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■東京二期会オペラ劇場公演――リヒャルト・シュトラウス「カプリッチョ」
2009年11月20日(金)19時開演 日生劇場
「カプリッチョ」は、1942年に初演されたリヒャルト・シュトラウス最後のオペラ作品である。会場の入口で観客に「演出家からのメッセージ」が配布された。その内容は次のようなものだった――。
1942年.ナチス政権の勢力が頂点に達していた頃、80歳のリヒャルト・シュトラウスは自身最後のオペラ『カプリッチョ』に取り組んでいた。言葉と音楽、オペラそのもの、さらには芸術全般を風刺したオペラである。もちろん音楽作品として価値のある遺産であることに間違いはない。しかし私は、演出家としてこの作品の中にもっと普遍的な足跡を見つけ出したいと思った。言葉と音符の中に単なる芸術表現ではなく、より人間的なメッセージが隠されてはいないだろうか? 1942年という年の政治状況を鑑みれば、シュトラウスにとって作曲活動は困難を極めたはずである。またこの年には旧友のシュテファン・ツヴァイクがヨーロッパの未来に絶望して自らの命を絶つという傷ましい出来事もあった。リヒャルト・シュトラウスは熟練に達した80歳という年齢において、私達に人生の遺産を残そうとしたのではなかったか。私が探りたかったのはそこである。(※改行は詰めた)
ナチス政権下のR.シュトラウスの立ち位置は微妙なものがある(それはこの作品の台本作成に協力した指揮者クレメンス・クラウスも同様である)。かつては、帝国音楽局総裁をつとめた経歴などから、ナチズムに迎合的だったという角度ばかりが強調されてきた。だが、ユダヤ人作家シュテファン・ツヴァイクとの共同作業による「無口な女」を作成したうえ、その後、同作品の上演禁止と総裁辞任などを余儀なくされたにもかかわらず、もともとツヴァイクの原案だった「カプリッチョ」を作品として仕上げたことについて、最近ではR.シュトラウスの「反骨精神」としてとらえる見解が提起されている(たとえば、山田由美子著『第三帝国のR.シュトラウス―音楽家の〈喜劇的〉闘争』世界思想社、2004年)。
演出家ジョエル・ローウェルスの問題意識も、そうした見方と相通じるものだろう。連合軍の空襲に見舞われていた当時のミュンヘンでの初演の際、作品の舞台はフランスに設定されていたから、今回の演出で「1942年、占領下のパリ郊外」に舞台が設定されたのは、読み替えとしては筋が通っている。前奏曲の部分で、いまはシャンデリアが下され、家具もひっくり返っている荒れ果てた大広間のある建物に、ポグロムをぬいつけた上着を身につけたユダヤ人の男2人が夜陰にまぎれて入ってきた後、しばらくして10人ほどのゲシュタポが追ってくる。あらかじめキャスト表を見ているとすぐ気づくことだが、冒頭の逃亡中のユダヤ人2人は、作曲家フラマンと詩人オリヴィエにほかならない。そして第1幕に入ると、大広間はそれよりかなり以前の時代に戻ったかのように、明るくエレガントな部屋となり、音楽家フラマンと詩人オリヴィエ、劇場支配人ラ・ロシュらが入ってきて、主人公の伯爵令嬢マドレーヌ、兄の伯爵などと、オペラ論と演目に関する論争をくりひろげる。その柱は「音楽が先か、言葉が先か」という、古くはグルックの時代からの議論(ブフォン論争)だった。だが、そこで劇場支配人ラ・ロシュは「人々の心に語りかけるオペラはどこにあるのか」という問題提起をおこなっている。それは、ユダヤ人の芸術家が亡命するか収容所に送られているかという状況にあり、上演作品にも著しい制約がもたらされていたナチス政権支配下の観客には、まさに「現在」への痛撃とうけとられる可能性もあったろう。ローウェルスの演出は、そのことを明快に可視化してみせる舞台だったとも言えるだろう。第2幕の後半で、時代がナチス占領時代のフランスに戻り、執事長と8人の従僕たちがゲシュタポの制服を着て登場するという趣向は、やり過ぎという批判がでるかもしれないが、ヨーロッパでセレブ社会を形成していたユダヤ人たちにたいするルサンチマンの現われを、端的に具体化したものととらえることができるのではないか。最後に、年老いたマドレーヌが舞台に登場し、往時をしのぶという演出にして、ナチズムが破壊したものの大きさを印象づける。もっとも、ナチス占領下のパリという舞台設定は、すでにロバート・カーセン演出などもあり、独自のアイデアとは言えないだろう。
演奏について。この「カプリッチョ」という作品は室内楽的なところが多いので、大きな会場ではなく、日生劇場くらいの広さの会場というのはよいのだが、いかんせん響きがデッドなので、オケには気の毒な会場でもある。そういう条件のもとで、沼尻竜典指揮の東京シティ・フィルの演奏は、R.シュトラウス作品の場合もっと色艶がほしいと思うが、起伏に富みなかなか健闘していたと思う。最近、R.シュトラウス作品を多く振っている沼尻竜典の好リードもあったろう。
歌手では、伯爵令嬢マドレーヌ役の佐々木典子が群を抜いている。この人はこれまでもR.シュトラウス作品に多く出演しているだけに、透明感のある格調の高い歌唱表現のうえに、長くウィーンで活躍した経歴を持つだけあってドイツ語の発音が優れており、伯爵令嬢の気品と感情の機微を的確に表す。とくに第2幕末尾の切々とした歌唱が見事。女優クレロンの加納悦子は、佐々木の陰にまわってしまった感があるが、発音が明晰で脇を固める。ソプラノ歌手役の羽山弘子も、伸びやかな歌声にくわえ、演技面でも面白く見せる。男声陣で良かったのは、作曲家フラマンの望月哲也で、持ち味のリリックな歌声でマドレーヌヘの恋慕の情を巧みに表現していた。他方、詩人オリヴィエの石崎秀和は、全体にややぶら下がり気味のうえに、発音がいま一つ不明瞭。劇場支配人ラ・ロシュの米谷毅彦は、声量は大きく存在感はあるものの、歌唱の粗っぽいのが気になった。テノール歌手役の渡辺公威は、最高音がきちんと出ておらず、羽山のソプラノ歌手と並んで歌うと、未熟さが目に付いたことは否めない。
いくつか注文をつけたが、R.シュトラウスが時代と格闘しつつ、それをオーケストレーションの職人的な精妙さにまぶした「カプリッチョ」という作品の魅力を感じとることができた舞台だったことは確認しておきたい。もっと上演されてよい作品だろう。
【データ】
指揮:沼尻竜典
演出・装置:ジョエル・ローウェルス
伯爵令嬢マドレーヌ:佐々木典子
伯爵、マドレーヌの兄:初鹿野剛
作曲家フラマン:望月哲也
詩人オリヴィエ:石崎秀和
劇場支配人ラ・ロシュ:米谷毅彦
女優クレロン:加納悦子
ムッシュ・トープ(プロンプター):大川信之
イタリア人ソプラノ歌手:羽山弘子
イタリア人テノール歌手:渡邉公威
執事長:佐野正一
8人の従僕たち:菅野敦、園山正孝、西岡慎介、宮本英一郎、井上雅人、倉本晋児、塩入功司、千葉裕一
エトワール:伊藤範子
男声ダンサー/兵士:原田秀彦
年老いた召使:久保たけし
3人の楽士(演奏):宮本玲奈(チェンバロ)、戸澤哲夫(ヴァイオリン)、長明康郎(チェロ)
管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
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僕は別キャストを聴きに行きました。釜洞祐子もなかなかの歌唱でした。ほか、ラ・ロシュの山下浩司、クレロンの谷口睦美、フラマンの児玉和弘が健闘していました。日生劇場はレトロで雰囲気はいいのですが、なにせ音がデッドですね。
2009/11/23(月) 午前 10:50 [ mar*in*bba*o ]
> martinabbado様。釜洞さんもR.シュトラウスでは定評があるので、拙者も聴きたいと思っていました。日生劇場は1960年代の名建築ですが、舞台の構造や、おそらく床のカーペットが音を吸収してしまうことから、残響がほとんどありません。R.シュトラウスにはきついですね。
2009/11/23(月) 午後 11:52 [ dsch1963 ]
こんばんは。ご指摘のとおり、床のカーペットがかなりの吸音効果を出してしまっているように思います。それと、舞台がかなり横に広いのには驚きました。
2009/11/24(火) 午後 9:51 [ mar*in*bba*o ]
わたくしも別キャスト公演に行きました。釜洞祐子は円熟の域に達し、歌唱、演技共に見事でした!プログラム写真でイケメンに、ついつい気になったオリヴィエ役の友清崇は役柄にピッタリで格好良かったです。フラマン役の児玉和弘と若々しいコンビが好印象でした。
2009/11/24(火) 午後 10:25 [ 紅葉マーク ]
> martinabbado様。日本の劇場や多目的ホールの舞台は、もともと歌舞伎の小屋を参考につくられたため、横に広いつくりの所が多いという拙を聴いたことがありますが、日生劇場はどうだったのでしょうか。
2009/11/25(水) 午前 0:14 [ dsch1963 ]
> 紅葉マーク様、はじめまして。釜洞さんは拙者も好きな歌手なので、そちらも聴きたかった…。若手の男性歌手が育ってくるのは期待したいですね。
2009/11/25(水) 午前 0:19 [ dsch1963 ]
なるほど、そういうことなのですね。日生劇場はきっとオペラ用のホールとしてでなく演劇用として作られたのではないかなと察します。レトロな雰囲気は、気に入りました。
2009/11/27(金) 午後 7:50 [ mar*in*bba*o ]
> martinabbado様。ご指摘のように、多目的だったと思います。初期には浅利慶太氏などもコミットしていました。ただ、オーケストラピットは、たしかベルリン・ドイツ・オペラの来日を想定してつくられたものだと聞きます。
2009/11/28(土) 午前 0:37 [ dsch1963 ]