですが、
今回の地震の際も、世界中が驚愕した日本の民度の高さ。
略奪や暴動もなく、店にはきちんと並んで支払いをする…
これは、驚くべき民度の高さである、と報道されています
 
しかし、こういう災害の時、人はパニック状態に陥ることも少なくありません
この関東大震災の時、朝鮮人が多く殺されたという歴史があります
 
事の発端は、新聞報道から始まりました
社会主義者と結託した朝鮮人の一部が暴動を起こしたというものです
 
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この報道は、人々を震え上がらせました
加えて、震災で民衆はパニックを引き起こしやすい状況にあり
自営のために町々では身を守るために「自警団」が組織されます
 
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庶民が武器を持った自警団によって、
多くの罪なき朝鮮人が殺されたり、被害に遭いました
それに対して当局は、
軍隊を動員して一般の朝鮮人を自警団から守るために収容します
 
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そして、政府は、最初の新聞報道は誤報という発表をします
 
ところが、後に、この事件の真相がわかってきます
ベースボールマガジン社の池田恒雄氏が裏話として語った中で、
後藤新平内務相が警視庁・正力松太郎官房主事に対して、
当初の朝鮮人の暴動は事実だが、このままだと大混乱に陥るから
自警団の武装解除を命令した
  という旨の話をしたことが明らかになりました
 
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当時の朝日新聞には政府の通達がこのように期されています
多数鮮人中に多少不逞の徒があったのは事実で是又遺憾に堪へない併しながら朝鮮人が皆悪いのではない 鮮人も皆是れ陛下の赤子ではないか 今回の出来事からして或は治鮮方針に何等かの変化がありはせぬかと想像するものがあるやうだが統治方針は断じて変更せぬことを得に明言して置く」
 
現在、中学校や高校の教科書では
「朝鮮人が大量虐殺された」とだけ記されていますが、
一連の事実経過を見ていくと、
 
 1,社会主義者と不逞朝鮮人が暴動やテロ行為を行った
 2,震災というパニック状態の下で、自警団が結成された
 3,自警団によって多くの一般の朝鮮人が犠牲になった
 4,震災下での事態の拡大化を懸念した政府が、誤報と報じ収拾した
 
というのが真相だと思います
実際、震災三ヶ月後には、
無政府主義者の難波大助が、摂政(後の昭和天皇)を狙撃する(未遂)
「虎ノ門事件」が起きています
このように、当時の社会主義、共産主義、無政府主義というものは、
非常に恐ろしい、反社会的思想であったのです
(二年後に治安維持法が制定された大きな理由です)
 
 
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このように、関東大震災下における朝鮮人虐殺事件は
一部の不逞朝鮮人や社会主義者や共産主義者のせいで、
多くの同胞が犠牲になり、不幸が大きくなったのです
 
教科書は、マルクス主義に感化された学者が書いているものですから
「社会主義者や朝鮮人は犠牲者」
「政府や日本人は弾圧者」として扱いますが、全く話になりません
朝鮮人でも日本人でも、必ず酷い奴はいるものです
特にこういう災害時においては、日常平時には起こらないようなことも
起きてしまう精神状態なのです
 
そういうことを
きちんと見れるような視点を持ちたいと思います
 
 
 
 一昨日の東北を中心に起こった地震は各地で多大な被害をもたらしていますが、被災地の皆様には心よりお見舞い申し上げます
 
 さて、大災害といえば、阪神淡路の震災が記憶には新しいですが、
戦前の歴史に残る大災害として有名なのが関東大震災です。
 
 大正十二年(1923年)9月1日午前11時58分、
神奈川県相模湾北西沖を震源として発生した
マグニチュード7.9、海溝型の大地震です。
 
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昼食の支度の時間帯でもあったため、各地で火災が発生し、
首都東京は壊滅的な打撃を受けました
 
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(炎上する警視庁)
 
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死者・行方不明者10万5千余り、家屋の全壊10万9千、焼失21万2千という
未曾有の大災害となりました
 
 平成七年(1995年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災の時は、
時の村山内閣の初期対応のまずさや危機管理能力欠如が指摘されましたが、
この関東大震災ときは、状況的にはそれ以上に大変だったのです。
 
なぜなら「総理大臣不在」だったのです。
前首相の加藤友三郎が病死、
次期総理には海軍大将の山本権兵衛と決まっていたのですが、
天皇の認証がまだ終わっておらず、組閣途中の出来事でした。
 
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しかし、阪神・淡路の時とは違い、初期対応は迅速でした。
軍隊がすぐに出動し、救助や復旧にあたります
大正天皇(実務は摂政であった昭和天皇)からの臨時拠出金、
 
そして、町内会や青年団、宗教団体といった民間の団体が、
被災地に駆けつけ、人命救助や炊き出しなどを行いました。
関東近隣の医者や看護婦はもちろん、看護学校生も医療活動に参加し、
はるばる関西から駆けつけた看護学生もいたという
当時の新聞記事も残っています。
今でいう「ボランティア」が当時の日本ではすでに行われていたのです。
 
一方、政府は内務大臣就任が決まっていた後藤新平によって復興計画が立てられました
 
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後藤新平は、台湾総督府民政長官として台湾の近代化に功績があり
(現在も台湾では「台湾近代化の父」として尊敬を集めています)
また、南満州鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁になった人です
 
この後藤が「帝都復興院」総裁も兼務し、帝都復興計画の策定を行いました
この計画の中で後藤新平は「やがて自動車の時代がやってくる」と予想し、
都内の道路幅を大幅に拡張することを主張しましたが、
予算の関係で、一部の道路しか実現しませんでした。
 
しかしながら、東京は予想以上の早さで復興し、
昭和の初期には世界有数の近代都市となっていきます
 
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         (校舎が倒壊した小学校でもすぐに授業が再開されました)
 
つづく
 
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 大正村さんのブログ  http://blogs.yahoo.co.jp/taishomura/MYBLOG/profile.html  
 
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「人種差別撤廃条約」という条約を知っていますか?
調べてみると、下のような説明がありました
 
 人種・皮膚の色・血統・民族・部族などの違いによる差別をなくすために、必要な政策・措置を遅滞なく行うことを義務付ける国際条約。1965年の第20回国連総会で採択され、1969年に発効。日本は1995年に批准した。
 
1965年の国連総会で採択、とありますが
実は、大正時代に成立直前までいった「幻の条約」なのです
未曾有の戦乱であった、第一次世界大戦はドイツの降伏で終わりを迎えます
 
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そして、その講和会議がパリ郊外のベルサイユ宮殿で
大正八年(1919年)から行われ、
日本からは西園寺公望、牧野伸顕らの全権団が派遣されます
そして、この日本全権団のもとに、
当時、白人社会で酷い差別を受けていた、有色人種たちが訪れます
「あなたの国だけが頼りなんだ!」
 
当時、有色人種として唯一の列強に名を連ねたのは、日本でした
そして、日本が会議の場で
「人種差別撤廃条約」を提案するのです
そして、17カ国中、11カ国の賛成を得て、条約成立かと思われた時、
アメリカ大統領のウィルソンが信じられない一言を発するのです
 
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"日本の提案は受け入れることはできない"
 
日本全権団の事実上のリーダーであった牧野伸顕は問います
"なぜだ? 11票もの賛成があるではないか?"
 
ウィルソンはそれに対し
"このような重大な問題は全会一致でなくてはならない"
 
イギリスもウィルソンに強く賛同し、結局、条約は成立しませんでした
 
牧野伸顕は
"日本案に対し、過半数の賛成票があったことを、
                  議事録に記述するよう希望する"
 
これが、当時の英米を頂点とする白人社会に対する
牧野の、そして日本の、精一杯の抵抗でした
 
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これが当時の世界の「現実」です
世界は「白人の意向」によって動いていたのです
しかし、この「白人独占社会」に向けて日本の投じた一石は
世界の有色人種からの尊敬を集めます
 
このように、大正時代は、日本の民度が世界レベルで高かったのです。
そして、日本が「人権先進国」だったことがわかると思います
 
しかし、今の「自虐史観」に凝り固まった教科書では
ウィルソンは「民族自決」を提唱した人物として登場し、
日本は「アジア侵略の土台を作っていった」と書かれるのです。
笑止千万とはこのことですね
 
そのような考えでは、世界に誇れる大正時代を理解することもできません
 
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  大正村公式HP     http://www.nihon-taishomura.or.jp/
 
 
 
(昨日の続きです)
 
東京は、関東大震災、そして東京大空襲という、二回の大惨事により
戦前の建築物の多くが失われてしましました
本当に残念なことです
それだけに、その災難を乗り越え、現在まで残ってきたものに対しては
もっともっと大事にすべきではないでしょうか
現代の無機質な建物が増えていくのは、
いくら快適でも悲しいことだと思います
 
 
今はもうなくなりましたが、昭和46年まで残っていた東京會館  大正11年
 
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町の真ん中にも、大正期の建物は残されています
神田にある「文房堂」さんも 大正11年築
 
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洋館だけでなく、大正期の日本家屋も残っています
旧小山家住宅  大正6年築
震災、空襲の両方にも負けず現存するのは、奇跡に近いです
 
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旧安田楠雄邸 大正8年
当時は、外観は日本風、内部は洋風の応接が「モダン」だったのかなw
 
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そして、残っているのは建物だけではありません
これは永代橋 震災の被害で、大正15年に掛け替えられました
 
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震災直後の、旧永代橋
この後、上の写真の橋に掛け替えられました
 
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大正時代に興味のある方は、ぜひ、訪れて下さい
                                    
 
東京で大正時代といえば、まず、玄関である東京駅
 
大正三年にできました
 
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当時の写真です
 
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震災や空襲に遭った東京なのに、昔の良いものが残っています
それに比べて、京都駅は見るに堪えないです(空襲もなかったのに…)
 
 
旧古河邸 大正五年
 
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バラの咲く頃は大変美しいそうです
 
 
立教大学本館 大正七年
 
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清泉女子大に残る、旧島津邸 大正十四年
 
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そして、下の建物は表慶館 実は明治時代の建築です
では、なぜ載せたかというと、名前に注目!
「慶びを表す館」・・・・そうです、慶事に建てられたんです。
これは大正天皇が皇太子の時、そのご婚礼を祝って建てられました
 
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旧帝国ホテルライト館 大正十二年
ライト館のライトは、アメリカの建築技師フランク・ロイド・ライトの
設計で建てられました。
そして、何と、オープン当日に
あの、関東大震災が起こったのですが
ほとんど崩れるところもなく、びくともしなかったそうです
現在は、愛知県の明治村に移築されています
 
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