絞首縄 1948年

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上に載せた
The Asian American Psychological Association (AAPA)
によるOpen Letterは、先月10月、Columbia Universityの
Teachers Collegeで、PsychologyとEducationを教える
Madonna Constantine教授のオフィスのドアにNoose(絞首縄)がかけられていた事件に関し、AAPAが、沈黙と言う受身の姿勢をとるのではなく、相互の意思疎通、対話を行う事によってこそ心理的健全さが生まれると言う信念に基づき、人種差別を徹底に討論する事で、今、社会の現実として存在する人種差別と戦う団結精神を宣言したものである。

Noose(絞首縄)に関する事件は、上のOpen Letterにもふれられている様に、このアメリカにおいて、最近もう一つ、「Jena 6」の事件があった。

Noose(絞首縄)は、アメリカにおいて、Lynchingの象徴であり、人種差別の観念に基づき、有色人種に対し、白人が行う最も卑劣な脅しと殺人を意味する。

上に挙げた二つの事件を簡単に紹介すると共に、このNoose(絞首縄)とは、戦後日本で生まれ育った一人の日本人にとって、どの様な意味合いを持つのか私的見解を示す。

この紹介を含め1から23まである。

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「Jena 6」

Jenaは、アメリカの南部、Louisiana州に位置する町の名前である。人口の8割以上が白人が占めるこの町で、有色人種、特に
African AmericansとWhitesの衝突とその町に根強く蔓延る人種差別があからさまに浮き出されたのは、この町の高校生の事件がきっかけになった。

2006年、従来白人の生徒がたむろする樫の木の下で、
African Americanの生徒が、自分たちもその木の下で座る事を許されるかと副校長に尋ね、「モチロン何処でも好きなところで座っていよい。」と応えられ、その場で座った。
その次の日、その木には、Noose(絞首縄)が、かけられていた。
そのNooseをかけたとされる、白人の高校生三人は、その行為は単なる悪ふざけにすぎないと解釈され、わずか3日の停学処分を科せられただけに終わった。最初、校長は、退学処分にする事を勧めたが、それは、結局、教育委員会に覆されもっと軽い処分になったと報告されている。後に、単なる3日の停学だけではなく、それ以上の処罰を科せられたと言う報告があったが、いずれにせよ退学処分よりは、ずっと軽い処罰と言う事に変わりはない。

この事件をきっかけに、African Americanの高校生とwhiteの高校生の衝突事件が続き、最後にこの「Jena 6」が意味する事件は、16歳の6人の
African Americanの少年たちが、whiteの一人の少年を殴り蹴り、障害を与える結果になった。この白人の少年は、以前、African Americanの生徒たちとの衝突事件に関与していないと報告された。

何故この事件が、アメリカの国中で注目される事になったのかという理由は、この障害を加えたAfrican Americanの生徒たちが、少年としてではなく、大人の犯罪として起訴されるように進められた事にある。この事件を問題視する事は、6人の少年たちが犯した暴行を肯定しているのではない。暴行を犯した事は悪くはないとその犯罪を否定しているのではない。処罰されるべきとしながらも、何故その様に少年に対して大人の厳しい処罰を与えるように推し進められてきたのかと言う点にある。白人の高校生が、人種差別のまさしく脅威的象徴と言えるNooseを木にぶら下げた際に非常に軽い処罰を与えた事と対照的と言える。6人のAfrican Americanの少年に対する厳しい処罰は、まさしく南部に根強く蔓延る人種差別を浮き彫りにする象徴として国中の注目を浴びる事になった。

さらに、今年2007年の9月20日に、この不正な「Jena 6」処罰に対して抗議するためのデモ行進に多くの人間が国中からこの町に集まり行われた際、pickup(トラック)の荷台の端にNoose(絞首縄)をぶらせげて走る18歳の少年が現れた。

この事件の発端でもあるNoose(絞首縄)は、21世紀のアメリカにおいて、如何に白人による有色人種への脅威がいまだ根深く蔓延っているかを象徴するものとなった。

http://www.cnn.com/2007/US/law/09/19/jena.six.link/index.html#cnnSTCText
http://www.cnn.com/2007/US/09/21/car.nooses/
http://en.wikipedia.org/wiki/Jena_6
http://en.wikipedia.org/wiki/Jena_louisiana

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「Jena 6」事件が国中の注目を浴びデモ行進まで行われて間もなく起ったのが、今年、10月9日、Colombia UniversityのTeachers College
で、Madonna G. Constantine, Ph.D. 教授のオフィスのドアにNoose(絞首縄)がかけられていた事件である。

Dr. Constantineは、
「Addressing racism: Facilitating cultural competence in
mental health and educational settings」
と題する本のco-editorでもある。

http://www.wiley.com/WileyCDA/WileyTitle/productCd-0471779970.html

http://www.amazon.com/Addressing-Racism-Facilitating-Competence-Educational/dp/0471779970/ref=sr_1_1/102-3758177-8783330?ie=UTF8&s=books&qid=1193595587&sr=1-1

人種差別、文化の違い、社会構成による圧制などを教育の場で力説すればするほど、その教授にdeath threatの脅しの手紙を送られてきたりする事は、この21世紀のアメリカでも決して少なくはない。しかし、この事件の特徴は、African Americanの女性の教授のオフィスのドアに「Noose」がぶら下げられていたと言う非常に具体的な形で表現されたと言う点にある。

白人が集団で、自分の命令に服従しない
African Americanの首に縄をかけ、木に吊り下げ殺す。
「Noose」とは、アメリカの歴史において、まさしく人種差別とその脅威を象徴する。

Nooseをぶら下げた事は、「Jena 6」事件の発端の様に単なる悪ふざけと解釈する者は、無意識であろうとも、その歴史的脅威を理解していると言える。そういう歴史的脅威を認識せずして、悪ふざけの「冗談」のネタにはならない。

つまり、白人が、African Americansを対象に「Nooseをぶら下げる」という行いは、歴史的脅威を復元させると言う意図の他に何物でもない。それは、単なる「冗談」という者は、代々、自分の家族、友人が次々に縄に首をかけられ木に吊るされ目の前で殺されるという現実を己自身が体験した際、それが笑える「冗談」かどうかを判断すべきだろう。

http://www.cnn.com/2007/US/10/10/columbia.noose/index.html
http://www.tc.columbia.edu/faculty/index.htm?facid=mc816

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上に載せたのは、1948年に発行された
「The National Association of the Advancement for Colored People」
(NAACP 発音は、N Double A C P)
の会員証である。

NAACPは、African Americansの人権を守るために1909年に設立された団体であるが、その後、African Americansだけを対象とするのではなく、全ての有色人種を含め人種差別問題等に関して援助を行っている。

私自身、大学院生であった頃、その授業の教育内容が、文化、人種、民族の違いを無視した白人中心の授業内容である事を問題として、他の有色人種の院生と共にクラスをボイコットした際、NAACPに相談に乗ってもらったと言う思い出がある。

http://www.naacp.org/home/index.htm

今では、有色人種をPeople of Colorと呼び、Colored Peopleと呼ばれる事もなくなったが、NAACPの名称は、その歴史の長さを表しているとも言える。

上の1948年の会員証の「ITS PURPOSE」に、
6. To stop lynching.
と記されているところに注目される。

「lynching」は、言うまでもなく「lynch」(動詞形)の名詞形であるが、日本語のカタカナ語「リンチ」の集団で、暴力制裁を科するというのとは少々意味合いが違う。
「lynch」は、集団で、法的手続きを通さずして、「殺す」という意味である。生きたまま焼き殺す等、残虐な方法で殺す事を意味する。特に、首吊りにして殺すと言う意味を持つ。さらに、木に吊し上げ、首吊りにしてぶら下げるという事には、他の者への見せしめという意味もある。

「Noose」(絞首縄)とは、アメリカの歴史において、そういう深刻な人種差別と白人による底知れぬ残虐さを象徴するものである。

上の1948年の会員証に記された
「To stop lynching.」
は、如何に奴隷制度廃止後、そして、第二次世界大戦後も白人による人種差別観念に基づき、lynchingがアメリカで引き続き行われてきたかという歴史的事実を物語っていると言える。

そして、この1948年、昭和23年は、日本人にとって、
「Noose」(絞首縄)に関連し、非常に重要な歴史的意味合いを持つ。

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このアメリカで、日本人として、つまり有色人種の一人として生活する上で、白人が「Noose」(絞首縄)を見せ付ける事は、間違いなく人種差別による脅威として感じられる。

おそらく今のアメリカにおいて、アジア人に対するほとんどの人種差別は、「Noose」(絞首縄)と言う如実な表現ではなく、ぞんざいな態度、無礼という陰湿な潜行性のものが非常に多い。それ故、その無礼な態度が、人種差別からくるものかどうか分かりにくいという、ある意味では非常に悪質な面を持っている。ここで一つ大切な事は、如何なる理由であろうと無礼な態度を見逃してはならないと言う事であろう。そういう意味でも、AAPAが、人種差別を徹底的に討論すべきだと言う団結精神を示した事は非常に高く評価できる。

「Noose」(絞首縄)は、白人による人種差別の脅威となるという意味の他、第二次世界大戦後、日本に生まれ育った日本人の一人にとっては、非常に複雑な意味合いを持つ。
「Noose」は、第二次世界大戦と言う大惨事をもたらした人間が残した日本の歴史とその後の日本を象徴する一つとも言える。

上に載せたカードほど露骨に東條英機の絞首刑を予期したものは、戦中、東條を風刺したものの中でも珍しい。このカードにタコ糸のようなもので表現された絞首縄は、戦後、1948年、昭和23年、まさしく現実のものとなった。

Sugamo PrisonのPatch(ワッペン)として、戦後、商品化されたものにも、戦犯の絞首刑の象徴としての「Noose」(絞首縄)が表現されている。555と言う数字は、the 555 MP (Military Police)を意味するが、その555は、皮肉にもthe Nazi Partyの前身、
DAP (Deutsche Arbeiterpartei)に於いて、Adolf Hitlerの登録番号でもあった。(実際には、55番目であるが、創立者の番号を500から始める事により、党員の総数を多く見せる事にあった。)

自尊心が非常に高かったHitlerは、決して連合軍に絞首刑にされるような結果をもたらす事はなかった。戦犯が絞首刑にされる事は、本間雅晴陸軍中将の様に軍人として銃殺刑に処される事とは非常に異なる。敗者が、絞首刑にされる事ほどの屈辱はない。日本軍が誇っていた軍人の価値観から言えば、軍人として、絞首刑にされることほどの恥はない。しかし、それは、その軍人にとっての恥と言うだけではない。勝者にとって、敵の大将を絞首刑にする事は、単に戦犯としての処刑ではない。敵の大将を首吊りにして殺す事は、その無能な大将の指示に従ってきた国民への見せしめでもある。頭に位置していた東條英機を絞首刑にすると言う事には、如何に無能な人間が日本の頂点の座に居座っていたかと言う事を示す以上に、アメリカにとっては、日本人全体にアメリカの強さを誇張する非常に重要な意味合いを持っていたとも言える。アメリカに逆らえばこの様な悲惨な目に会うという見せしめでもあった。

軍人にとって、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という事は、常識である。勝者が牛耳る裁判で、如何なる理由を述べようが無駄な事は、子供の喧嘩でも分かっている事だろう。戦争に於いて、「正義」と言う定義は勝者のみが決められる特権であるのは常識だろう。己が信条としていた皇軍の誇りの基準で言うならば、どうしても一つの疑問が生じる。もし死後の世界があるとするならば、同じ靖国に眠る数え切れない多くの自決を果たした兵士たちに、己自身は自決をしくじり絞首刑となり、数え切れぬ兵士たちが文字通り命を懸けて守ろうとした日本国に恥をもたらした事をどの様に弁解できるのかと言う疑問が生じるのは当然であろう。

所謂武士道を信条としていた軍人の基準から言っても、自決をしくじる事ほど恥はない。同じ拳銃による自決にしても、どうして口に銃口を突っ込み、脳幹めがけて一発ぶち込めなかったのかと言う疑問が残る。心臓を狙うのは、肋骨もじゃまして非常に失敗が多くなる。己の顔、頭をぶっ飛ばす事で、死後、無残な姿になりたくないという事から、東條の自決のしくじりは、己が最も優れ無敵と言う非常に幼稚な傲慢さと現実から離脱した己だけの閉ざされた世界観に生きると言うナルシシズムの病理の一面をあからさまに表したという皮肉さがある。この人間たちが信条としていた武士道を基準にして考えるならば、自決で最も重要となる事は、決してしくじらない事であろう。しかし、自決の際に於いても、最も自分にとっての関心は、己の屍の姿の美に関する意識だと言う非常に重度のナルシシズムを示す事になったと言える。己のみが中心となる歪んだ世界観を持った重度のナルシシズムに病む人間が、日本の道を選択する権力を握り、国民がその様な人間が政権を思いのままにする事を許していたと言う恐ろしさがある。

東條英機の絞首刑は、アメリカの日本への「見せしめ」という屈辱の象徴と島国日本で育まれた重度のナルシシズムの病理をあからさまにしたと言える。

そして、その絞首刑は、さらに、その以前、以後の日本の歴史にとって重要な意味合いを持つ。

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