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歴史

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当時、世界中でも希な、「民意による政権交代」を果たした日本は
1914年には、日英同盟に基づき、第一次世界大戦に参戦します
旧ドイツ権益を継承した日本は、パラオに南洋庁を設置し、現地の近代化も進めます
 
この頃、吉野作造が唱えたのが「民本主義」です。デモクラシーを「民本主義」と訳しました
戦後、学会では天皇制だから「民主主義」ではなく不完全、とか
吉野作造は天皇制の下では実現できないとか、難癖つける学者が増えましたが、
女王のいるイギリスで「デモクラシー」は生まれた訳ですから、言いがかりのようなものです
大正時代は、天皇制の下で、しっかりと民主主義が花開いた時代だったと思います
 
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そして、第一次大戦後、民衆は選挙により、平民出身の首相を誕生させます
 
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「平民宰相」 原敬首相の登場です。
小泉純一郎顔負けの、すごい人気だったそうです
 
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この時期は
女性運動、部落解放運動や労働運動も盛んになりました
大衆文化も花開きました
当時、モダンガール、モダンボーイという言葉が
流行しました
  
 
そして、大正デモクラシーは最盛期を迎えます
原敬首相は、庶民から多大な期待をもたれたのですが、
普通選挙法には「時期尚早」の立場を取りました
(その理由は、非常に大きな事であり、後で述べます)
その後、短命内閣が続いた後、枢密院議長の清浦奎吾首相が登場します
彼は衆議院軽視の政治運営を行ったため、政党の反発を受けます
 
憲政会・政友会・革新倶楽部の、日頃はライバル関係にある政党が、
清浦内閣打倒を旗印にして、合同で倒閣運動を行います
これが第二次護憲運動です
 
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この結果、護憲三派が衆議院で圧倒的多数を占め、内閣を成立させます(護憲三派内閣)
今の言葉でいうと「大連立」になりますね
そして、この護憲三派内閣(加藤高明首相)は、公約通り、普通選挙法を成立させます
所得に関係なく、25歳以上の男子に選挙権が与えられることになりました
これぞ、民意で勝ち取った普通選挙であり「大正デモクラシー」の真髄でもあったと思います
この後、犬養毅首相が五.一五事件で射殺されるまで
衆議院の多数党が組閣する「憲政の常道」が確立します
 
では、なぜこのすばらしい「大正デモクラシー」が続かなかったのか… イメージ 5
それは、社会主義・共産主義の影響だと思います
 
例えば、ある学校があって、生徒には節度があり、経済的にもさほど苦しくなく、校則も緩く、生徒たちが自由な校風を作っているときはいいですが、そこに異質な考え方が入ってきて、規律が乱れ、犠牲になる者が出てくるような事態になれば、学校は校則を厳格化し、指導を強化し管理を強めざるを得ません。
 
当時、大逆事件や虎ノ門事件など、社会主義者や無政府主義者による暴力革命の兆しが出始め、1917年にはロシア革命、22年にはソ連の建国など、社会情勢は大きく変わって来ました。そして、米騒動のような大きな暴動が、社会主義によるものになれば、国家の存亡に関わる重大事です。ロシアではロマノフ王朝がどのような悲惨な末路をたどったかは、当時の政治家や軍部は当然知っていたはずです。原敬首相が普通選挙は「時期尚早」とした理由も、そこにあると思います。
しかし、民意は普通選挙を求めました。その対策が、抱き合わせで「治安維持法」の制定です
 
今の共産党や社民党が言論で反対しているような甘いものではありません。当時は社会主義、共産主義は暴力で国体を変革するおそれのあった「危険思想」だったのです。
今の教科書では「天下の悪法」と書かれていますが、一般庶民の平穏な生活には必要な施策でした。
 
そして、相次ぐ不景気や恐慌は、その「危険思想」を助長する大きな要素になります。
昭和時代は、その戦いから始まります。
 
 
東亜の小さい島国から一流国へ登ってきた明治時代
一流国になったが故に白人社会との対立を生み、「危険思想」とも戦った昭和時代
 
その間にあって、一番安定し、自由で平和であった時代が「大正」という時代だったと思います
 
その大正時代の雰囲気を感じたい方は、どうぞ                         イメージ 6              
 
 大正村公式HP     http://www.nihon-taishomura.or.jp/
 
 
歴史を見たり、考えたりするときに一番大切なことは
「今の時代の尺度で見ない」ということです。これをやると何も見えてきません。
 
例えば、「あなたは祟りや怨霊を信じますか?」と聞かれたら、
半分以上の人は「そんなもん、信じへんわ」「迷信に決まってる」「非科学的」と答えるでしょう
そのことは別にどうでもよいのです。信じる信じないは自由ですから…
しかし、「奈良時代や平安時代の人たちは祟りや怨霊を信じていた」ということを否定すれば
それは現代の考え方や価値観で歴史を見ることになり、
正しい歴史認識ができなくなります。戦後のマルクス史観では日本の歴史は理解できません。
 
前置きが長くなりましたが、
日本は江戸時代初頭、鎖国体制を採り、長い長い天下泰平の時代が続いていました
そこに現れたのがペリーです。
欧米では産業革命に成功し、海外の植民地を増やす帝国主義の時代になっていたのです
 
商売で言うなら、内輪だけでこじんまりと商いしていたのに、
突然資本主義の自由競争の中に放り込まれてしまったようなものです
自分が収益を上げて自立しなければ、吸収され会社の存続さえできなくなるのです
そうならないために、一生懸命働き、支店も増やし会社は大きくなりましたが、
一部上場企業にはなれませんでした。まだまだ信用がなかったのです
 
それが明治時代です
内閣制度をつくり、国会や憲法をつくり、立憲君主国としての形はできました
そして、日清、日露の戦争に勝ち、台湾、樺太、朝鮮を「日本」に組み込みましたが、
まだ、欧米は日本を格下に見てました。その証拠が「不平等条約」です。
それを克服したのが、明治44年(1911年)です。しかし、翌年すぐに明治天皇がご逝去されます。
 
欧米から対等と認められ、一部上場企業として大正時代は始まったのです。
 
政治・経済・文化など、様々な分野で日本は大きく飛躍するのが、この大正時代です
 
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近代議会政治の模範とも言うべき「二大政党制」や「民意による政権交代」の芽は
実はこの時期から動き出していたのです
 
学校の教科書は、「軍」を悪者にし、それに抵抗する者は正義の味方のような書き方をしていますが、
そのような先入観なしで考えてみましょう
 
大正時代に入る直前(1910年)、日本は日韓併合を行い、朝鮮は「日本の一部」になったのです
当時のアジア情勢を考えてみると、
中国では辛亥革命直前で非常に不穏な情勢、
ロシアでも社会主義革命の動きでこれまた不穏な情勢であり、
両方ともに隣接する朝鮮は、軍にとってみれば、安全保障上、非常に重要な地域になります
その朝鮮に、新しい軍勢を配置する(二個師団増設)要求は、当然のことです
しかし、西園寺公望内閣は、行政改革を選挙公約として勝利し、内閣が成立したわけで、
こちらも膨大な支出が伴う二個師団増設要求を拒否します。これも当然です
どちらの行動も理にかなっているわけで、どちらが悪いとかいう見方はおかしいのです
 
ここで陸軍は「そんなことだったら、国民の安全を守ることはできない」として、
上原陸軍大臣は単独辞職しました。内閣は一人の大臣が欠けても成立しません。
今の時代なら、後任を探すか、首相か誰かが兼任すればいいのですが、
当時は「軍部大臣現役武官制」という制度があり、陸軍大臣は誰でもなれなかったのです。
結局、第二次西園寺公望内閣は内閣不成立ということで、総辞職せざるを得ませんでした
そして、第三次桂太郎内閣が成立します
 
しかし、野党になった政友会や政府に反対する勢力は黙っていません。
 
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政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅らが、反政府運動をおこないました
これが第一次護憲運動です
民意はここにない、と判断した桂太郎首相は、内閣総辞職を決意します
こうして、50日足らずで第三次桂太郎内閣は崩壊し
政友会を与党とした山本権兵衛内閣(海軍大将)が成立します。
 
よく「戦前は言論の自由がない、天皇制で軍国主義の暗い時代」という人がいます
教科書にもそのようなことが書いてありますが、大きな間違いです
教科書を書いているのは戦後民主主義という名のマルクス主義者です
そのような記述に惑わされることなく、歴史を見ていかねばなりません
 
この時代、このように暴動も武力行使もなく、民意によって政権交代をしていた国がいくつあるでしょうか?
少し考えればわかることです。
補足しておきますと、教科書等では桂太郎首相は、軍とつながりが深く、悪役として書かれてますが、
彼が結成した立憲同志会には、大正デモクラシーの最盛期の主役、加藤高明や若槻礼次郎もいて
後の二大政党制(「政友会と憲政会(民政党)」)の布石になっていきます
 
 
 
 
 

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昨日の「あまり知られていない大正時代の日本」を見ていただき嬉しく思います
昨日はスペースの都合上、載せれなかったのですが
是非、今日、取り上げたいと思ったのは、台湾の「大正町」です
 
戦前、日本統治時代の台湾には
各地に「大正町」と名付けられた地域がありました
 
台北には今も大正町という地名は残っています
これは当時の古地図です
 
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図の真ん中左寄りに「大正街」が見えますね
 
 
台湾第三の都市 台中にも大正町はありました
 
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そして、台湾の古都 台南です
 
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台湾最北にあり、かつては軍港として栄えた基隆では、明治町、昭和町とともに、大正町も海岸沿いにあったそうです
 
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当時の建物の多くが、まだ大事に使われていることに、嬉しさを感じます
 
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大正時代に興味のある方は是非ご覧下さい
 
 大正村さんのブログ  http://blogs.yahoo.co.jp/taishomura/MYBLOG/profile.html
 大正村公式HP     http://www.nihon-taishomura.or.jp/
 
 
 
 
先週は、大正時代のことを取り上げましたが、
今週は、あまり知られていない大正時代のことです
 
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これは、大正時代初期の「日本地図です」
台湾、樺太、そして併合間もない朝鮮も「日本」として地図に載っています
この後、第一次大戦の勝利により、パラオなどの南洋諸島も日本になります
 
 
最初に「日本」になった台湾は、大正時代に大きく発展します
 
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上は、台湾総督府(現 総統府)、下は総督府専売局
大正時代の建築物は、台湾にはたくさん残っています
そして、現在も使われているものが多いのは、嬉しく感じます
 
 
次は樺太です。台湾、朝鮮に比べてあまり知られていませんし
昔のまま残っているものは少ないです
 
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当時の真岡駅。真岡は、あの「氷雪の門」の舞台になった町です(現 ホルムスク南駅)
 
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これは樺太庁。現在は残っていません。昭和初期に建てられた博物館は残っています
豊原にあった、旧北海道拓殖銀行は、現在州立美術館として残っています
 
そして、朝鮮
 
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大正11年に完成した新しい朝鮮総督府
立派な建物ですが、日本時代の負の遺産として取り壊されました
この辺が、台湾とは全然違いますね
 
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旧朝鮮王家の邸宅の多くも、大正時代に建てられたものが多いです
 
 
そして、最後は南洋庁があったパラオ
 
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上は当時の南洋庁の絵はがき。現在はパラオの最高裁判所として使われています
遠い南の国にも、大正時代の面影は生きています
 
 
この大正の時代、日本は台湾、樺太、朝鮮、そしてパラオに
多くの学校や銀行、郵便局などを建て、そして鉄道を敷き、橋を架けました
欧米諸国が、多くの植民地において
「現地の人のために」は何もしませんでしたが、
日本は多くのものを残し、台湾やパラオでは今も感謝されています
 
明治という時代は、欧米に追いつけ追い越せと必死になった時代
昭和という時代は、日本を含め、世界が戦争に突入していく時代
その間の大正という時代のことを、もっと日本人は理解すべきだと思います        イメージ 9
 
 
その大正時代に興味のある方は
 大正村さんのブログ  http://blogs.yahoo.co.jp/taishomura/MYBLOG/profile.html
 大正村公式HP     http://www.nihon-taishomura.or.jp/
 
 
           
 
 
 

タイと日本の絆

タイは、日本と並んで、アジアの中では英語の通じにくい国と言われています。
一体、なぜでしょうか?
 
それは、第2次大戦前から、アジアで日本とタイだけが独立国だったからです。
1932年、満州国を建国した日本ですが、日本の中国進出をよしとしない英米は、満州国承認を渋ります。当時の犬養毅首相も、英米との協調を重視して、満州国を承認しませんでした。(日本の満州国承認は次の斉藤実内閣の時です)
その満州国を、他国に先駆けて承認したのはタイだったのです。
当時、有色人種の国で独立を守っていた国は、ほとんどありませんでした。
当時は、「世界」=「白人の世界」だった時代です
 
日本は、満州国建国を巡って欧米と対立し
1933年に国際連盟を脱退するのですが、
今の自虐教科書には、
「日本が国際社会から孤立し、ファシズム体制となり、戦争やアジア侵略に向かう」
と書いてありますが、バカ丸出しもいいとこです
 
白人社会というのもは、白人だけの利益で動くのです
その国際連盟脱退の時の対日勧告案に対する評決は
「賛成・・・42  反対・・・1  棄権・・・1」でした
反対はもちろん日本ですが、この「棄権1」こそ、同じ有色人種の国のタイだったのです
 
自国を貶めるためには、白人優位という人種差別にさえ目をつぶる
自虐史観や日教組教育に洗脳されてては
真の歴史は見えてこないし、
今現在においても、国益を損なうことになることに気づかなければなりません
 
 
戦後、首相にもなったプラモード氏は、
「サイヤム・ラット」紙の主幹だった頃、
真珠湾を攻撃し、白人社会に敢然と立ち向かった日本のことを、
「12月8日」と題した記事の中で、次のように語っています
 
 
日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、
生まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジアの諸国民が、
米・英と対等に話ができるのは、
いったい誰のおかげであるか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったがためである。
12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、
一身を賭して、重大な決心をされた日である。
我々はこの日を忘れてはならない。

 
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                 首相就任後のプラモード氏
 
 

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この有名な「象のはな子」は、
終戦後、日本が焼け野原になり復興に苦しんでいた時
子供たちが少しでも喜んでくれたら、
と、タイから寄贈していただいたのです
2歳でやってきたはな子さんは、今年64歳の誕生日を迎えたそうです
 
 
 

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