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			<title>日本無責任時代</title>
			<description>日本の戦争の歴史はまず出された資料の真贋が問題です。歴史は後世の人間が作るものと言われるほどで特に戦争の歴史は疑ってかかって普通です。歴史の本には学術書、歴史書、文学書、一般論など様々な本があり、これが真実だという偽者が多く出ています。日本の戦争は政府にとっては都合の悪いもの、保守派には日本有利に書かれた本でないと承知しません。私のブログでは左派と右派両方の主張の矛盾点を明らかにする目的があります。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dricamenenguetti</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>日本無責任時代</title>
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			<description>日本の戦争の歴史はまず出された資料の真贋が問題です。歴史は後世の人間が作るものと言われるほどで特に戦争の歴史は疑ってかかって普通です。歴史の本には学術書、歴史書、文学書、一般論など様々な本があり、これが真実だという偽者が多く出ています。日本の戦争は政府にとっては都合の悪いもの、保守派には日本有利に書かれた本でないと承知しません。私のブログでは左派と右派両方の主張の矛盾点を明らかにする目的があります。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dricamenenguetti</link>
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			<title>敵潜水艦浮上！攻撃せよ、ある戦闘日記</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-dd/dricamenenguetti/folder/1400451/82/58495682/img_0?1418808872&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_500_215&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　日本海軍潜水艦&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「司令部における作戦会議から帰隊した隊長から集合命令がありました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;『隊長』&lt;br /&gt;
本日の司令部のおける作戦会議の模様と、当隊に対する検討課題を伝える。米軍機による本土焦土作戦と平行し、米軍は着々と本土上陸作戦（ダウンフォ－ル作戦）を準備している模様である。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;関東方面に対する米軍の上陸作戦を「コロネット作戦」と命名していることは皆も承知していると思うが、地形から判断して軍の上層部は、上陸用舟艇を浜に近接させることが容易である千葉県九十九里を第一番の上陸地点として考えている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;当然そのことは米軍側も察知しており、B-29による空撮及び潜水艦による偵察を繰り返している。潜水艦は、潜望鏡深度での偵察にとどまらず、夕暮れどきになると、浜から10km程度の位置から艦砲射撃を連日のように行なっているとのことである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;潜水艦に搭載している大砲の射程距離、攻撃効果から勘案すれば、これらの射撃は明らかに「いやがらせ」であって、我が方の軍事施設に対する攻撃とは相違するものである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;彼の地に点在する町や村の民間人に対する攻撃は、明らかに「殺意」によるものであって戦争行為とは言いがたく、射撃命令をくだしている艦長の品性は至って下劣であり、軍人の風上にもおけない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;この事は、逃げ惑う民間人に対して機銃掃射を浴びせる米軍戦闘機の操縦士にも言える事柄である。海軍は哨戒機及び哨戒艇を動員して探索しているが、その所在を掴むことができない状況から、当隊に潜水艦の位置探索方法を検討して欲しい、と海軍側から司令部に対し要請があった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;過日の海軍機の先導方法から勘案すると、良い作戦案を策定できるものと本官は考える。作戦計画を明日の午前中までに作成することとし、午後司令部へ提出することを約束してきた。性急な命令であることは承知のうえであるが、彼の地の住民の命を救うと思い努力して欲しい。以上。&lt;br /&gt;
&lt;pre class=&#039;wiki&#039;&gt;『Ｔ曹長』
海軍側から見込まれた上での要請とあらば、一肌脱ごうじゃないか。

『通信少尉』
自分の憶測ではあるが、今まで米軍の潜水艦は被弾して脱出した米軍機搭乗員を救出するために房総沖周辺に待機していたが、被弾した米軍機の救出に必要な現在地の情報は無線連絡により確認していたことと思われる。従って、位置情報の座標数値は、潜水艦も米軍機と同一のものであると考える。

救出専門と敵情偵察と別個の座標系を使用しているとは考えられない。潜水艦の無線は長波を使用しているが、それがモ－ルスか、Ａ3（無線電話）かは判然としない。しかし、予備受信機を動員して傍受すれば、潜水艦基地との交信または僚艦との交信をワッチ（受信）することが可能であると思う。

座標数値さえ判明すれば、潜水艦の現在地を容易に確認できる。なお、付言すれば、水は短波の電磁波を吸収する性質があるので、潜水艦は長波を使用するが、水面下約15ｍぐらいしか届かないと思う、交信中は、概ね潜望鏡深度であると思われるので、上空からの哨戒は容易であると考えられる。

さすが、米軍の位置情報を検索する方法を考えた通信少尉は目の付け所が違いました。早速その日の夕刻、作戦計画をまとめて、通信室長とＴ曹長が隊長に計画案を提案しました。

『隊長』
ご苦労であった。直ぐに司令部へ報告する。計画どおり、傍受体制を作って実行せよ。なお、敵艦を捕捉するまでは当隊が責任を持つこととする。Ｔ曹長機はいつでも出撃できるよう待機せよ。

なお作戦遂行上、海軍側との連携については、緊急を要することも充分考えられることから、司令部には事後報告となることもあり得ることについて了承を得ておく。

Ｔ曹長が整備軍曹に対し「燃料マンタン、37亠ヾ慄い涼討鮟縞に装填するよう」と指示しました。曹長は発見しだい攻撃する決意のようです。

4台の受信機で潜水艦の通信を検波しました。米軍機の使用周波数はほぼ掴んでいましたが、潜水艦は初めてです。モ－ルス受信と無線電話受信をそれぞれ2名づつ配置し、その日は徹宵で傍受しました。が、成功しませんでした。

翌日の昼過ぎ、和訳担当兵が、「九十九里」の単語の入った無線電話を傍受することに成功しました。制海権を握っている安心感からでしょうか、捕捉した通信は、生文で僚艦と連絡をしているものでした。東経141度、北緯34度付近の座標○○の位置と、東経139度、北緯33度付近の座標○○の位置（八丈島の西、約100kｍ）であることが分かりました。

おそらく夕暮れを待って、北の位置を航行する艦が九十九里沖に達するものと思われます。隊長にそのことを報告、私達は出撃しました。

私が「敵潜水艦の南から回り込み、後をつけましょう」とＴ曹長に言いますと、Ｔ曹長は「よしわかった。三宅島あたりを高高度で旋回しながら待機する。潜望鏡は死角が多いから、上空の我が機は発見できないだろう」

基地に対して、次の交信を逃がさないようにワッチするよう連絡をいれました。付近は米軍機の哨戒も厳重にする必要があるので気が抜けません。しかし基地から連絡が入りません。時間が経過するにつれ、私が苛立っていることをＴ曹長が察知したのでしょう。「せいては事を仕損じると言うだろう。ゆっくり待とうじゃないか」と諭されました。

すると突然、基地から「白子海岸の南、約100km、座標○○」と、怒鳴るような声で通報がありました。
「よし、行くぞ、汚い戦術を使う相手には、情けは無用だ」今日の曹長は人が変わったように見えました。

双眼鏡で観ると潜望鏡深度で一隻の潜水艦が北に向かっています。基地に対し、「敵潜発見、座標○○」と通報を入れました。黄昏どきで西日がやけに眩しく双眼鏡のレンズに反射します。

敵潜は海岸線から50Kmほど離れた沖合いを北北西に航行しています。気づかれないように、後方を1,000mの高度で旋回しながら追尾しましたが、相手は気がついていないようです。

基地から「海軍の魚雷艇が出動した。見逃さないように監視せよ」と通報があり、「了解」と返電していると、潜水艦が陸に向かって針路を変え、海岸から10kmぐらい離れた沖合いで浮上し始めました。

完全に浮上したところを、艦尾のスクリュウ付近と潜望鏡を目掛けて機関砲を斉射。直ぐに急反転して艦橋を狙い撃ちしましたが、相手にとっては運悪く、それは艦橋のハッチを開けたときでした。

我が機がつけていることを全く知らなかったのでしょうか、慌ててハッチを閉めようとしますが、壊れた潜望鏡の破片が挟まったようです。急速潜行していますが、艦橋が水面まで沈んだとき気泡がブクブク出ています。

それを見て曹長が、「ハッチが完全に閉まらないようだ。再び浮上するから、大砲と高角砲の位置を確認せよ」潜水艦はほどなく浮上しました。そこを狙って、先ず大砲を、反転して高角砲を狙い撃ちしましたが、敵潜水艦は手も足も出せない状態です。

甲板のハッチが開き2.3人の水兵が高角砲の砲身カバ－を開けようとするところを狙い撃ちました。
水兵が海に転げ落ちるのが見えましたが、砲は使いものにならないほど大破しています。

最初に撃った大砲にも数発の弾が当たっていると思われますので、反撃してくるとすれば、小銃しかありません。状況を詳細に基地へ通報しましたが、海軍の魚雷艇はまだ到着しません。

甲板のハッチから自動小銃を持った水兵が現れ撃ってきましたが、低空を高速で飛行する我が機に立ち向かうには、一丁や二丁の小銃では到底歯が立ちません。曹長が「そっちが未だやる気なら、トコトンやるぞ」と言うなり斉射をかけ、何人かの兵が海に落ちました。

艦橋の壊れたハッチが開いたので、そこを目掛けて狙い撃ちをかけましたが、暫くして白いものを振りながら1人がでてきました。多分艦長でしょう。どうやらギブアップしたようです。

基地へそのことを通報するとともに、敵潜水艦は降伏したので魚雷攻撃をしないよう海軍側へ連絡するよう、あわせて依頼しました。空での戦いは何度も経験しましたが、対潜水艦はこれが最初で最後の経験でした。
&lt;/pre&gt;

&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;３７ミリ機関砲といえばこれを食らった艦船はひとたまりもない、特に潜水艦などは攻撃後には潜水できない状態に置かれる。２０ミリ機関砲でも当たれば大穴が開く、このような大口径砲では攻撃を受ける側は悲劇である。北朝鮮の不審船は海上保安庁に追いかけられて最後には２０ミリ機関砲で沈められた、機関砲は恐ろしいほどの威力を発揮するこわ～い兵器である。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dricamenenguetti/58495682.html</link>
			<pubDate>Mon, 13 Oct 2008 09:41:24 +0900</pubDate>
			<category>アジア情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>日本はいかに戦争に駆り出されていった文部省の記録</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;a href=&quot;http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/edu/03.htm&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/library/edu/03.htm&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;掘＼簑仄腟舛塙長餠軌&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;日本近代史の教育の場面ではドイツのプロシャ思想が取り入られた、記事でもあるようにプロシャ思想というものは絶対的な専制君主思想で他の意見を受け入れないものである、それを戦前の文部省は取り入れ受け入れた、富国強兵という国の目的にしっかりと合致する思想だった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;しかし敗戦で何もかも変わった、アメリカは戦前の日本を否定した、これからはアメリカ式の民主主義で生きていくことと定められた。この決まりに根強い抵抗勢力が存在した、右翼である、この右翼から多数の派閥が生まれ喧嘩しながらも現在に到っている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;沖縄の集団自決問題で文部科学省が沖縄住民の抗議を受けて、教科書の記述を見直す姿勢を見せた、これに猛烈に反発したのが右翼である。日本軍の関与は確かにあったというのが沖縄住民の意見だが、右翼はそんな証拠はない、馬鹿げた主張であると意見で反発している。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;戦前の思想の流れを汲む右翼はドイツのミリッタリズム思想である、文部省が国の根幹であると定めた思想に固有して一歩も引き下がらない。戦後にアメリカが否定したことに反発して、軍の関与など存在しないと強硬である。戦前の国民はこのドイツの軍国主義に侵され思想で教育を受けていた、その集大成が陸軍省から昭和１６年に発行された東條英機著書の「戦陣訓」だった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「汝臣民は戦闘で敵を撃破すべし、また生きて虜囚の辱めを受けず、これまでとなったら潔く自決すべし」、この教えを国民は守ったのである。文部省の教育は軍に伝わり、軍は戦いの心得を兵隊と国民に強要した。軍の関与はなかったということは、文部省が嘘をついていたことになる、「そんな教育はやっていない」と言うのと同じで今更白々しいではないか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dricamenenguetti/57628619.html</link>
			<pubDate>Sun, 10 Aug 2008 14:39:44 +0900</pubDate>
			<category>アジア情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>日本の戦争、誰も振り返らない過去、鬼が笑うか</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-dd/dricamenenguetti/folder/1400451/05/56448205/img_0?1538486269&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_224_158&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-dd/dricamenenguetti/folder/1400451/05/56448205/img_1?1538486269&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_362_246&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-dd/dricamenenguetti/folder/1400451/05/56448205/img_2?1538486269&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_216_149&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;野ざらしにされ風化した人骨 　●大石橋・万人坑&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;強制連行・強制労働そして万人坑&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;中国東北部、吉林省を流れる松花江の上流にある豊満ダム。日本人の監視の下に、一日１万人以上の中国人が１２時間もぶっとうしで働かされた。ここでも多くの中国人が殺され、その数は１万人にも達した。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;indent&#039;&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;
日本はここから１千万トンものマグネサイト鉱石を略奪し１万７千人の中国人の命を奪った。「万人坑」は軍隊と警察と協力した日本企業による日常的な犯罪であった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;日本の戦争を過去形で語るのが普通である、中国は共産党政権で日本では悪党呼ばわりされている。では日本は戦前は中国ではどうのように行動していたのか、日本は朝鮮と満州そして台湾が植民地だった。日本経済は戦争でかろうじて維持していた、中国は日本の生命線と呼ばれ大規模な資源の収奪が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;この万人坑は日本企業の所有のひとつで支那人労働者（苦人クーリー）の墓場だった。強制労働で倒れた支那人はここに埋められた、中国東北部（旧満州）には多数の万人坑が存在し現在は歴史記念館として公開されている。この施設は日本軍と企業が一体となって国策で行われたもので当時の有名な人間として安倍晋三元総理の祖父の岸信介元首相がいる。この万人坑を描いた歴史的な小説があの有名な五味川純平の「人間の条件」である。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;現在の日中関係を考えるときに日本は過去の忌まわしい歴史を忘れている、だが中国側は忘れてはいない。マスコミは中国のことを悪く書くがそのマスコミが戦前は国策として中国侵略を後押ししていたのは皮肉である。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dricamenenguetti/56448205.html</link>
			<pubDate>Thu, 22 May 2008 07:38:16 +0900</pubDate>
			<category>アジア情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>映画　「南京の真実」　の大嘘、国民は騙されてはいけません</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;1937年の時代にタイムスリップして南京事件を撮影してきた驚異的な映像、というのが映画「南京の真実」の宣伝文句である。違うの？だろうなあ、タイムマシンなんて空想の産物ということは誰でも知っている。だから映画も空想の産物なのだ小学生でも分かる理屈、ハリウッドのＣＧ映画のほうがまだ楽しめる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;この手の映画を作るのは右翼団体と相場が決まっている、右翼にも色々ある、偽装右翼、にせ右翼、風見鶏右翼、マスコミ右翼、在日右翼などなど。自分は思想は右翼的だと思ったらどれに当てはまるか考えるのも楽しい。真性右翼はダイヤみたいに貴重で日本ではほとんどお目にかかれない、真実の愛国者だからだ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;現在保存してある71年前の記録フィルムをつなぎ合わせてもろくな映画は作れない。戦時中はアメリカは戦意高揚のために盛んに反日映画を製作している、中国で日本軍が何をしたかというもので、私の記録ライブラリーには多数のその反日映画が保存されている。なんといっても圧巻は日本軍の中国全土の爆撃の様子だ、南京市は日本軍から地上攻撃される前に徹底的に爆撃されている。当時の爆撃隊長が日本の雑誌の座談会でおよそ300トン以上を南京市に投下したと述べている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;映像のインパクトはいつの時代でも大きいので中国もアメリカと共同で日本軍の悪辣さを盛んに映画で見せようと苦心している。つまり過去の日本は米中に包囲されていることになる、それに反発する勢力が日本に大勢いる。そのひとつが上記の映画「南京の真実」だが、惜しいことに当時の日本人はほとんど死に絶えて生き残っているのは数えるほどしかいない。だから私が大笑いして冗談が過ぎると言うのである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dricamenenguetti/54449251.html</link>
			<pubDate>Mon, 28 Jan 2008 15:47:13 +0900</pubDate>
			<category>アジア情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>常識のすすめ、中国の南京大虐殺記念館、日本人は当時現地には誰もいなかった</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;右翼の低脳問題&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;大虐殺は中国の政治プロパガンダで反日政策、日本人はそう主張したり書いたりするが、では当時現場にいて確認したのかと問えば、全員確認する必要はないと答える。おかしな話だ、７０年も前の出来事を嘘だと証明する証拠を何一つ示さないで、嘘だとなぜ決めつける。無罪を証明できなければ限りなくクロ、戦争も犯罪も同じことだ、日本人は当時現場にはいなかった、いた人間はほとんど死んでいる。年老いた元日本兵は何も語らないなぜだ。死ぬ年齢になればどうでもいいことだからだ、当たり前のことさえ理解できない人間。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;広島・長崎の原爆資料館をアメリカ人が反米プロパガンダで、でたらめだと発言したらどうなる？アメリカ人は当時は日本にはいなかった。無罪を証明できないからクロである、南京も同じだ。シナ人はすべて反日だからと頭に刷り込まれた右翼、その反日の原因を作ったのは日本人だとは彼らは考えもしない。そこまで考える脳味噌は最初からない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;左翼の悪辣ぶり&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;中国は戦時中の日本が残した無数の犯罪の証拠を歴史博物館として保存している。これは政治的な作戦で日本叩きに使うためである、ゲームセンターにあるモグラ叩きと同じで国民の教育用に、そして日本の左翼の教師が生徒を修学旅行で連れてきたときに見せる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;中国を観光で訪れた日本人は中国側に丁重に案内されて日本の犯罪の歴史を説明されて写真を見せられる、金を払って観光で訪れたのに不愉快なものを見せられる。ふざけるな二度と中国には行くかと思う人も多い、これは巧妙な中国側の宣伝で日本人に金を使わせて物を買わせて、さらに罪悪感を植えつける作戦なのである。日本人に同じことをやれと言ってもできる芸当ではない、日本人は世界一お人よしで正直だからだ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dricamenenguetti/54255555.html</link>
			<pubDate>Thu, 17 Jan 2008 15:36:15 +0900</pubDate>
			<category>アジア情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>戦争は政策としての国の手段ならば、あまり割りのいい手段ではないと思う</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;アメリカ政府はイラクでの戦死者が減少していると報告した、戦争経済が国の政策の手段になったのならば、戦死者は星条旗に包まれて帰国し国民は仕方がないと諦めるのだろうか。イラク戦争は間違いであったとベトナム戦争と同じように評価してそれで終わりか、死んだ国民をどうしてくれる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;日本はこのアメリカを人事みたいに考えたらそれは間違いである。戦争経済の先輩は日本だからだ、日本は中国で１５年も戦争をした、太平洋戦争開始までに実に４０万以上の戦死者を出しながら、国民には知らせないで鬼畜米英と戦闘状態に入った。そして戦争に敗北して国ではなくなった、戦後の日本はセミの抜け殻と同じでただ脱皮を繰り返すだけになった。アメリカは４年あるいは８年ごとに国の政策を大きく変更できる、しかし日本はそれができない。国民が重度の脳軟化症に陥っていて少しの変化も嫌うからだ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dricamenenguetti/53994393.html</link>
			<pubDate>Wed, 02 Jan 2008 21:52:13 +0900</pubDate>
			<category>アジア情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>昭和7年の中国での日本軍の行動</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;平頂山虐殺事件遺跡記念館が新たに開放　撫順市 &lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;遼寧省撫順市にある平頂山虐殺事件遺跡記念館が2年以上の修繕と増改築工事を経て、虐殺記念日の9月16日に新たに開放された。増改築後の遺跡館つまり遺骨池は、元の1120平方メートルから2137平方メートルに拡大された。旧日本軍は75年前の1932年（昭和7年）9月16日、老人、女性、子供を含む無防備な一般市民3千人以上を平頂山の麓に追い込んで集団大虐殺を繰り広げ、また死体を焼くという驚愕の「平頂山虐殺事件」を引き起こした。 &lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;indent&#039;&gt;
「人民網日本語版」2007年9月17日（人民日報記事）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;
中国は確かな証拠を持っている、我々日本人はこれどう対処すべきか。中国各地に多数あるこの虐殺の痕跡は現在は記念館として開放されている、反日教育ではなく歴史の事実を見つめよと教育している。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dricamenenguetti/52072269.html</link>
			<pubDate>Tue, 18 Sep 2007 11:18:12 +0900</pubDate>
			<category>アジア情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>日中戦争の歴史、極東交際軍事裁判で証言しなかった双方の当事者の証言その３</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;b&gt;三光作戦の実態&lt;/b&gt;　　&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;矢崎新二（１９９８年東京にて）&lt;br /&gt;
こんにちは。ご紹介に預かりました中国帰還者連絡会の矢崎でございます。丁度李徳祥さんが証言なさいました、あのような日本軍の残虐行為が行われたその時期に、私も日本軍の一員として、山東省に侵略しておりました。李徳祥さんが証言された事件そのものが、私自身の罪状であると深く反省するとともに、ここで改めてお詫びを申し上げる次第です。 &lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;三光作戦という言葉&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;さて今日のお話の中で三光作戦ということですが、すでに李徳祥さんのお話の中に三光作戦の事実というものはありありと赤裸々に語られております。大体、三光作戦という言葉はなかったのですね、今東大の藤岡という馬鹿者、軍国主義の亡霊みたいな男ですけれど、彼は当時三光作戦なんて言葉はなかったと言ってますが、確かにありました。しかし、当時あったのは、「焼くな・犯すな・殺すな」という指示でございます。それは私が中国を侵略した時期のちょっと前から使われました、太平洋戦争が始まりましてからその言葉が使われるようになった。それまではほとんど、古い兵隊に聞きますと、そんなことを言われたことがなかった。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;なぜ、それでは「焼くな・犯すな・殺すな」という言葉が出たんだろうか。それは日本軍が今まで散々焼き尽くし・奪い尽くし・殺し尽くすという残虐の限りを尽くしたことで、今度また太平洋戦争ということで戦線を南へ拡大して行った。従って、中国の戦線というのは、従来の進攻拡大というのでなくて現在蟠虫居しているその鉄道沿線とそれから重要な石炭、鉄鉱石等の地下資源、穀物資源、こういったものを確保するための後方（兵站）基地となり、従って日本軍が侵略している地域においては、住民の反感を買わないようにするということで、「焼くな・犯すな・殺すな」という指示が出された。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ところが、では、どうだったのだろうか。この「焼き尽くす・奪い尽くす・殺し尽くす」、この事実はちっとも変わっておりません。上坂勝、このところ何回かマスコミにも出ておりまして、彼は「焼き尽くす・奪い尽くす・殺し尽くすというのは、愚かな兵がやったことである、私は焼くな・犯すな・殺すなと指示をした。それに付け加えて『かすめな』（註１）と指示しました。」と述べております。しかしその事実はより組織的に、より徹底的に行われました。 &lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;（註１）「かすむな」とは「掠（かす）めるな」、「掠奪をするな」の意味。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;焼き尽くす、奪い尽くす、殺し尽くす&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「焼く」というと家を焼くということか、家を焼くというふうにお思いになるでしょうが、私だってそうです。我々が作戦行動なんかに行きますと普通の部落に泊まります。夜中にちょっとおかしな状況がありますと、この部落は敵性部落だと言うことで、朝部落を出発する時に軒先に火をつける。それをやっているだけではありません。日本軍が泊まった部落では必ず食事を作ります、そのためには必ず薪が必要です。農家のことですから木の根っこ等がいろいろあるのです、しかしそういうものは使いません。 すいさんは机、椅子、タンス、長持ち、そういったものを片っ端から使用します。それを炊爨用に使います、ひどい時になると農機具を焼いてしまったり、時には大車（ターチョ）といいまして牛で引く大きな車があります。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;京都の時代祭りで引くようなああいうガッチリした車です、これを壊して燃してしまいました。日本軍が行動すると毎晩それをやるわけです。全く焼き尽くすの被害以外の何物でもございません。ただ家を焼くだけではないわけです。そういう生活の手段一切を焼いてしまっている。これが私達の行った侵略行為です。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;労働力の確保、これもやりました。ちょうど私が中国を侵略した１９４２年の秋に人間狩り作戦というのが行われました。その時の命令が１７歳から４５歳までの男子は全部逮捕すべし。断髪の女性は逮捕すべし。逃げる者、反抗する者は射殺すべしという命令が出ました。それで山東半島を一斉に押し上げましてその中から片っ端から捕まえよう、これが強制連行という形でもってその中の人たちが日本に送られ、あるいは満州に送られました。私はその作戦中、ある部落に入って部落の一軒の家に行くとその庭先でお百姓さんが高粱殻を干す作業をしておりました。見つけると、私はダーっと飛び込みました、ダッダッダツーと張り倒したんです、お百姓さんはびっくりして地面に頭を擦り付けながら「私は百姓でございます。なにも悪いことをしておりません。」と言って動こうとしません。「来（ライ）　」来い、と怒鳴りつけ引き立てようとしました&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;その大きな声に驚いたのでしょう、家の中から奥さんと思われる人が飛び出してきました。凶悪な日本軍に連れて行かれるとどうなるかわからない、そう思った奥さんは家の中に飛び込んですぐ出てきまして、新しい“シエ”、布製の靴と、“ジャミー”と言いまして高粱の粉をのばして焼いた食料ですが、これを持ってきて、今、引き立てられようとするご主人の腰の方にしがみついておりました。私はそれをふんだくって投げつけました。そしてそれを踏み付けながら「貴様皇軍の前でいちゃいちゃしやがって」と奥さんを突き飛ばしました。凶悪な日本軍に引き立てられるとどうなるか分からない、その安否を気遣いながら、新しい靴と（主人が履いていた靴はもうべろんべろんに破れて指がとびだしておりました）、食料を持って来た。この奥さんにいちゃいちゃしやがってと…、このようにして奥さんを突き飛ばしてご主人を引っ張り出しました。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;たまたま、この作戦の中ですぐ隣におりました第５中隊中隊長は山本金吾と言いますが、八王子に帰られまして５年ほど前に亡くなられましたけれども、ここでもって断髪の女性を逮捕していました。中国では女性はみんな娘さんの時にはおさげにしております、結婚すると後ろに束ねます、断髪の女性というのは軍の関係者ということでございます。従って断髪の女性を逮捕する必要性が出てくる。その第５中隊の兵が集めた中に断髪の女性が赤ちゃんを抱いていたのです。２日目になったら当然乳も切れる、赤ん坊もわんわん泣きます。お母さんはむずかる子を一生懸命あやしながら皆に付いておりましたけれども、突然狂ったように隊列から離れました。その時中隊長は隣におりました当番兵にただ一言、「撃て」。当番兵はパーンと一発撃ちました。当然のことながら至近距離ですので、その母親と乳飲み子を血に塗りました、たった一発で。大地に飛び散った血潮の光景は、今日でも私の脳裡から離れません。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;これは小生のことです、このようなことが至る所で行われています。すでにご覧になったかもしれませんが、私どもが帰って来た後出版しました『三光』という本の中で神奈川県の大木仲二という軍曹が同じことを書いています。全く同じ状態です。ただ奥さんが持ってきたのが、私の場合は食料と靴でした。大木仲二の場合、奥さんが持ってきたのは食料であります。それは当然私と大木がやっていたことなのでして、至る所でそのようなことが行われていたということです。従って日本軍の行いました「焼き尽くす・奪い尽くす・殺し尽くす」という行為は日常茶飯事のように行われていたということです。このような行動を中国の方々は「焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす“三光作戦”、“三光政策”と言っているのです。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ですから、当時そのような言葉はありませんでした。“作戦”というのは大隊の作戦等で使います、１８秋魯東作戦、１８春太行作戦（註２）とかすべてそのように言っていて、三光作戦などという言葉はございませんでした。もちろん、日本軍が行ったそのようなすべての行為を中国の方々は「焼き尽くし・奪い尽くし・殺し尽くす」、３つの事件として日本軍の行った行為を「三光作戦」であったと。今そのような事実を否定し、あんなことはなかったと否定し、日本の教科書からそれを抹殺するような馬鹿者がいます。そのようなことを許すことはできません。それからもう一つ、略奪のことで申し上げたいと思います。それは私たちが１９年（昭和）の９月に行いました小麦の収買作戦です。普通、略奪と言いますと、卵を取ったりナスとかキュウリを取ったりそして時には果物をかっぱらったり、そんなこと、これも略奪ですけれど、そんな単純なことではございません。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;われわれの行いました小麦の収買作戦というのは、お百姓さんが小麦の収穫を終わって全部それを刈り取って脱穀して積み上げる、そこを日本軍が、われわれが直接行って集めます。この作戦を行いましたのは、われわれの部隊の駐屯する山東省の東平という県城が中心でした。連日周辺部落を襲い、それで一軒一軒入って、そして積み上げてある小麦を袋に詰めてかっぱらってくる。ですから最初は、近くに朝行ってお昼に帰って、又午後から出かける。だんだん遠くなりますと、朝早く行って夜遅く帰ってくるという状況です。私ども機関銃中隊というのは直接集めません。われわれ日本軍のそのような行為を阻止しようとする八路軍、これを阻止するためにですね、大体部落の両側面に重機関銃を据えてこれに対置するわけです。一応、応援部隊なのです。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ところが、そこで私は何か目ぼしいものはないかと思って歩いている、フラフラある家に入りました。しかしそこにすでに兵隊が小麦を集めておりました。６０、７０才くらいのお婆さんがさかんに何か言っとるのですね兵隊に。私が兵長でしたので、その兵隊は私の姿を見ると敬礼をしました。そのお婆さんは私がよっぽど偉いと思ったのでしょう、いざるようにして訴えるのです。よく聞きましたら、家には病気の子供がいるんだ、したがってその子供の食べる分だけは残しておいてくれとこう言う。それは必死ですね。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;兵隊たちはそのお婆さんの態度に圧倒されるような形で手を休めていました。私はこれがシャクに障ったんです、手を休めているということが。いきなりお婆さんの肩をパット蹴っ飛ばしました「ウルサイナー、クソババアー」。兵隊二人はあわてて小麦を袋に詰めはじめました。私は前にある母屋の方に入りました。薄暗い部屋の中、奥の寝台に一人、６、７歳のいかにも病人と思われる男の子がぐっと体を起こしました。少年と私の目と会いました。その時、何とも言えぬいやな思いがしてそのまま戻ってしまいました。当時は何も考えませんでしたが、あの少年の生命はどうなったか、申し訳ない気持ちです。なお、この収買作戦には当時三井物産の支店長が参加しており、集めた小麦は物産の倉庫に納められました。&lt;br /&gt;
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（註２）１８秋魯東作戦とは１９４３（昭和１８）年秋、山東省東部地域で行われた戦争。１８春太行作戦とは１９４３（昭和１８）年に太行山脈一帯で行われた戦争。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;注記：「中国帰還者連絡会」は中国大陸で従軍した元日本兵の集まりである。その中には戦争途中で内地に帰還した者あるいはその後南方に転戦した者、共産党軍もしくは国府軍の捕虜で終戦を迎えたものなど様々に分かれる。共産党軍の捕虜になった場合には徹底的な思想教育を受ける、帰還兵は内地に戻り船から降りる際に中国共産党の歌を歌いながら隊列を作ったので、内地の人間は驚いて彼らは疎まれた事実がある。この証言は１９９８年のことだからすでに４０年以上が経過している、中国の洗脳もかなり薄らいでいる可能性もある。しかし命令だったとはいえ残虐行為は発言するのには勇気が必要だ。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dricamenenguetti/51753238.html</link>
			<pubDate>Mon, 03 Sep 2007 06:08:28 +0900</pubDate>
			<category>アジア情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>日中戦争の歴史、極東国際軍事裁判では出廷しなかった双方の当事者の証言その2</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-dd/dricamenenguetti/folder/1400451/03/51749303/img_0?1200915753&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_180_266&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;李徳祥さんの証言（１９９８年東京にて）&lt;br /&gt;
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&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;
先生方、友人、女性のみなさんこんにちわ。私は初めて日本に参りました。今日皆さんに伝えたいのは、５０年前、１９４２年の「５・１大掃蕩」のときの５月２７日にわが北坦村で起きたことについてです。私は自分の目で見たこと、そして私の家族が直接被害を受けたことを皆さんに伝えたいと思います。北坦村は定県にあります。ここは大平原地帯で隠れるところもありません。日本軍は頻繁に北田童村を攻撃し、三光作戦を行いました。私たちは日本軍と戦うため、そして避難するために地下道を掘りました。地下道を利用して積極的に戦いました。 &lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「５・１大掃蕩」の５月２７日、上坂勝の命令を受けて大勢の日本侵略軍が私たちの村に攻めてきました。大江部隊、黒田部隊と河野部隊などが一緒でした。一部の人々、民兵は地上で戦い、村民と近くの村の人々は地下道に入り避難しました。ところが日本軍は国際法に違反し、村民たちの避難所、地下道にたくさんの毒ガスを投げ込みました。軍民つまり八路軍と地方のゲリラ部隊そして普通の村人を合わせて１０００人以上を殺害しました。かれらは大惨劇を引き起こしました。「焼き尽くし、殺し尽くし、略奪し尽くす」事件を起こしたのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;５月２７日の毒ガス攻撃の具体的な状況をこれから皆さんに話そうと思います。当時私は２０才でした。私たちが日本軍と戦う武器は、ほとんど農民が自分で作ったものです。地雷や粗末な技術で作った武器で戦いました。当日は正規の部隊はあまりいませんでした。主に県のゲリラ、中国語で言えば県大隊、地方の武装力と区の民兵たちが日本軍と戦いました。日本軍は勝れた兵器で私たちと戦い、こちら側は武器は劣るが数時間頑強にわたり戦い結局、武器弾薬を使い果たし、地下道に入りました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;地下道の紹介をしますと、わが村の地下道は一番良くできていました。村だけでなく周りの村ともつながっていました。地下道のモデルになっていました。幅は一米、高さは人間の高さ位だが背の高い人にはやや低い感じでした。ゲリラ、県大隊のひとびとは抵抗できなくなって地下道へ入ったのだが、日本軍は周辺の村々を包囲して私たちの村へ追い込んだので、普通の女性、年寄りとか子供たちはみんな生活用品をもって地下道に入っていました。県大隊の人たちは普段であれば地下道を利用して日本軍と戦うことができるはずですが、人が多くて動けてなくなってしまいました。その後日本軍は地下道の入り口を発見してたくさんの毒ガスを投げ込みました。　私も地下道に入りました。だが多くの人が倒れていて動けない状態でした。人の上を這って進みました。洞内はあちこちで人の叫び声であふれていました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;そして私はまもなく気を失ってしまいました。やがて日本軍はよそから集めてきた人夫、苦力（クーリー）、捕らえた人々を使って私たちを引き出しました。私も引き出されました。まわりには８０～９０人はいたと思います。その中には生きている人も死んでいる人もいました。私はそのまま放置され気を失ったままでしたが、太陽の光線のまぶしさと空気の流通によって息を吹き返しました。日本軍は八路軍の武器を鹵獲するため地下道の至る所を掘りかえし、武器を集めさせたのですが、私自身はその人たちに引き出されたのです。地下道のなかは毒ガスが充満しています。その毒ガスを吸った後の症状としては、喉が渇き水が飲みたい、涙が出て、くしゃみがでます。私は地下道から引き出され、とても喉が渇き水がほしくなりました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;遠くないところにバケツがありました。そのなかに水があると思って、そちらへ這っていこうとしましたが、側にいた日本軍は飲ませてくれませんでした。「そこの子供！」と叫んで洞内にいる人たちを引き上げるようにいわれました。しかし、洞内にはまだたくさんの人がいて引き上げることもできません。それで私はまたバケツの方へ向かって這っていったのですが、日本兵はバケツをけり倒してしまいました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;バケツのなかには水はそんなにはなかった。私は地面の水を吸いましたが、二口もいかないうちに水は消えてしまいました。地上では日本軍は人と出会ったら直ぐ銃剣で殺しました。　日本軍はどうして私を殺さなかったかというと、「９・１８」の後、私は東北地方にいったことがあり少し日本語ができたからです。ソウヤンシンという人が引き上げられ、日本軍に殺されたところでした。日本兵はまた洞内の人たちを引き上げるよう命じました。私はもう動かず、殺されてもよいと肚をすえて「太君、私は腹が痛いです、ぜひ水を飲ませてほしい、許して下さい、もし飲ませてくれれば有難うございます」と話しました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;気を許した日本兵にやっと少し水を与えられました。私は２０才でまだ若くこうして命が助かりました。東北地方にいたときの話をすると日本兵はさらに私を信用しました。縛りもせず放っておかれました。&lt;br /&gt;
　私と一緒に地下道から出された人はとても多い。大部分は死んだ人ですが、生きている人もかなりいました。毒ガスにいぶされているがそんなにひどくなければ、地下道に入って武器や死体をだすように命じられ、早く死体や武器を出さないと殺されるのです。私のところでは大体百人以上が地下道から出されました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;王尚志の家の近くです。その家には井戸があります。大きな井戸ですが、引き出された死体がたくさん投げ込まれました。生きたまま引き出された人も日本軍は銃剣で刺し井戸に投げ込みました、これもかなりの数です。引き出された中には県大隊のゲリラの人もいますが、多くは普通の村民です。男もいれば女性も多い、子供、赤ちゃんも多い、これは全部私の見たことです。私は縛られなかったが他の人とくに青年、若い人は全部一本の紐で縛られました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;５月２７日の惨劇は北坦村で２日間行われました。２７日と２８日ですが日本侵略軍は、あらゆる手段で人々を殺害しました。私が実際にみた光景を話しましょう。男女の別なく樹に縛り上げ、銃殺せずに軍用犬を使って噛みつかせたり（通訳「李さんは立ってそのときの様子を演じてみせましたが銃剣で腹を割き内臓を出すとか本当に残忍なことをしました」）また妊婦たちを裸にして歩かせたり、歩かないと「や－っ」というかけ声とともに銃剣で切り裂き嬰児を引き出しました。捕まった女性は特別な年寄りを除いて強姦され、強姦の後多くの女性は銃剣で殺されました。これは全部私の目で見たことです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;名前を上げると許玉茹、笵勝竹とか。子供もたくさんいる。笵さん（笵勝竹）は何か月かの赤ちゃんを抱いたまま強姦され殺されました。赤ちゃんは何も知らずお母さんの血を母乳と思って吸っていました。日本侵略軍は毒ガス惨劇のとき、毒死以外にも残虐な手段で村民を殺しました。私が見たのは極くわずかなことです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;当時地下道の出口はたくさんあった、掘られたところもたくさんある、最後に生きた人を一か所に集めました。若い人、とくに男性は一つの列に並べさせて、子供、年寄りは別の列に並べさせ、年寄りたちは残されたままで一方へ押しやられては射殺され、人が多いものですから次々と一方へ押しやられては射殺されました。そこには幼児や年寄り１００～２００人いました。人々はそれを見てある者は逃出そうとして機関銃の掃射にあいました。一人も生き残れませんでした。青年、若者の労働できると思われる人は全部強制連行しました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;強制連行されたところは、日本、中国東北地方の撫順炭鉱、錦州などです。　２日間だけでしたがここで１０００人以上の死亡者が出ました。北坦村だけで３８世帯が全滅、子供一人の世帯とか年寄りだけの世帯も多いです。例えば私の家では私だけ残りました。６人家族でしたが祖父、父、、妹と弟が全部殺されました。　何故私を殺さなかったかというと先程もいったように、１９３１年中国東三省の瀋陽にいました。張作霖の時代です。苦力（ク－リ－）をしていたので私は少し日本語ができますのでこう言いました「私はお国の井原さんのところに勤めていました。また日本の企業に奉仕します」といったので殺されなかったのです。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;北田童村惨劇の張本人は上坂勝です。１９５６年に中国の瀋陽で、国際法廷が開かれました。当時私は法廷に出て証言しました。この法廷には上坂の他に小田二郎、藤田茂、鵜野晋太郎などがいて審判されました。私の証言に対しては上坂は一つ一つ認めました。またかれは、法廷に要望を出しました。「李徳祥先生の話は事実です、私を北坦村に渡してどうにでも処罰してほしい」。これは彼が自ら述べたことです。しかし法廷は１８年間の懲役刑にしただけでした。他の戦犯たち小田二郎、藤田茂、鵜野晋太郎、鈴木啓久らも後に釈放されました。私は当時、北坦村の青年抗日先鋒隊の隊長で、李親頤区青年抗日先鋒隊の副隊長でした。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;日本軍は中国侵略の事実をよく知っています。私たちは頑強に日本軍と戦いましたから５月２７日の惨劇のことをよく知っています。その日は日本軍と戦ったし、毒ガス被害を受けたし、その毒ガスの惨劇で北田童村だけで３００人以上の死亡者が出ました。先程も言いましたが全滅世帯は３８戸、年寄りだけ、子供だけ残った世帯も多かったです。当時１０才にもなっていない子供たちにとっては、お父さんがほしいのにお父さんは亡くなり、お母さんが欲しいのにお母さんが亡くなっている、そういう家庭がたくさん生まれました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;その後のことはとても大変でした。とくに年寄りと子供たちにとっては。今いろいろと考えています。日本と国交を回復して二十何年になります。多くの平和を愛する日本の皆さんがよく北坦村に来てくれます。１９４５年に毒ガス事件で死亡した人を記念するために村で陵園、記念堂をつくりました。平和を愛する日本の皆さんは私の家に来ると記念堂を参観していきます。記念堂には記念碑があります。碑文には当時のことが記されています。中国と日本の交流の歴史のとても悲惨な時期が克明に記録されています。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;この記念堂も、５０年経ってボロボロになり、修繕しなければならなくなりました。よく保存しなければならないと思います。これからの中日友好のために、両国の青少年に両国の間で起こったこの悲惨な不幸な事件を伝えないといけないと思います。そのために村の人はとくに要望はあります。両国民の力で記念堂を立て直す事ができればよいという気持ちがあります。とても必要だと思っています。このことを訴えます。私の話は以上で終わります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dricamenenguetti/51749303.html</link>
			<pubDate>Sun, 02 Sep 2007 23:14:54 +0900</pubDate>
			<category>アジア情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>日中戦争の歴史、極東国際軍事裁判では出廷しなかった双方の当事者の証言その１</title>
			<description>&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;h1&gt;&lt;a name=&#039;section-1&#039;&gt;&lt;/a&gt;三光作戦のあった村&lt;/h1&gt;
１９４２年５月、日本軍は中国河北省定州市北坦村で毒ガス作戦を行った。日本軍は地下道に逃げていた村民や毒ガス中毒で苦しみながら地上に出た村民・民兵・八路軍兵士１０００余名を惨殺した。村人は事件の被害者のために烈士陵園をつくり、現在も事件の惨禍を語り伝えている。しかし、日本ではこの惨劇を知る人が余りにも少ないのが現状である。北坦村の悲劇を二度とくり返さないために、ぜひこのページをご覧いただきたい。 &lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;b&gt;北坦烈士陵園&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-dd/dricamenenguetti/folder/1400451/84/51747984/img_0?1198063005&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_180_128 clearFix alignLeft&quot;&gt;  &lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-dd/dricamenenguetti/folder/1400451/84/51747984/img_1?1198063005&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_180_128 clearFix alignRight&quot;&gt;１９５４年につくられた陵園は、広さが６９００平方メートルあります。入り口には「雖死猶生」と刻まれた門があります。´&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-dd/dricamenenguetti/folder/1400451/84/51747984/img_2?1198063005&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_265_180 clearFix alignLeft&quot;&gt;両側に木が植えられた道の傍らに井戸があり、ここにたくさんの死体が捨てられました。　&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-dd/dricamenenguetti/folder/1400451/84/51747984/img_3?1198063005&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 4&quot; class=&quot;popup_img_180_272 clearFix alignRight&quot;&gt;参道をまっすぐに歩むと、高さ３メートルの石碑があり、さ樟啓圓鯆錨蕕垢詒衒犬刻まれています。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-dd/dricamenenguetti/folder/1400451/84/51747984/img_4?1198063005&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 5&quot; class=&quot;popup_img_260_172 clearFix alignLeft&quot;&gt;  &lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-dd/dricamenenguetti/folder/1400451/84/51747984/img_5?1198063005&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 6&quot; class=&quot;popup_img_180_258 clearFix alignRight&quot;&gt;&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-73-dd/dricamenenguetti/folder/1400451/84/51747984/img_6?1198063005&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 7&quot; class=&quot;popup_img_260_160 clearFix alignLeft&quot;&gt;その奥にお墓があり、更に奥には犠牲者の名前が刻まれた碑があります。Ρ粒段を上ると祈念堂があり、一番奥の壁には壁画が画かれています。&lt;br /&gt;
絵は瀋陽の法廷の様子を画いたもので、日本人の連隊長が罪を認めているところです。この壁画や祈念堂は歳月を経て傷みが激しく、北町（現代の村の呼び名）では修築の予定です。二度と侵略戦争をしないという思いを込めて、日中友好の掛け橋として、私たちもカンパを募り協力しています。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;記念碑に刻まれた弔文&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;１９４２年の「五・二七」は、千を越える英雄たちの血が塗りこまれた一日だった。「五・二七」それは偉大な民族解放戦争が敵と相対峙した最中のもっとも過酷で悲惨な一日だった。群をなして人を襲った野獣－日本侵略者とその走狗は冀中の長期的統治をねらい、華北を統治し、トーチカを構築し、民衆に向かって血も凍る虐殺を展開した。定県の民族的愛国者－優秀な中国共産党員と、勇敢なる戦闘指導者、民兵、農民はまさにこの日、民族の不滅をかけて、獣どもと－日本鬼子と頑強に戦い、栄光的な死を遂げた。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;私たちは「五・二七」の惨状を永遠に忘れない。多くの乳飲み子が母とともに虐殺された。烈士の鮮血で赤く染められた黄土には、八百の死者が横たわり、臼邏の道々は埋まった。子らは親を求め、父母は子を探し、止めどもない涙でどの眼も真っ赤になった。恨みと傷心の日ー「五・二七」。だれがこの日を忘れられようか！親愛なる死者たちよ、あなたたちは、民族の自由と解放のために、日本侵略者による壊滅的な「蚕食掃蕩」を粉砕するため、私たちの故郷を守るため、勇敢にも武器を持って立ち上がった。－手製の銃、手製の砲、手榴弾、地雷で百倍も勝る機関銃、大砲、戦車毒ガス・・・をもつ敵と相対し、郊外で、屋上で、街路で、地道で戦った。銃弾の中、毒ガスが蔓延する中、一日と休まず激しく頑強に抵抗し、幾度となく敵の猛襲を撃退し、多くの敵軍と裏切り者を撃退、冀中の輝かしい戦いとして名を轟かせた。もはやあなたたちは私たちと離別したが、あなたたちの精神は永遠に伝わり、あなたたちの名は永久に残る。&lt;br /&gt;
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&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;不朽なる英雄たち、あなたたちの流した血は決して無駄ではなかった。あなたたちの血と生命は、ついに抗日戦争に最後の勝利をもたらし、私たちは勝利であなたたちを埋葬することができた。烈士のみなさん、永久の安息を迎えて下さい！私たちは必ずあなた方の血の跡を踏みしめ、あなた方が成し遂げられなかった事業を引継ぎ、独立と、自由、民主、統一、富強なる新中国をあなた方英霊に呈します。私たちは永久にあなた方を忘れぬよう、特にここ沙河南岸の根拠地ー北坦に記念堂を築き、千古にわたり痛悼します。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「五・二七」殉難烈士精神長存！&lt;br /&gt;
中国共産党万歳！&lt;br /&gt;
中華民族解放万歳！&lt;br /&gt;
殉難烈士万歳！ &lt;br /&gt;
趙樹光：撰　馮珍：書 李錫昌：監修 劉全：彫碑 范進：彫碑&lt;br /&gt;
中華民国三十五年（１９４７年）孟夏中浣建立　&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/dricamenenguetti/51747984.html</link>
			<pubDate>Sun, 02 Sep 2007 22:29:12 +0900</pubDate>
			<category>アジア情勢</category>
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