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    ドクターSUDA 須田高正のゼロから300km/hまでの軌跡―17
 
           1981年の再挑戦4時間耐久レース
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   1,2,3位ライダーと私との7名での表彰式は、夢の集大成でした。

           焼入れマシンと1981年度のレース

 前年度の悲惨な結果を考え複数での参戦としました。また、前年度で課題であったリヤショックをレイダウン方式での作りでグレードアップさせたことと、フロントブレーキも同様にグレードアップさせます。
 複数マシンとは、炎上した焼入れ?マシンを復活させ、もう1台プラスさせた2台態勢であって、2台目のためのライダーを探しました。
 それは、たった1周でレースを終了させた前年度の教訓を糧にしての再アタックでしたが、前年度ライダーとの見解の相違いによってペアを組むことが出来なくなり、ライダー不足に陥ります。
 そこで、新たにライダー募集をしたところ、多数の応募があって最終的に6人が選ばれ、2人はスペアライダーと考えました。
 しかし、そのライダーとしてもスペアは嫌であって「何とかならないか」の懇願をもらいます。
 私もライダー人生を送って走ることへの情熱は分かっていましたので、折角応募してくれたのだから、頑張ってみるかと心を決めます。
 しかし、1度に3台ものマシン作りは大変以外の何ものでもなく、焼入れ?マシンの他に2台の手配は困窮を極めます。
 まず、1台は何とか入手できましたが、もう1台は何ともし難く中古下取車のGS400のフレームを改造してGSX400のエンジンを載せたマシン作りとなりました。(基本骨格は同じであるため可能)
 このGSX400エンジンは、スズキ株式会社からの提供品であって、それは、廃棄処分前のものでしたが宝物に見えたエンジンでした。
 真っ黒マシンと薄汚れた2台のマシンが入手できましたが、一般作業を行いながらの製作は、今現在であったら逃げ出す状況そのものでした。
 しかし、その時の私は若かったことと、この年は前年度と違ってメカニック1名がプラスされたので頑張れたのです。と言っても作業の大半は私1人でした。
 
                3台相手の格闘
 まず、最初は、真っ黒に焼けた1号マシンの再生からはじめますが、点火系、配線電気回りと、タイヤは当然として金属製品以外の全ての交換再生であって、通常であれば使用しないマシンですが、貧乏チームでは自分の体しか提供できない現実に頑張るしかなかったのです。
 これは、自分が選んだ道である為、後悔などの気持ちは一切無い作業でしたが、エンジンの再生を含め膨大な時間が必要でした。
 2台目2号車は、フロントフォークのオーバーホールとリヤショックの改良取付けなどの他には、1号車と同じ内容のエンジン・チユーニング作業など通常作業で済みましたが、3台目のフレーム改造を含めた「落ちこぼれ?」3号マシンは「泣きが入った」ほどの時間を要しましたが、何とか作り上げることができました。
 また、この時、オイルクーラー購入の資金が無かったために、少しでも冷却効果を上げるために、クランクケース等にハンドドリルによるタッピングホールを施して、表面面積を増やす作業をライダーを含めた全員で行いました。
 この様に苦労はしましたが、全員一致での泣き笑い作業の後に嬉しい結果を得ることができたのです。
 
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 軽量化のために3台ともキャストホイールからスポーク&アルミリムに変更して、フロントブレーキもスペシャルになりました。
 
 
 
 
 
 
 文字に書けば簡単ですが、この3台のために1夏で5キロほどの体重を減らしての製作作業は、悲惨悲壮そのものでしたが頑張りぬいたのです。
 また、鈴鹿出発の際に、まだステップが付いていないマシンが有って、慌てて作ったなど、ドタバタを通り越した内容での4時間耐久への出発でした。
これだからレースはやめられない
 焼き入れマシンと落ちこぼれマシンなどの3台態勢は、私の許容量をオーバーしたものでしたが、ヘルパーとライダー達がそれを補ってくれたレースとなります。
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まだ、ポリタン給油が許されていました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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1号と3号が並んでのスタート。2号はこの左側に居ました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 2番目に作り1番状態の良かった2号マシンは、耐久前に担当ライダーに渡っていて、すでに走らせていましたが、落ちこぼれ3号マシンは、鈴鹿での走りが最初であって未知数のままでしたが、その作りに対しての3台は、どれも差の無い作りであったためにそれほどの心配はしていませんでした。
 しかし、この様な体制であるため、予選などでの走りはセッティングなど様子を見ながらの走りであったために、ポールポジションは他に譲りました。
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 最高ラップタイムを出した焼き入れ1号車。Rショックの取り付け位置に注目。
 
 そして、全員でのレースは、クラッチレリーズ・トラブルのためにピット作業に時間を費やしてしまった焼き入れ1号車が、そのロスタイムを挽回するためにクラス最高タイムを出す等の頑張りをします。
 また、エンジンに多少の不満が発生した2号マシン(バルブが1番数多く曲がっていた)はライダーが頑張り、そして、落ちこぼれマシンの優勝と、製作順の逆に3台全てが表彰台に上る、1,2,3位の快挙は、走り終わって分かったことでした。
即ち、成績を考える暇などがない状態のレースであって、最終盤になって初めて、その順位が気になったレースでした。
 この時、2気筒ツインマフラーのために、その排気音は他と違っていて、その排気音から想像すると怪しいマシンと考えられてクレーム申請が出されます。
 ゴール後の分解検査は、疑われた悔しさと夢のような結果とが入り混じった分解作業でしたが、「ナ〜ンだ400ccだってヨ〜」のギャラリーからの1言を複雑な気持ちで聞きながら分解作業を終了させて、翌日の表彰台に向かったのです。
 
              GSX400E以後のマシン
 この80時代の4サイクル400ccは、パワー戦争とも言える時代に突入して4気筒エンジンが台等します。
 このため、何時までも2気筒エンジンがレースの世界で君臨できるわけではなく、私も4気筒エンジンにスイッチしてのレース活動を行い、そのノウハウが、ZZR-1100へと継続されます。
 また、この時期に、マイクロロンとの出会が、私の作業の幅を広げてくれたのです。この、マイクロロンの実際と様々なエピソードも機会を見つけて紹介したいと思います。
 また、その後のレースとボンネビルZZR-1100の苦悩裏話などを復活させる予定です。
              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                   緊急報告
 1994〜85年のエルミラージュ&ボンネビル参加のために多くの力添えを頂いた梶本誠氏が、急病のために7月21日に42才の若さで急逝しました。合掌・・・・・
 梶本誠氏は、モーターサイクリスト誌等で活躍していたので、ご存知の方も多いと思います。また、当時はロサンゼルスに滞在していたために、私のアメリカでの行動全てに手助けをしてくれた方でした。
 そこで、「梶本誠とのボンネビル行」と題して、前回で紹介しきれなかった内容を含め、違った角度からのボンネビル等での活動を出来るだけ早く紹介したいと思います。
 なお、梶本氏は、85年ボンネビルでのオートクルーズ事件の同乗目撃者です。
 (第6回にて紹介)
 
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ガソリンタンクにメインスタッフの一員として記入された MAKOTO KAJIMOTO
 
 次回に進みます

 

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一枚目の画像は正に社長の苦労が報われたことを象徴するシーンでしたね。
6月、前哨戦の雨の200キロレースで手応えは掴んでいたものの、ドライでのまともな全開走行は本番の2週間ほど前・・・
三台ともフロントのキックバックが発生し、鉄フェンダーへの交換などで対応するも決定打とはならず、「振られたら開けろ!」で対応したのを憶えています。
私にとっても実に思い出深いレースでしたが、今になって、この表彰台に至るまでの社長のご苦労の1割も解かっていなかった当時の自分の未熟さに、「ああしてれば良かった、こうしてれば良かった」と思うことがたくさんあります。
今更ではありますが、本当にありがとうございました。

2010/8/2(月) 午前 0:10 [ ぱらまた ]


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