日本無責任時代

右翼と左翼の脳天を痛撃するブログ「自動ハンマー打機」

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写真左より
ステッセル中将、クロバトキン陸軍大臣、幕僚アレキシーエフ、コンドラチェンコ、スタルク、レープ。1903年(明治36年)日露戦争の直前の中国旅順港の写真

明治36年(1903)6月、ロシアの陸軍大臣クロバトキンが日本を視察、7月に避暑の為長崎の雲仙下田ホテルに投宿。写真は長崎の帰路、旅順港で陸軍のステッセル中将と幕僚達の出迎えを受けるクロバトキン陸軍大臣。私の祖父、小曽根正彦は同年、大連、旅順を旅行した際に偶然旅順港埠頭でこの光景を目撃したので愛用の写真機で撮影した。ロシア側は日ロ関係が怪しくなって急遽クロバトキンを"敵情視察"に差し向けたと考えられるが、当時は旅順港はロシアの租借地であり上海港も同じく使用権を保持していた。

日露戦争は日本とロシアの中国分捕り合戦であり、大国は武力で弱い民族の土地を争って奪った。日本とロシアは同じ強盗であり盗みに入った土地で戦争を始めた、ロシアは日本に敗北したが日本はその後中国大陸全土に兵を進めシナ人を武力で支配しようと試みた。今日、中国が巨大な核で武装するのはその屈辱を二度と味わいたくはないためだ。日本の核武装論議はその昔、盗みに押し入った家の主人が強力な防犯システムを家中に張り巡らせて警察への通報を自動化したので、腹立ち紛れに拳銃を購入するヤクザみたいなものである。


写真後方の軍艦は、クロバトキン陸軍大臣が乗艦したロシア海軍第一太平洋艦隊所属、一等巡洋艦アスコーリド。

基準排水量  5900トン

速力     23.5ノット

竣工     1900年
この艦は1905年5月27日の日本海海戦で生き残り、スピードを生かして上海に逃げ込んだが、のち日本軍に武装解除され帝国海軍に編入されている。(ロシア軍艦史年鑑より抜粋)

イメージ 2中列左端がステッセル中将
ステッセル中将経歴
サンクトペテルブルク出身。1866年、パブロフスキー士官学校を卒業後、露土戦争時には連隊長、義和団事件(1899年)では第3東シベリア狙撃旅団長を経て、1903年8月に旅順要塞司令官に任命される。1904年8月から第3シベリア軍団長。旅順の戦略的重要度を認識していたロシア満州軍総司令官アレクセイ・クロパトキン大将は、要塞戦術の専門家であったスミルノフ中将を後任として派遣するが、ステッセルは要塞司令官としての地位に固持し、スミルノフにその地位を明渡さなかった為、旅順要塞内では二人の司令官が常駐すると云う奇妙な状況が発生した。

日露戦争では、日本軍第3軍により旅順要塞攻撃が開始されると籠城戦を展開、要塞築城・戦術の専門家であった部下の(正確にはスミルノフ中将の部下)ロマン・コンドラチェンコ少将を支持すると共に防衛計画をほぼ一任し、日本軍に甚大な損害を与える。(旅順攻囲戦)12月に203高地を奪われ、東鶏冠山・ニ龍山・松樹山の正面防御要塞が次々陥落、頼りにしていたコンドラチェンコが一連の戦闘で戦死すると、余剰兵力を温存したままで降伏開城する。

日露戦争終了後に旅順要塞早期開城の責任を問われ、1908年2月、軍法会議で死刑宣告を受けるが、1909年4月、特赦により禁固10年に減刑される。(減刑に関しては乃木大将が助命運動を行ったのが最大の理由とされている)釈放後は軍を追放され、モスクワ市民として静かな余生を送った。

当時の軍艦は石炭焚きで、釜夫の水兵が一日中石炭で真っ黒になってシャベルで石炭を運ぶ重労働であった。蒸気はタービンを回しスクリューに伝達された、煙突からモクモク黒い煙路を出してロシア水兵はシャベルで石炭をくべながら、日本海軍の砲撃で阿鼻叫喚の中で深い海に沈んでいった。

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